秋と言えば、映画祭の季節であるが、政治・経済と同様に、映画祭も東京に一極集中の感が否めない。東京在住の映画ファンとして、その恩恵を享受する身ではあるが、やはり格差是正のためにも地方都市で魅力ある映画祭が開催され、多くの観客でに賑わうことは映画文化を支える上で不可欠である。
対馬海峡を隔てて韓国と隣接する福岡は、アジアの一部であることを東京以上に感じさせる都市であり、この地に根差したアジアフォーカス・福岡国際映画祭は、1991年にスタートし、今年で19回目を迎える。プログラムの魅力に惹かれて私が通い始めたのが2002年、今回は8回目の博多遠征である。
9月20日、シルバーウィーク2日目の朝は快晴に恵まれた。2泊3日の旅の始まりである。羽田から約1時間半のフライトで福岡空港に着くと、福岡最大の繁華街であり、映画祭の会場となる天神の街までは地下鉄で約10分。首都圏ではあり得ない程の利便性が福岡の魅力の一つであり、早起きして東京を発てば、朝一回目の上映にも充分に間に合う。
映画祭の会場は天神の西鉄ホールとエルガーラホールの二ヶ所で、両会場の間は徒歩で5分程度、実にコンパクトな映画祭である。二つの会場でほぼ同じタイムスケジュールで、それぞれ1日4本の作品が上映される。チケットは日時指定券ではなく、両会場の全作品に有効なため、熱心な映画ファンは1日4度の二者択一を迫られることになる。公式ガイドを見ながら、二者択一を楽しむのも本映画祭の魅力の一つであるが、私如き優柔不断な男には難問の連続である。
今回予め用意したチケットは前売り5回券が2式、計10枚。前売り5回券は4000円、つまり計8000円で10本観ることになり、1本当たりの単価は800円也。チケットが足りなくなれば、会場で販売している1回分1200円の当日券を買い足せばよい。作品の質やゲストによるQ&Aを考慮すれば、実にリーズナブルと言える。もっとも私の場合、往復の飛行機代と2泊分のホテル代がかかっているため、リーズナブルと喜んでもいられないが……。
今回2泊3日の旅のレポートを書くことで、薄給から飛行機代とホテル代を捻出してまで、私を毎年博多へと引き寄せるアジアフォーカス・福岡国際映画祭の魅力が少しでも伝わればと願う次第であり、甚だ恐縮ながら駄文にお付き合いいただければ幸いである。
以下、苦渋の選択の末、初日に鑑賞した4本を紹介したい。
『難民キャンプ』(トルコ)10:20~ 西鉄ホール
昨今、世界の映画祭を席巻するトルコ映画。本作も期待に違わぬ硬質な見応えある作品であった。
テロリストの濡れ衣を着せられ、国外逃亡を余儀なくされたクルド人青年シヴァン、彼はドイツの難民キャンプを訪れる。
本作は二つの矛盾を浮き彫りにしている。一つは、トルコ国内の未成熟な民主主義である。軍事政権の時代に比べれば、自由の枠は拡大したが、独立を求めるクルド人の過激派によるテロがあり、それを抑えるために人権は蔑ろにされ、多くの難民を生み出している。
もう一つは、難民を受け入れる側の不寛容である。様々な事情を抱えた様々な民族が命懸けで国外逃亡を図り、難民キャンプに駆け込むが、そこは“駆け込み寺”でない。極めて官僚的な施設であり、ルールに合致しなければ難民申請は容赦なく却下される。却下された場合、選択肢は二つ、送還か不法滞在である。決してドイツに限った問題ではない。
異国の地で、シヴァンに唯一人間的に接したトルコ人女性の通訳エリフが、弁護士を紹介するという職務外の行為により解雇されるエピソードが、難民対応の不寛容を際立たせている。
様々な民族が共存する難民キャンプは諍いが絶えない。チェチェン人はロシアによる弾圧のため国を出たと言い、一方ロシア人はチェチェンのテロにより住めなくなったと言う。難民キャンプは世界の縮図の様相を呈している。
左から1番目:レイス・チェリッキ監督 3番目:デルヤ・ドゥルマズ
9/20@西鉄ホール上映後、監督のレイス・チェリッキとエリフを演じた女優デルヤ・ドゥルマズを迎えてQ&Aが行われた。
チェリッキ監督は、トルコにおけるクルド人の状況と欧州の難民キャンプの取材に6年を費やしたという。トルコはまだ民主主義の建築の途中と監督は語る。
デルヤ・ドゥルマズは、ドイツ語はまったく話せなかったとのことだが、ボランティア活動を通して難民問題に高い意識を持っていたという。
地道な取材活動がリアリズムとして映像に反映される一方で、シヴァンの心象風景を斬新な手法を駆使して表現するなど、一筋縄ではいかない作品である。
これまでに撮った長編映画がすべてアジアフォーカスで上映されているチェリッキ監督は「私は福岡市民のようだ」と語る。その真摯な眼差しが印象的だった。
『あなたなしでは生きていけない』
(台湾)13:20~ 西鉄ホール
映画の冒頭、幼い娘を抱いて今にも歩道橋から飛び降りんとする男と、彼をカメラに収めようとするマスコミ、そしてそれを取り巻く野次馬たちを、カメラワークを駆使したモノクロ映像が捉える。これは2003年に台湾で実際に起きた事件を再現している。
娘を道連れに無理心中を試みた男の悲痛な姿は、台湾中に生中継され、多くの視聴者が固唾を呑んでテレビに見入ったが、数日後には既にこの事件は忘れ去られていた。
レオン・ダイと言えば、台湾映画を支える渋い役者であるが、彼は監督として誰も関心を示さなかった事件の背景にカメラを向けた。映画化に当っては、是枝裕和監督の「誰も知らない」に大いに触発されたらしい。確かに、実話をベースに子供の人権と尊厳に焦点を合わせた点は共通している。是枝監督が無責任な大人から見捨てられた子供たちにカメラを向けたように、レオン・ダイ監督は無慈悲な社会から見捨てられた親子にカメラを向け、事件に至るまでの経緯、事件の後日談から、テレビ報道の裏側を提示する。
高雄の港で、無免許ながら潜水夫として危険を冒して日銭を稼ぐウーシュン。別れた妻との間にできた娘メイと廃墟の倉庫に暮らしているが、7歳になるメイは戸籍がないために学校に通うことができない。役所に相談すると、ウーシュンに親権がないことを指摘される。かつて同級生だった議員に温情を求めて泣きつくが、法律の壁を容易に越えることはできず、次第に追い詰められていく……。
無慈悲な制度と貧困に翻弄される親子を、モノクロ映像で一定の距離を置いて淡々と描写する。被写体への装飾を排し、作品の色づけを観客に委ねるために、市場が縮小することを承知で、敢えてモノクロ映像を選んだレオン・ダイ監督の志は評価したい。
また、現在映画のフォーマットはフィルムからデジタルに移行しつつあるが、デジタルで映画を撮るという根本的矛盾に対する一つの答えを提示しているように思える。本作の映像はデジタルではあるが、コントラストを強調した数々のショットは、構図も練られていて、実に研ぎ澄まれている。特に、水中から空を見上げるショットなど、実に美しく、ウーシュンの喪失感を見事に表現している。デジタル映像と言えば無機質なイメージがあるが、ここまで映画的な叙情に溢れた映像が撮れることは嬉しい驚きである。
惜しむらくは音楽である。敢えて色彩を無くしたのだから、いっそ音楽も排した方がよかったのではというのが筆者の率直な印象である。感傷的な音楽が、被写体との距離感を曖昧にしてしまったために生乾きの感が否めない。
いずれにしても、演技ばかりでなく、レオン・ダイの映像センスにこれからも注目したい。
『さよならグルサルー』(カザフスタン)16:10~ エルガーラホール
1950年代のカザフスタンが舞台、共産主義の実現のために第二次大戦に従軍した忠実な共産党員タナバイは、荒涼とした大地で放牧を再開し、名馬グルサルーと出会う。駿足を誇るが、人間に媚びない荒馬グルサルーと、共産党に疑問を持ち始めたタナバイは、運命を共にするように苛酷な時代に呑み込まれていく…。
明確な政治的意図を持った作品であるが、まずは雄大な自然を捉えた力強い映像に圧倒される。広大な大地で自然と共存する遊牧民の生活と動物たちの生態を、セット撮影やCGなどを用いずにローケーション撮影で捉えた本物の映像の迫力は圧巻である。
昨年の東京国際映画祭でグランプリを受賞した『トルパン』のリアリズムの概念には思わず驚愕したが、本作も正にカザフスタン映画の面目躍如である。
本来自由な遊牧民の生活に共産党の政治的意図が介入し、自由を奪うことにより、物語は悲劇へと向かい始める。労働こそが喜びであり、それによって豊かな社会が実現することを信じて疑わなかったタナバイは、現実との相違に失望し、共産党の欺瞞が許せない。また、家畜を所有するという概念は真っ向から否定され、むしろ党に飼われる立場に甘んじていることも遊牧民としての誇りを奪う。
タナバイは決して聖人君子ではないが、共産主義を心のよりどころにしてきた愚直な男であり、一方で自由な生活を求める遊牧民の魂も失っていない。この大いなる矛盾が引き起こした悲劇は、共産党への盲信、懐疑、更に絶望へと転じる時代の流れをそのまま反映している。
名馬グルサルーは誰にも媚びない崇高な精神の象徴であり、人間に背いたことから去勢され、やがて息絶える不遇、そしてその気高さはソビエト共産主義に翻弄された人々へのレクイエムを静かに奏でている。
『テヘランの孤独』(イラン)19:20~ 西鉄ホール
テヘランを舞台に、違法にパラボナ・アンテナを設置する仕事を始めた男たちの姿を通して、社会の底辺に生きる人々の苛酷な生活を浮き彫りにする。しかし、その語り口は極めてコミカルである。
体にハンディキャップがあるが、口先が達者な電気技師のハミドと、イラン・イラク戦争に従軍したことが自慢の種である無口な長身のベールズ、見た目が凸凹で性格も対照的な二人はことごとく反目し、その掛け合いのズレが笑いを誘う。爆笑というより脱力系のゆるい笑いである。
世界4位の高さを誇るという通信塔ミラッド・タワーを背景に、ハミドとベールズがパラボナ・アンテナを抱える姿は、それだけで構図がユーモラスであるが、繁栄の象徴である巨大なタワーの足元には、その日の食事にさえこと欠く人々がいることを考えると、笑いが溜息に変わる。二人が安っぽいプライドを守るために、虚勢を張り合う姿もどこか痛々しい。
また、タイトルが示す通り本作は孤独を描いた映画である。言うまでもなくアンテナはコミュニケーションの道具であるが、アンテナを操りながらも、二人はコミュニケーションの空白を埋めることができない。大いなる皮肉である。
やがて、コミカルな語り口から転調して結末を迎えるが、ハミドとベールズを敢えて救済しない展開に、作り手のイラン社会への問題意識が垣間見られる。それは、上映後のサマン・サルール監督を迎えたQ&Aでより一層明らかになる。
中央:サマン・サルール監督 9/20@西鉄ホールサルール監督によると、イランでは現在も国民に与えられる情報が制限され、劇中で描かれている衛星放送用のアンテナは法律で禁じられているが、違法に設置する業者は後を絶たず、需要も多いという。また、インターネットにはフィルターがかけられ、閲覧できるサイトが制限されているらしい。
本作は反戦的な内容との理由でイラン国内では上映できないと語るサルール監督、まだ若く映画自体は発展途上の感もあるが、体制に媚びず、しかもユーモアを忘れない作風を更に発展させて、次回作を福岡に届けて欲しい。
(2009.9.27)
アジアフォーカス・福岡国際映画祭2009 (9/18-9/27)
『難民キャンプ』( 2008 / トルコ / レイス・チェリッキ監督 )
『あなたなしでは生きていけない』( 2009 / 台湾 / レオン・ダイ監督 )
『さよならグルサルー』( 2008 / カザフスタン / アルダク・アミルクロフ監督 )
『テヘランの孤独』( 2008 / イラン / サマン・サルール監督 )
- 監督:セルゲイ・ボドロフ
- アップリンク
- 発売日: 2004-12-23
- おすすめ度:
- Amazon で詳細を見る
主なキャスト / スタッフ
TRACKBACK URL: