映画『サーミの血』トークイベントレポート【1/7】
宮台真司(社会学者)× 榎本憲男(小説家・映画監督)
新宿武蔵野館、アップリンク渋谷にて絶賛上映中!ほか全国順次公開
北欧ラップランド地方の先住民族であるサーミ人の少女が差別に抗い生き抜く姿を描いた『サーミの血』を上映中のアップリンク渋谷で、9月20日、社会学者の宮台真司氏と小説家で映画監督の榎本憲男氏によるトークイベントが開催された。本作の配給・宣伝を行うアップリンクの担当者がイベントの企画理由として冒頭で述べたとおり、宮台氏が本作に寄せたコメントは、解釈の深さも言葉の難解さも他のものとは一線を画すものだが、分かりやすい言葉で語るトークも、私たちが暮らす社会や持っている感受性のルーツをひも解きつつ、大きな観点から作品を論じるものとなり、聞き終えると非定住民である主人公もとても近しく感じられていた。榎本氏の的確な誘導によってトークは白熱し、予定時間の30分の倍近くに及ぶものとなったが、途中で打ち切らなかった主催者と劇場の柔軟な対応にも感謝したい。知覚が揺さぶられる体験となったトークの模様を採録でお届けする。(取材:深谷直子)
知られざる迫害の歴史――幻想的で美しい自然の大地ラップランドに、サーミの歌が響く
1930年代、スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族、サーミ人は差別的な扱いを受けていた。サーミ語を禁じられた寄宿学校に通う少女エレ・マリャは成績も良く進学を望んだが、教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げる。そんなある日、エレはスウェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。トナカイを飼いテントで暮らす生活から何とか抜け出したいと思っていたエレは、彼を頼って街に出た──。
司会者 本日なぜこのイベントを企画したのかを説明しますと、この映画のパンフレットとホームページに掲載している宮台さんのコメントが、他の方と比べて特別なコメントだったので驚きまして(笑)、ぜひこの話をしていただきたいということで宮台さんをお招きし、榎本さんにもお話を聞いていただきたいと思って企画しました。
宮台真司《 誰でも老いれば自分自身のルーツを顧る。残り時間の少なさゆえ寛容な赦しに向かう。数多の事柄を仕方なかったと受け容れる。自律的自立(能動)から他律的自立(中動)へ。メトロノームに合わせて体を動かす我々。主人公の追憶で我々は自らの愚昧を知る。大規模定住社会にはそもそも無理がある…そんな予感に満ちた先進社会への贈物だ。 》
ご自分でもあらためて噛みしめていかがですか?宮台 これはさらに3倍の分量のコメントだったんですが、その最後の段落を抜いてもらったものが掲載されています。サーミ人というのは、ラップランド人とも言われている非定住民、遊牧民です。多くのコメンテーターは、この映画をアイデンティティものだというふうに理解をしていらして、それは間違いではないけれども真実の4割ぐらいで、この映画の最も重大な部分は「僕たちの社会がどう描かれているか」ということだと思うんですね。僕のコメントの全体部分は「所有」についてのものです。僕たちの定住社会は1万年ぐらい前から始まって、それを「定住革命」と呼んでいます。定住革命によって初めて「法」ができました。それ以前に人間の共同体には法はなく、単に生存戦略だけでやっていたんです。共同体のサイズが50人から150人というものでしたから。定住によって人が増えて、生産性が上がってどんどんストックができていき、ストック保全のために法ができました。つまりストックを誰がどう継承していいのかを定めるもので、これが「所有」です。法がまず定めたのは1対1婚、セックスしてもしなくても相手をお互いが所有しているという関係でした。この所有している関係によって、所有しているものを継承していくというのが最初の姿なんです。したがって、当たり前だけど、定住していない者にとっては「法」という意味、「所有」という意味が分からないんですよ。この映画の主人公の女の子は所有の意味が分からないんです。でもそれは、この女の子がそういうパーソナリティだということではない。多くの人が彼女はそういうパーソナリティなのだと受け取ったのだとすると、それはこうした歴史の知識がないからなんですね。遊牧民は基本的には所有が理解できない。彼らにとっては使っていなければ使っていいんです。それは人間関係でもそうで、夫婦と言ってもセックスしていないんだったら俺がセックスしてもいいんじゃないか?と、それがもともと人間の自然な感受性なんだけど、1万年前の定住によって所有を擁護する法ができて、ときどき本当のことを思い出すために祝祭、祭りをするようになりました。祭りというのはご存じのように無礼講であり、タブーの反対です。やっていけないことをやっていいんです。強者と弱者を反対にしてもいい、性別も逆転していい。もちろん乱交もOK。そういうことです。それはもともと僕たちがどういう生き方をしていたのかということや、法を守るから仲間なんじゃなくて、法以前に仲間という感覚があったということを思い出すためのものということですね。
榎本 最後のところをもう1回お願いできますか? 「仲間」の問題。
宮台 これは大事なことで、言うと長くなっちゃうけど、こう言えばいい。ベッキー騒動以降の不倫バッシングでも分かるように、最近はちょっと昔だったらあり得ないぐらいにみんな神経質になっています。法や決まりが破られると、それに対して炎上することによってインチキな仲間感覚みたいなのを作り出すということですよね。それ以前はどうかというと、例えば僕らの世代だったら、打ち上げ花火といえば手打ちなんです(笑)。非常に危険なんですけど。また、花火をやるとき僕らは代々木公園に行っていましたが、どのグループもみんなたき火をやっていて、そうするとおまわりが来るんです。「公園のたき火は禁じられています。きみたちちょっと火が大きい」と、こんな感じだったんですが、つまり昔はそんなふうに無礼講と言ってもいいし、体育会系的に言えば羽目を外すという、法を破ることで仲間を確認していることになっていたんです。それが一気に変わるのが90年代の半ばのことで、詳しくは言いませんが、そもそもそういう共通感覚、共同身体性、共通善性がないものだから、法に神経症的に固執して、法を破ると炎上してキチガイ同士が手を取り合って、という感じになっているわけです。
監督・脚本:アマンダ・シェーネル
音楽:クリスチャン・エイドネス・アナスン
出演:レーネ=セシリア・スパルロク、ミーア=エリーカ・スパルロク、マイ=ドリス・リンピ、
ユリウス・フレイシャンデル、オッレ・サッリ、ハンナ・アルストロム
2016 年/スウェーデン、ノルウェー、デンマーク/108 分/南サーミ語、スウェーデン語/
原題:Sameblod/DCP/シネマスコ―プ
後援:スウェーデン大使館、ノルウェー王国大使館 配給・宣伝:アップリンク
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