『サーミの血』宮台真司(社会学者)× 榎本憲男(小説家・映画監督)トークイベントレポート

映画『サーミの血』トークイベントレポート【5/7】
宮台真司(社会学者)× 榎本憲男(小説家・映画監督)

新宿武蔵野館、アップリンク渋谷にて絶賛上映中!ほか全国順次公開

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宮台真司宮台真司

榎本 でももう許せないと思う(苦笑)。最後にこの話をやっぱりしたいと思うんだけど、この映画の主人公はサーミにアイデンティティを見出せなくて、覚醒して近代人として生きたくて、都市に行って教師になって結婚して子供を作った。そこでもう一回故郷に帰るんですね。そこから回想が入ります。回想が明けたあとに、「私は行かないわ」と言っていた自分の村に行きます。自力で山を越えていって向こうに見るんですね。その時の彼女の気持ちについて宮台さんはどう思っているのかと、もうひとつは彼女が妹の亡骸に向かって「私を許してね」って言う、この台詞の意味。宮台さんと僕の考えはそんなには変わらないと思うんだけど若干温度差があって、僕のほうがまだ近代社会にクソだとは言いにくい。もうちょっとそれは生かしておけばいいんじゃないの?という気持ちがあるからなんですけど、どう思いますか? これは確かに痛烈なリグレットとして宮台さんは感じていると思う。

宮台 僕はそういうふうに思いたい。かなりシンクロしちゃっているのは、ある種の容易性を踏まえているからですね。つまり差別される人間が「差別されたくない。差別されないで定住社会で、あるいはメジャーな人たちが住んでいるところでうまく生きていきたい」と思うのは当たり前で、それは損得勘定から言えばもちろん当たり前のことだし、「幸せに生きたい」というのは多分損得勘定ではなくて尊厳の問題だと思うんだけど、尊厳という観念から言ってもまったく自然で批判されることではないと思う。

榎本 ちょっと待って。これは損得勘定じゃなくて彼女たちの問題じゃないですか。彼女はやっぱり覚醒したいと思っている人間だったんですよ。それを損得勘定と言っちゃうとかわいそうですよね。

宮台 そのとおりです。損得勘定では還元できないんですね。ただ映画全体としては甘い話になっていて、妹の葬式に出るというプロセスで、おっしゃったように回想するわけです。で、回想して今まで思い出さないでおいたものを次々に思い出すわけですが、自分が捨ててきたもの、あるいは自分が獲得してきたもの、それがわかるわけですね。定住社会的なもの、所有概念を認めるかどうか、いろんなところに根源的な感受性の違いが差異として露見されてくるわけです。それによって彼女がもう一回自分が何をやってきたかを知り、自分のもともとの感受性はどういうものであったかを思い出した。それを通じて甘やかしと言いましたけど、僕の解釈ですとやはりリグレット、忘れるべきではなかったんです。彼女自身が所有概念をまず理解できなかったし、メトロノームに合わせて体を動かすということもできなかったし、それを欠落だったというふうに感じていた、あるいはそれを補正するべく努力するべきだと感じていた。まさに尊厳のためにそうすべきだと感じていた自分の感じ方自体をもう一度見直すというふうにして終わるがゆえに、例えば僕なんかは考えさせられるし、だからこうやって話す機会も得られているという感じですね。

榎本 メトロノームの話も最後にしておきませんか? やはりそこは宮台さんならではの着目だと思うんですけど。要するに時計というものが発明されて、われわれは機械じかけの時間の中でコントロールされるようになった。で、メトロノームを使って体を動かす体操というのは、まさしくそれに体を合わせていかなければいけない人生を生きるようになったと。彼女があそこで他の学生のようにうまく踊れないのは、単に振付を知らないだけじゃなくて、サーミ人の血が残っている彼女は機械じかけの時間にタイミングを合わせられない、肉体がチューンアップされていないというふうに考えているんですよね?

『サーミの血』場面4宮台 まさにそれ以外の解釈はちょっと難しいなあっていうぐらいの感じですよね。単に知らないところから出てきて、知らないルールに適応できずに困っているというふうに解釈するべきではなくて、今榎本さんがおっしゃったように、彼女が適応させられる、あるいは適応するべきだと提示されている機械じかけの心身のあり方、それって何なんだろう?と思わせようと少なくとも作り手はしている。

榎本 では、ホテルのダンスホールでクラブサウンドに合わせて踊っている、あそこの彼女の心情を宮台さんはどう解釈していますか? 僕の方から先に言うと、僕は多分宮台さんとは違っていると思うんですけど、「彼女は上手く適応できた」という表現だと思うんです。ああいうふうに踊れなかった人が踊れるようになりましたと。なぜならば回想明けにももう一度ダンスシーンがあるんですよ。だからわりと僕は、やっぱり「サーミの土地を出ていってよかった、とりあえず私幸せになっちゃってごめんね」みたいなものも含んでいるんじゃないかと思って。ただし僕の中に宮台ファン的な感受性はあって、リグレットも混じっているんだろうなと。要するに配分の問題ですよね。感情は一色で染めあげられているものではないので。

宮台 そうですね。ひとつヒントになるのは、彼女が祭りで知り合った男の家に行ったときに、男の両親が所有をめぐるような話をして、「出ていってもらいましょう」と言うわけですよね。そこで自動的に浮かび上がってくるのは、例えばパーティー、あるいはダンスホールでのシンクロナイゼーションというのは、定住民にとっては多分気晴らしだし遊びなんです。僕たちの定住社会では、被差別民がお祭りのときだけ呼ばれて「芝居やってよ」とか「セックスしてよ」とか言われる。今のみなさんにとっては想像しにくいけど、鴻上尚史さんの『ものがたり降る夜』(99)という作品でわかるように、被差別民というのは昔「めまい」を持ち込む存在だったんですね。芝居をやったり、夜は男たちの相手をするということをやっていたわけです。そこに定住民にとっては祝祭、しかし非定住民にとっては定住社会を回りながらの日常という対照性があるわけですよね。それも、僕は社会学者であるということもあるかもしれないけど、この映画がそうした基本的な構図を描き切っているのがすごいなと思ったんです。彼女がダンスホールというめまい空間で、ある種の立場を選べるようになるというのはアイロニーですよ。肯定的であると同時に否定的な要素も持つと思いますね。(観客に)……すみません、なんだか難しい話ですね(苦笑)。予想外の話をしている気もします。質問とかあったら。

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サーミの血
監督・脚本:アマンダ・シェーネル
音楽:クリスチャン・エイドネス・アナスン
出演:レーネ=セシリア・スパルロク、ミーア=エリーカ・スパルロク、マイ=ドリス・リンピ、
ユリウス・フレイシャンデル、オッレ・サッリ、ハンナ・アルストロム
2016 年/スウェーデン、ノルウェー、デンマーク/108 分/南サーミ語、スウェーデン語/
原題:Sameblod/DCP/シネマスコ―プ
後援:スウェーデン大使館、ノルウェー王国大使館 配給・宣伝:アップリンク
© 2016 NORDISK FILM PRODUCTION

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2017/10/01/21:35 | トラックバック (0)
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