今年(2009年)は、生誕100年を迎える大物が多い。太宰治、大岡昇平、松本清張、花田清輝……。映画界に目を向ければ、山中貞雄、田中絹代、佐分利信、小澤栄太郎。批評家では、野口久光や小森和子といった人たちがいる。なかでも、一般的に最も知名度の高いひとりが、淀川長治ではないだろうか。
ふつうの人にとって、淀川長治は「日曜洋画劇場」の解説者、番組の最初と最後に登場し、「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」と挨拶するニギニギおじさんとして知られている(もっともいまの若者には、それすらも知らない人が増えてきているのかもしれないが)。もうすこし映画にくわしい人なら、チャップリンや黒澤明との交遊を思い浮かべたり、「私はまだかつて、嫌いな人に会ったことがない」という氏の座右の銘(もとはウィル・ロジャースの言葉である)を引き合いに出したりして、映画愛の人・淀川長治をなつかしく回想するかもしれない。そして、さらにディープな映画ファンであれば、淀川氏がただ単に映画を溺愛するだけの(いや、本当に映画を愛しているからこそ)温厚な人物ではなく、ときに背筋が凍るほど厳格な批評家であったことを知っているはずだ。
そのいずれの人にとっても、淀川長治は、まず当代きっての映画の語り部として記憶されている。
「日曜洋画劇場」の解説や講演にとどまらず、活字の世界でも、その語りは絶品だった。ことに、すぐれた引き出し役(対談相手、編集者)がついたときには。
引き出し役の名手として、真っ先に挙げられるのが、蓮實重彦と山田宏一。三人の鼎談をまとめた二冊の名著、『映画となると話はどこからでも始まる』(1985年、勁文社)と『映画千夜一夜』(1988年、中央公論社)を読めば、だれもがその愉しいやりとりに頬を緩め、観たこともない映画を語る「淀川節」に魅了されてしまうことだろう。
名実ともに日本を代表する映画批評家である二人が、ここでは淀川長治という映画の神様を目の前にして、無心に教えを乞う学生のような一面を見せる。まるで、黒澤明の遺作『まあだだよ』で昔年の師をいつまでも「先生、先生」と慕いつづける元生徒たちのように。
蓮實 | ぼくは空飛ぶ映画が好きだから、『スーパーガール』も好きなんです(笑)。 |
淀川 | だんだんじがねが出てきたね、ハハハハ。あなたという仙人もやっぱり高い天空から地に墜ちるね。ついにいつも堕落するね(笑)。 |
蓮實 | いや、ぼくは最近では『レポマン』の最後に自動車が空を飛んだだけでよろこぶ人間ですから、そういう映画が大好きなんですね。 |
淀川 | そうお? スーパーガールを下からのぞいたのと違うの?(爆笑) |
淀川 | 山田さんはロマンチックで上品だからねえ、もう可愛いねえ(笑)。この人は薔薇族の少女趣味だからダメ(笑)。 |
山田 | 薔薇族の少女趣味!?(笑)きょうはエライことになったなあ(笑) |
(『映画千夜一夜』1988年、中央公論社) |
蓮實・山田コンビの卓越した引き出し力は、淀川長治という宣伝マン出身の特異な語り部を、文字どおり映画批評家として再認識させるきっかけをつくりだした。
じっさい、淀川長治は批評家として、他に類を見ない凄玉(マルシー村松友視)だったといえる。特に、その「晩年」においては。
先ごろ刊行された『キネマ旬報』4月下旬号で、「淀川長治が『映画界』にもたらした福音、そしてその後」という特集が組まれており、高崎俊夫がずばり「批評家としての淀川長治」と題したエッセイを寄稿している。80年代前半、『月刊イメージフォーラム』の編集者だった高崎氏は、ウィル・ロジャース論を枚数無制限で書いてほしい、と淀川氏に依頼する。上がってきた原稿はペラで50枚にもおよび、「はっきり言って、当時、淀川さんが映画ファン雑誌に書いていた新作評とはパッション、ボルテージの高さが圧倒的に違っていた」という。
そして、高崎氏はこう述べる。
<私が思うに、淀川さんは、この頃から、<伝道師>という従来のモラリスティックな役割を引き受けつつも、秘かに、自分の美意識や感受性を露わに表出させた、官能的とも形容すべき<批評>を無意識の裡に模索していたのではないだろうか>
「晩年」の淀川長治の文章からは、まさしく、そのような模索の末に表出したであろう一種の禍々しさやエロティシズムが感じられた。
<フランス映画は恋を死なせない。こわい国。男はフランスでパリで文字どおりほんとうの男になる。いずれにしてもカマキリのオスなのさ。そう冷たくされてはミもフタもない。男はそれで酔って死ぬ。幸せじゃないか> (『男と男のいる映画』1996年、青土社)
<小説はペンが走る。それが活字となって、読者はページをめくる。文字が“語る”。映画は、目でストーリーを話しはじめる。この“目”をほんとうに知らないと、まずい映画が出来上がり、“目”を知ると映画はあざやかに生きる> (『最後のサヨナラ サヨナラ サヨナラ』1999年、集英社)
さきほどから「晩年」とカッコつきで書いているのは、このようなみずみずしく深みのある名文を、淀川氏はその長いキャリアのなかで体得し、批評家としてのオーラを増していったと思えるからだ。
それは映画と映画にかかわる者に対する厳しさにもつながる。
森卓也は、ある講演会の楽屋口で、数人の少年たちが淀川氏に叱られているのを目撃した。なぜ淀川氏が怒っていたのかというと――。
<「お金を出し合って話を聞きたいけど、いくらですか」と尋ねてきたらしい。つまりは旦那がお座敷に幇間を呼ぶ感覚だが、それが非常識で失礼なのを、納得させるのは至難のわざ。「誰か(一人を)殴ろうか!?」というのが、いかにも淀川さんらしかったが、硬直していた少年たちは、なぜ怒られたのか理解できたのだろうか> (森卓也『映画 そして落語』)
蓮實重彦もこんな思い出を語っている。
蓮實 | たまたま一度、『映画千夜一夜』のときじゃなかったかと思うけれども、たまたま「ぼくは下で待ってますよ」と正面入口にいたところ、淀川さんが向こうからやって来て、「蓮實さんが来てるのに、今日の主催者が来てない!」とカンカンに怒ったことがあるんです。「そうじゃなくてたまたま私がいただけなんです」と言っても、「帰んなさい! 帰んなさい!」とすごい剣幕なんですよ。帰っちゃうと今日対談できませんからとなだめて(笑)。 |
金井 | そういう面はふだんあまり見せない人なんですか。 |
蓮實 | いや、怖かったですよ。何度もそういう場面に遭遇してます……。 |
(蓮實重彦『映画狂人、語る。』所収、金井美恵子との対談より) |
淀川長治のこの厳しさは、しかし無意味な厳しさではない。映画に寄り添い、映画を人生の教科書としてきた人だからこそ、「あなたは映画からなにを教わってきたのですか!」という怒りが噴出するのだろう。
だから、淀川長治と長く付き合うことができた(許された)人はそれほど多くはなかったといわれる。かつて晩年の淀川氏を背負ってアテネ・フランセの階段を昇っていたという井土紀州や、「あなたは愛情が足りない」と言われたらしい詩人の松本圭二ら、若い世代には、淀川長治に「おびやかされた」思い出を畏怖と敬愛の念をこめて語る人もすくなくない。
そして、彼らよりさらに若い世代である筆者は、ついに淀川長治と会うことができなかった。
<いつか映画を創って淀川さんに褒めてもらう。というのが学生時代からの私の目標だった> (広告批評別冊『淀川長治の遺言』所収、爆笑問題・太田光の追悼文より)
こういう映画青年は、日本じゅうにたくさんいたのではないだろうか。
もっとも、子どもの頃から、TVのブラウン管を通じて氏の洗礼を受けた者にとって、淀川長治はたえず私たちの隣にいる人であった。そんな淀川氏を、私たちはいつのまにか映画そのものとして認識していたのかもしれない。
つまり、私たちはいま、映画を失ったその場所から、出発しなければならないのだ。
(2009.11.10)
- (著) 淀川 長治
- (編集) 岡田 喜一郎
- 河出書房新社
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