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第80回アカデミー賞外国語映画部門ノミネート作品
第58回(2008)ベルリン国際映画祭アウトオブコンペティション正式上映作品

アンジェイ・ワイダ監督作品

カティンの森

http://www.katyn-movie.com/

生きていく人のために そしてあの日 銃身にさらされた 愛する人のために
大二次世界大戦下、一万五千人の将校が忽然と行方不明になった――。
ポーランドの人々が半世紀にわたり沈黙をしいられた知られざる真実。
巨匠アンジェイ・ワイダ監督が万感の思いでその封印を解き、世界に放つ。

12月5日(土)岩波ホールにてロードショー、他全国順次公開

MESSAGE

アンジェイ・ワイダのメッセージ

『カティンの森』1行錯誤を重ね、熟考を続けた結果、わたしはある確信に至った。カティン事件についてこれから作られるべき映画の目的が、この事件の真実――その追究は、歴史的・政治的な次元で、すでになされている――を明るみに出すことだけであってはならない、と。
今日の観客にとって、史実は、出来事すなわち人間の運命の背景であるにすぎない。観客の心を動かすのは、あくまでもスクリーンに映される登場人物の運命である。私たちの物語を展開するための場所が、あの時代のすでに記述されている歴史のなかにある。
したがって、私の考えるカティン事件についての映画は、永遠に引き離された家族の物語である。それは、カティン犯罪の巨大な虚偽と残酷な真実の物語になるだろう。ひとことで言うならば、これは個人的な苦難についての映画であり、その呼び覚ます映像は、歴史的事実よりはるかに大きな感動を引き起こす。
この映画が映し出すのは、痛いほど残酷な真実である。主人公は、殺された将校たちではない。男たちの帰還を待つ女たちである。彼女たちは、来る日も来る日も、昼夜を問わず、耐えられようもない不安を経験しながら、待つ。信じて揺るぎない女性たち、ドアを開けさえすれば、そこには久しく待ち受けた男性(息子、夫、父)が立っているという、確信を抱いた女性たちである。カティンの悲劇とは今生きている者に関わるものであり、かつ、当時を生きていた者に関わるものなのだ。
長い年月が、カティンの悲劇からも、1943 年のドイツによる発掘作業からも、我々を隔てている。90 年代におけるポーランド側の調査探求にも拘わらず、さらには、部分的に止まるとは言え、ソ連関係文書の公開が行われた後でさえも、カティン犯罪の実相について、我々の知るところは、いまだにあまりにも少ない。1940 年4 月から5 月にかけての犯行実施は、スターリンと全ソビエト連邦共産党政治局に属するスターリンの同志らが、1940 年3 月5 日、モスクワで採択した決定に基づいている。
ひょっとしたら父は生きている、カティンの被害者名簿一覧には、ワイダと姓があったが、名はカロルと出ていたのだから――。このように永年にわたり、母やわたしたちが信じていたのは、少しも不思議ではない。母はほとんど生涯の終わりに至るまで、夫の、すなわち、わが父の生還を信じ続けた――ヤクプ・ワイダ、騎兵第二聯隊所属、第一次世界大戦(1914 −18)、ポーランド・ソ連戦争(19 −20)、シロンスク蜂起(21)、並びに1939 年9 月戦役に従軍の勳功により、戦功銀十字架勲章騎士賞を受けた。
とは言え、この映画がわが個人的な真実追究となること、ヤクブ・ワイダ大尉の墓前に献げる灯ともしび火となることを、わたしは望まない。
映画は、カティン事件の数多い被害者家族の苦難と悲劇について物語ればよい。ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリンの墓上に勝ち誇る嘘、カティンはナチス・ドイツの犯罪であるとの嘘、半世紀にわたり、対ヒトラー戦争におけるソビエト連邦の同盟諸国、すなわち西側連合国に黙認を強いてきたその嘘について語ればよい。
若い世代が、祖国の過去から、意識的に、また努めて距離を置こうとしているのを、わたしは知っている。現今の諸問題にかかずらうあまり、彼らは、過去の人名と年号という、望もうと望むまいと我々を一個の民族として形成するもの――政治的なきっかけで、事あるごとに表面化する、民族としての不安や恐れを伴いながらであるが――を忘れる。
さほど遠からぬ以前、あるテレビ番組で、高校の男子生徒が、9 月17 日と聞いて何を思うかと問われ、教会関係の何かの祭日だろうと答えていた。もしかしたら、わたしたちの映画『カティンの森』が世に出ることで、今後カティンについて質問された若者が、正確に回答できるようになるかもしれないではないか。
「確かカティンとは、スモレンスクの程近くにある場所の名前です」というだけでなく……。

集英社文庫「カティンの森」(工藤幸雄・久山宏一訳)より

INTRODUCTION

『カティンの森』2画『カティンの森』は、ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の数ある作品のうちで最も重要であり、長らく完成が待たれていた作品である。
本作はワイダ監督の両親に捧げられている。ワイダ監督の父親は、第二次世界大戦中の1940 年春、「カティンの森」事件で他のポーランド将校とともにソ連軍に虐殺され、母親も夫の帰還の望みが失われていくなかで亡くなった。監督デビュー間もない1950 年代半ばに、事件の真相を知り、自ら映画化を強く熱望していたが、冷戦下にタブーとされたこの事件は、描くことはもとより語ることすら叶わなかった。しかし冷戦の崩壊とともに、少しずつ真実が公にされ始め、事件から70 年近くの歳月がたった今日、ついに積年の思いのこもった映画が完成した。
ドイツのヒトラーとソ連のスターリンの密約によって、ポーランドは1939 年9月1日ドイツに、9月17 日ソ連に侵略された。そしてソ連の捕虜になった約15,000 人のポーランド将校が、1940 年を境に行方不明になった。当初は謎とされていたが、1943 年春、ドイツがソ連に侵攻した際に、カティンでポーランド将校の数千人の遺体を発見し、「カティンの森」事件が明らかになった。ドイツはソ連の仕業としたが、ソ連は否定し、ドイツによる犯罪とした。戦後、ソ連の衛星国となったポーランドでは、カティンについて語ることは厳しく禁じられていた。
1989 年秋、ポーランドの雑誌が、虐殺はソ連軍によるものであると、その証拠を掲載した。翌1990 年、ソ連政府は、ソ連の内務人民委員部(後のKGB)による犯罪であることを認め、その2年後、ロシアのエリツィン大統領は、スターリンが直接署名した命令書によって行われたことを公式に言明した。その後、この事件についてさまざまなことが明るみになっていくが、まだ多くの事実が確認されないままである。
映画は、実際に遺された日記や手紙をもとに、「カティンの森」事件の真実を、ソ連軍に捕らえられた将校たちの姿と、彼らの帰還を待つ家族たちの姿をとおして描く。

捕虜となったポーランド将校たちの、国家への忠誠と、家族への愛の狭間での引き裂かれるような想い。戦火の下、ひとすじの希望をたよりに、耐え忍び、生きる家族たちの不安。幾重にも語られる人々の運命は、戦争に翻弄されるなかで、交錯し、交わり合う。そして悲劇は戦後も終わることなく、ソ連の影響下、社会主義国家となったポーランドは、長い歳月、「カティンの森」事件について国民に沈黙を強い、その真実に触れようとする者たちを厳しく処罰した。本作のラストシーンには、無念の思いで亡くなった多くのポーランド人とその遺族の万感の思いがこめられている。
映画『カティンの森』は、2008 年アメリカ・アカデミー賞外国語映画賞の最終ノミネート作品に選ばれた。同年、ドイツのベルリン国際映画祭にて特別上映され、メルケル首相も出席し盛大に行われた。一方、ロシアでは2008 年サンクトペテルブルグ国際映画祭でクロージング上映されたものの、未だに商業公開の予定はない。

12月5日(土)岩波ホールにてロードショー、他全国順次公開

Story
『カティンの森』31939 年9月17 日、ドイツ軍に西から追われる人々と、ソ連軍に東から追われた人々が、ポーランド東部ブク川の橋の上で出くわした。前者のなかには、クラクフから夫のアンジェイ大尉を探しにきたアンナと娘のニカ、後者には大将夫人ルジャがいた。アンナとニカは川むこうの野戦病院へ、大将夫人はクラクフへ向かう。アンジェイや友人のイェジら将校たちは、ソ連軍の捕虜になっていた。妻と娘の目の前で、彼らは軍用列車に乗せられ、東へと運ばれてゆく。アンジェイは、目撃したすべてを手帳に書きとめようと心に決める。ソ連占領地域に取り残されたアンナはクラクフへ戻ろうとするが、国境を越える許可がおりない。
同年11 月、アンジェイの父ヤンを始めとするクラクフのヤギェロン大学教授たちが、ドイツ軍に逮捕され、ドイツのザクセンハウゼン収容所に送られた。
同年、クリスマス・イヴ。大将家ではポーランド伝統のクリスマス・ディナーの席にルジャ夫人がつき、娘のエヴァが庭で一番星を待っている。同じ時刻、コジェルスク収容所に閉じこめられている大将や将校たちも一番星が見えるのを待っていた。見張りの兵の合図で彼らもクリスマスの食卓につく。大将は、将来のポーランド再建のための担い手になるようにと部下たちを励まし、全員で聖歌を歌う。
1940 年初め、国境近くの町でアンナとニカ、アンナの兄の妻エルジビェタとその娘ハリンカの4人が、ロシア人少佐の家にかくまわれている。アンナたちをソ連奥地への強制移住から守ろうと、少佐は名目だけの結婚をアンナに申し込むが、アンナは拒絶する。すぐにエルジビェタ母子が連れ去られた。しかし少佐の機転で、アンナとニカはソ連軍の手を逃れた。
春、アンナとニカは国境を越えてクラクフの義母のもとに戻る。義父ヤン教授死亡の報が届くなか、アンジェイの生存を信じる母、妻、娘の3人の女性は、アンジェイの帰りを待ちつづける。
その頃、収容所で発熱したアンジェイは、コジェルスク収容所でイェジからセーターを貸してもらった。そのセーターを着てアンジェイは、大将、空軍中尉ピョトルらと共に別の収容所に移送される。イェジはその場に残された。
1943 年4月、ドイツは一時的に占領したカティン(ソ連領)で、“虐殺された多数のポーランド人将校の遺体を発見”と発表した。「クラクフ報知」に載った犠牲者のリストに、大将とイェジの名前はあったが、アンジェイの名はなかった。大将夫人はドイツ総督府に呼び出され、遺品の軍功労賞を返される。そしてドイツがカティンで撮影した記録映画を見せられた。
1945 年1 月18日、クラクフがドイツ占領から解放された。そして物語は新たな登場人物を加えてさらにつづいてゆく。
ソ連が編成したポーランド軍の将校となったイェジは、クラクフのアンナを訪ね、セーターゆえのカティン・リストの間違いを伝えた。夫の死を知ったアンナは気を失う。イェジはその足で、犠牲者の遺品を管理するクラクフ法医学研究所に赴き、学生時代の教授に、アンジェイの遺品をアンナに届けるよう頼んだ。
クラクフの広場では、ソ連側が撮影したカティンの記録映画の野外上映が行われていた。そこで出会った大将夫人から<カティンの嘘>を知らされたイェジは、自らの頭を撃ちぬいた。
エルジビェタの息子で、戦争中はトゥル(原牛の意)の変名で国内軍のパルチザンだったタデウシュがクラクフに現れ、今は写真館で働いている叔母のアンナと邂逅する。美術大学入学を夢みるタデウシュは、高校の校長イレナから、履歴書には父親がカティンで死亡したことを書かないようにと説得される。カティン問題は、ポーランド人民共和国のタブーになっていた。しかしタデウシュはこれを拒否する。
帰り道、国内軍を侮辱する人民政府のポスターを剥がして警察に追われたタデウシュは、大将の娘エヴァに助けられる。束の間に心を通わせた若い二人は、映画を観に行く約束をするが、警察はタデウシュを見逃さなかった。
イレナ校長の妹のアグニェシュカは、国内軍兵士としてワルシャワ蜂起に参加、奇跡的に故郷クラクフへ生還した。アグニェシュカはアンナの写真館で、兄ピョトル中尉の墓碑用写真の修正を依頼し、ついで司祭を訪ねた。司祭は1943 年4 月、ドイツ軍による遺体発掘時に、カティンで葬式を司っていた。
司祭から兄の遺品であるロザリオを受け取ったアグニェシュカは、墓碑の費用を得るために、長い金髪を劇場のかつら職人に売る。妹が兄の墓碑に刻んだ「1940年にカティンで悲劇的な死を遂げた」の文字は、ソ連の犯罪を示すものであった。しかし秘密警察の監視は、すでに教会にまで及んでいた。司祭もアグニェシュカも消えゆく運命にあった。
法医学研究所の助手グレタが、ひそかにアンナの家の扉をたたき、カティンで発見されたアンジェイの手帳を渡す。そこに記されていたのは……。

12月5日(土)岩波ホールにてロードショー、他全国順次公開

Production Note

「カティンの森」事件

(本資料では、地名は現在日本で通用している現地読みを用い、収容所名については映画字幕と同じくポーランド語読みに準じる)

〔前史〕

『カティンの森』41939 年8 月23 日、ドイツとソ連は不可侵条約を結び、付属秘密議定書で東ヨーロッパにおける両国の勢力範囲を確定した。これは38 年のミュンヘン会談後孤立したソ連と、対ポーランド攻撃を容易にすることを目的としたドイツとの妥協の産物だった。
9 月1 日、ドイツがポーランド侵攻を開始、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発した。
9 月17 日、ソ連が東からポーランドに攻め込んだ。
9 月28 日、モスクワで「友好と国境に関する独ソ協定」が結ばれ、(18 世紀後半の3 度の分割から数えると)4 度目の「ポーランド分割」完了。両占領地域の面積にほとんど差はなかったが、人口はドイツ占領地が2200 万人に対して、ソ連占領地が1300 万人だった。
ソ連の捕虜になったポーランド軍人の数は、将校を含めて約18 万人といわれ、ソ連奥地・西部など各地の収容所に抑留された。
10 月、ドイツ占領地のうち、ドイツに隣接する地域がドイツに併合され、それ以外の地域は「ポーランド総督府」と呼ばれた。ワルシャワ、ルブリン、ラドム、クラクフの4 つの区域に分かれ、クラクフが首都になった。総督はハンス・フランクである。
1939 年11 月6 日、クラクフ・ヤギェロン大学の教員が、ナチス親衛隊将校ミュラーの演説を聴くために大学に招集された。183 人は一網打尽に逮捕され、同月末にドイツのザクセンハウゼン強制収容所へ送られた。

〔事件〕

ソ連は「戦時捕虜の待遇に関するジュネーヴ協約」(1929)に加盟していなかったため、将校の待遇に関する法律的拘束がなかった。将校や知識人が集められたコジェルスク、スタロビェルスク、オスタシュクフの3 収容所(註1)では、捕虜への徹底的な尋問が行われた。ソ連政府にとって重要な情報を集め、協力者になり得る者を選抜する目的だった。その結果、計395 名の捕虜が死を免れた。
1940 年3 月5 日に下されたソ連共産党政治局の決定により、内務人民委員部NKVD(後の国家保安委員会KGB)が、同年4 - 5 月にソ連内収容所に抑留されていたポーランド人将校約15,000 人を秘密裏に虐殺した。これは、ポーランド軍に属する将校の約半数にあたる。犠牲者の遺体は、次の3 か所に埋められた。
1,カティン(現ロシア共和国西部・スモレンスク近郊) コジェルスク収容所の捕虜4410 名
2,ピャチハトキ(現ウクライナ共和国北東部・ハルキフ〔ロシア語読みハルコフ〕近郊) スタロビェルスク収容所の捕虜3739 名
3,メドノエ(現ロシア共和国西部・トヴェリ近郊) オスタシュクフ収容所の捕虜6315 名
彼らは、なぜ虐殺されたのか。ポーランド・ソ連関係の「過去」と「未来」に関わる二つの理由が指摘されている。
●「過去」――ポーランド・ソ連戦争(1920 - 21)でソ連は敗れ、スターリンは、ポーランド軍人に対して強い不快感を持っていた。実際、虐殺された中には、ポ・ソ戦争に従軍した者が多かった(ワイダ監督の父もその一人)。
●「未来」――ポーランドの軍人と知識人の精華である捕虜たちを殺すことで、ポーランドに指導力を失った真空状態を作り出し、将来的にそこへソ連仕込みの者たちを転入させるためである。戦後、1956 年までのポーランド共産化は、この通りに展開した。
1万数千名の将校が行方不明になった事実は、虐殺1年後すでに明らかになっていた。
1941 年6 月にドイツが不可侵条約を破ってソ連に攻め込んだ。ソ連は連合国側に加わり、イギリスと同盟して共同の敵ナチス打倒を約束した。その結果、41 年8月にソ連奥地に抑留中のポーランド軍捕虜は釈放され、モスクワの監獄に拘禁されていたアンデルス将軍の指揮下、「在ソ連ポーランド軍」を編成した(11 万5 千名)。
将軍は部隊編成のためにポーランド将校を必要としたが、ほとんど集まらなかった。その時点で行方不明者は1 万数千名あり、その半数以上が将校だったのである。しかも、彼らが1940 年春まで、コジェルスク、オスタシュクフ、スタロベルスクの3 収容所にいたことが確認された。アンデルス将軍は「捜査部」を設置し、画家のユゼフ・チャプスキ大尉 (1986 - 1993) などが情報収集にあたった(註2)。しかしポーランド側からの問い合わせに対して、ソ連当局は沈黙か言い逃れに終始した。
捜査が継続されていた1943 年4 月、一時的にナチスドイツによって占領されていたカティンで、墓坑が発見された。「カティンの森」事件の名はここからつけられた。当時ドイツと軍事同盟を結んでいた日本でも、事件は大々的に報道された。

註1例えば、コジェルスクの収容者のうちには、大将が2 名、上級将校が400 名、下級将校が3500 名、士官学校生徒が500 名いた。操縦士が500 名、水兵が50 名いた。また全体の3 分の2 を占めていた予備将校の中には、21 名の大学教授、300 名の医師、数100 人の技師・教師、100 名以上のジャーナリスト・作家、100 名の聖職者(さまざまな宗教)がいた。
註2ワイダ監督は、1980 年代末にチャプスキとインタヴューを行った〔オムニバス映画『パリ・ストーリー』(88)に収録〕。なお、本作中、コジェルスク収容所で将校たちがすごす39 年のクリスマス・イヴの場面で、大将が「画家」に言及するのは、ワイダ監督のチャプスキへの感謝と追悼の意の表れである。

映画完成まで

『カティンの森』5本作はワイダ監督自身の両親に捧げられている。
父ヤクプ・ワイダ(1900 - 1940)は1939 年9 月戦役でソ連捕虜となり、スタロビェルスク収容所に抑留され、ハリコフ近郊ピャチハトキで虐殺された。カティン犠牲者リストには「カロル・ワイダ中尉」の名があり、生年月日も父と一致していた。名が誤記されていたため、母アニェラ・ワイダ(1901 - 1950)は死去するまで、父が無事生還するとの希望を待ち続けた。
ワイダ監督は1957 年、カンヌ映画祭で『地下水道』を上映するためにフランスを訪れた際、アンデルス将軍の序文つきの「カティン事件」資料集を読み、初めて事件の真相を知った。それから、映画完成までに半世紀を要した。
「東欧革命」(1989 - 90)で社会主義から資本主義に体制が変換するまで、ソ連の犯罪と虚偽を暴露する映画の製作は問題外だった。ワイダは1990 年代半ばから、ライフワークとして「カティンの森虐殺事件」の映画化を切望した。それから、完成までに17 年の歳月が必要だった。
ワイダ映画(そして、彼が代表する「ポーランド派」)の魅力は、すぐれた文学作品を創造的に映画化したことにある。カティンを素材とした文学作品が(本作中、収容所の場面でイェジが言及するズビグニェフ・ヘルベルト(1924 - 98)の詩「ボタン」を例外として)存在しないことが最大の障害として立ちふさがった。
虐殺されたポーランド将校は、ドラマの主人公になりにくい、という理由から、別のストーリー展開が模索された。
2001 年1 月から2003 年11 月まで、小説家ヴウォジミェシュ・オドイェフスキ(1930 - )の協力を仰いで、戦後のクラクフを舞台にロマン・マルティニ検察官(ソ連の指令で、ドイツをカティン事件の犯人として告発しようとして、逆にミンスクでソ連の犯罪証拠文書を発見。その後、1946 年3 月にクラクフの自宅で何者かにより殺害される)を主人公にする可能性が模索されたが、実現に至らなかった。当時の映画の仮タイトルは、『カティン――痕跡を求めて』だった(オドイェフスキの「原作」は、『敗れざる者たち、歩く者たち』(03)として刊行されている)。
その後、アンジェイ・ムラルチク(1930 - )が映画用の短篇小説(未刊行)を執筆し、のちにそれをもとに長篇小説『死ポスト・モルテム後』(07)を執筆した。映画封切り数か月前に出版されたこの「映画物語」の舞台は、1945- 46 年のクラクフと21 世紀初頭のカティン、主要な登場人物は、「カティン事件」の被害者アンジェイ・フィリピンスキ家の人々(母ブシャ、妻アンナ、娘ヴェロニカ)とヤロスワフ(映画のイェジ)、イェジ〔ユル〕(映画のタデウシュ〔トゥル〕)である。アンジェイは回想にしか登場しない。
一方、アンジェイ・ワイダ、ヴワディスワフ・パシコフスキ、プシェムィスワフ・ノヴァコフスキの3 名は、ムラルチク執筆の短篇小説のモチーフを基に、シナリオを執筆した。プロデューサーの証言によると、1990 年代半ばから数えて30 番目のヴァージョンにあたるという。
撮影開始時、映画の表題は「原作」と同じく『死ポスト・モルテム後』だったが、公開の半年前の2007 年4 月に、『カティン』に変更された。当初、登場人物は一切姓を持たず、演じる俳優のプライベートの名前で登場するという、かつて『すべて売り物』で試みたことのある手法の採用が検討されていた。ワイダ監督自身が画面に登場する案もあったが、いずれも制作途中で放棄された。
監督自身、カティン犠牲者である父を息子として待ち続け、夫を待ち続ける母の苦悩も身近に目撃している。
小説『死ポスト・モルテム後』のような小規模な「家族映画」を作るのはむしろたやすかったかもしれない。しかし、シナリオ執筆者たちは「原作」を大きく改変して、多様な登場人物による歴史パノラマを作り上げた。
ワイダ監督は、ムラルチクの小説とシナリオの関係を次のように説明している。「原作をもとにしたシナリオは、製作の準備段階と撮影中に多くの変更を受けました。しかしこの小説あればこそ、わたしは撮影を開始することができると信じられるようになったのです」「シナリオを4 つの物語に分けることで、史実の中に発見された場面・情況・人物をより豊富に導入することが可能になりました。それによって、人物の運命のパノラマが拡大し、一家族の物語を超えた映画になりました。また、主題と直接関係のない要素を原作から排除して、全体の物語を時系列に沿って展開できるようにしました。このことが映画の受容を容易にしたはずです」
『カティンの森』が虐殺事件を正面から取り上げる最初の劇映画であることを忘れてはならない。ワイダは、本作を事件の「総決算」(たとえ、それが私的なレベルにおいてであろうとも)ではなく、今後作られるべき一連の映画の「嚆矢」となることを望んだ。すなわち、映画将校の遺族である女性たちを主人公にするという基本構造は守り、かつ70 年近い昔の事件についての記憶が薄れつつある21 世紀初頭に、史実再現を再現する「教育的な」映画を作ろうとしたのである。
こうして、事件に関わった個人をめぐるストーリーを物語ることと、これまで映画という「芸術的な形」を与えられたことのない歴史的事実を、被害国、加害国、そして世界中の人々に知らせることを同時に実現した作品が完成した。その根底には、ワイダ監督の次のような芸術観・歴史観がある。
芸術――「わたしたちが墓参りに行くのは、死者たちと対話を交わすためです。死者の存在を身近に感じるためです。そうしない限り、彼らは立ち去りません、いつまでもわたしたちに不安をかきたてるのです。過去と親しむこと、それ以外に有意義な未来へ至る道はありません」
歴史――「歴史認識を持たない社会は、人の集合にすぎません。人の集合はその土地から追い出されるかもしれないし、民族としての存在をやめるかもしれません。歴史がわたしたちを結び付けてきたのです。今日、歴史の果たしている役割は以前よりずっと小さくなっています。人間の意識に歴史が占める場所を取り戻すために戦わなくてはならないのです」

C R E D I T
監督・脚本:アンジェイ・ワイダ『灰とダイヤモンド』『地下水道』
出演:マヤ・オスタシェフスカ,アルトゥル・ジミイェフスキ,ヴィクトリャ・ゴンシェフスカ,
マヤ・コモロフスカ,ヴワディスワフ・コヴァルスキ,アンジェイ・ヒラ,ダヌタ・ステンカ 他
原題:KATYŃ / 2007 年/ポーランド映画/ 122 分/ R-15 /ドルビーSRD /シネスコ
ポーランド語・ドイツ語・ロシア語/字幕翻訳:久山宏一/資料監修・プレス編集協力:久山宏一、大竹洋子
原作:アンジェイ・ムラルチク「カティンの森」集英社文庫
後援:ポーランド共和国大使館  /「日本・ポーランド国交樹立90 周年」認定事業 
提供:ニューセレクト 配給:アルバトロス・フィルム
http://www.katyn-movie.com/

12月5日(土)岩波ホールにてロードショー、他全国順次公開

映画と祖国と人生と… (単行本)
映画と祖国と人生と…
カティンの森 (集英社文庫) (文庫)
カティンの森
(集英社文庫)

2009/11/15/01:01 | トラックバック (0)
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