2011年 ベルリン国際映画祭アルフレード・バウアー賞受賞作品
『灰とダイヤモンド』『大理石の男』アンジェイ・ワイダ監督
菖蒲
http://shoubu-movie.com/みずみずしい光を放つ大河を望むポーランドの小さな町。その町の医師と、妻のマルタ(クリスティナ・ヤンダ)は、長年連れ添ってきたものの、ワルシャワ蜂起の際、ふたりの息子を亡くしたことで互いに距離ができてしまっている。そんななか夫は、自身の診断で妻が重篤な病状であることを知るが、妻へは告白できずにいた。春が終わり、夏が訪れようとしていたある日、マルタは川岸のカフェで、美しい青年を見かける。彼との出会いで、マルタは失ってきたものを反芻し、心ざわめく…。
2012年10月20日(土)より、岩波ホールにてロードショー(全国順次公開)
「なんて美しいこと。生き生きとして……」
第二次世界大戦下、ソ連軍の捕虜となった多くのポーランド将校が虐殺された「カティンの森」事件。東西冷戦下で永らくタブーとされていた悲劇を描く映画「カティンの森」(07)は、文字通り、ポーランド映画界の巨匠アンジェイ・ワイダ監督の集大成ともいうべき壮大な歴史作品であった。
この一大叙事詩ともいえる渾身のライフワークの後に、休む間もなくワイダ監督が製作に入り、完成させた本作「菖蒲」は、前作とは打って変わってみずみずしい抒情に満ち、人間の根元的なテーマである「生と死」をとおして、生きることの源泉に触れた文芸映画の傑作である。
「菖蒲を集めるの。明日は聖霊降臨祭だから」
「菖蒲」の原作は、名作「尼僧ヨアンナ」で知られるポーランドを代表する作家ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチの同名の短篇小説である。ワイダ監督は、この小説がもつ深遠なテーマを、映画芸術として見事に昇華させ、あらためて自身の限りない力量と才能を世界に知らしめた。そして2011年ベルリン国際映画祭では、多くの映画人の称賛を受け、「映画芸術の新しい展望を切り開いた作品」に授与されるアルフレード・バウアー賞に輝いた。
「春が終わって夏到来の祭りよ。命が目覚める」
「菖蒲」は、撮影半ばに、主演のクリスティナ・ヤンダの夫であり、ワイダ監督の盟友でもあった撮影監督エドヴァルト・クウォシンスキの病死によって大きく改変されていった。このことにより完成した映画は大きく三つの世界に分けられ、それらが交差し、織り成すように構成されている。その三つの世界とはイヴァシュキェヴィチ原作の本来の物語、夫が亡くなる最期の日までを語るヤンダ自身によるモノローグ、そして本作におけるワイダ監督の演出風景である。
「忘れているようだね。生はとても簡単に死に転じる」
あまりにも遅く訪れる恋と、いつもあまりにも早く訪れる死――この映画では、春から夏へと移ろう美しい季節のなかで、生のみずみずしさ、若さの輝きとともに、老いや病、そして不慮の事故による死が浮き彫りにされていく。そして本作が描写する生のはかなさや死への不安の背景には、いつも大河が悠々と流れている。その姿は、無常な時の流れのように心に残り、ここには今年86歳を迎えたワイダ監督自身の思いが少なからず反映されているのだろう。
「なんて時代でしょう。でも河は流れていく」
ワイダ監督は、作家ヤロスラフ・イヴァシュキェヴィチ(1884-1980)の小説を好み、これまでに「白樺の林」(1970)と「ヴィルコの娘たち」(1979)を映画化している。いずれも美しい田園風景を背景に、人間の揺れ動く心理を繊細に表現したものだ。ワイダ監督はその理由として、彼の小説が人間の現実にしっかりと根を下していること、登場人物の興味深い性格、恐ろしいほどの孤独感、そしてリアルなディテールを通じて示される人間ドラマなどをあげている。
「夫を愛している。命をかけて愛した」
女優クリスティナ・ヤンダはポーランドを代表する大女優である。日本ではワイダ監督の「大理石の男」(1977)「鉄の男」(1981)などで知られている。「大理石の男」では、歴史の彼方に忘れられた伝説の労働者についてドキュメンタリーを撮る学生を演じ、鮮烈な印象を与えたが、本作では、成熟し、倦怠と諦念を色濃くにじませた魅力的な中年女性マルタ役とともに、実人生で長年連れ添った夫を亡くした彼女自身の痛切な思いを語るというきわめて難しい役どころを見事に演じきっている。
「あんなに激しく泣いたのは、あの時だけだ」
ヤンダが語る「この映画は、去年撮る予定だった。…ワイダには出演は無理と伝えた」で始まるモノローグは心をうつ。彼女が独白する部屋の空間は、アメリカの画家エドワード・ホッパー(1882-1967)の代表作『朝日に立つ女』『朝の日ざし』からインスパイアされてデザインされた。孤独や憂愁、寂寥といった、ヤンダの思いが見事に反映された、この印象的な導入部は、本作が通常のフィクションとはまったく異なった語りの構造をもつことも明示している。
「生きていることが、私は死んでいった人や息子たちに恥ずかしい」
劇中、小説が読みたいという青年ボグシに、マルタが差し出す本は、ワイダ監督の代表作「灰とダイヤモンド」の原作(イエジ・アンジェイェフスキ作)である。「灰とダイヤモンド」は、<ワルシャワ蜂起>で、祖国への報われぬ愛を表明し、無残な死をとげた若きテロリスト、マチェックをめぐる慟哭に満ちた映画だった。マルタのふたりの息子が<ワルシャワ蜂起>で戦死し、夫婦の心に深い悔恨となって影を落とすエピソードは、ワイダ監督の創作である。彼にとっての永遠のテーマ、歴史と悔恨、そして失われた青春――「菖蒲」は、この普遍的なテーマを、みずみずしい描写でより一層深く掘り下げた名作である。
成熟と未成熟はどのようにして出会うか、どのようにしてすれ違うか
アンジェイ・ワイダ (監督)
イヴァシュキェヴィチの小説を3作品(「白樺の林」〔70〕「ヴィルコの娘たち」〔79〕「六月の夜」〔01年製作のTVドラマ〕)映画化した後、私は数年ぶりに、彼のもう一つの作品『菖蒲』に戻りました。しかし、わずか10数頁しかない短篇小説を長篇映画に移すという困難が、立ちふさがっていました。
もちろん、この物語ともう一つ別の短篇小説と結びつけるというおなじみの解決もできました。しかし、文学の傑作は時にそうなのですが、それ自体が“健全”で自己完結的な有機体を持っているために、他人の肉体の移植を拒むのです。
何年も試行錯誤を繰り返した末に、私はついに、『菖蒲』を補足できる真実の物語を発見した、と思いました。そう判断して、映画製作に着手しました。しかしそのとき、クリスティナ・ヤンダが出演できないとわかりました。彼女の夫であり、私の旧友で「大理石の男」「約束の土地」「ザ・コンダクター」「鉄の男」の撮影監督を務めたエドヴァルト・クウォシンスキの病状が急激に悪化し余命いくばくもなかったからです。
一年後に私たちが撮影に着手したとき、クリスティナの夫はスタッフの中にいませんでしたが、私は前のバージョンのシナリオを変えるつもりはありませんでした。
映画の撮影は、当然ながら、短篇小説『菖蒲』から始めました…。
さて、マルタがボグシと偶然出会い、彼に対して最後の“恋情”を抱くという物語の撮影を終えようとするころのことです。ロケから戻った私に、クリスティナは自ら書いた数ページの原稿のプリントアウトを渡してくれました。
私は読みながら、胸を衝かれました。そこには、私の生涯の親友エドヴァルト・クウォシンスキの最期の日々が記されていたからです。
「私だけに読ませてくれるつもりなのか?カメラに向かってこれを語ってみる気はないか?」
彼女ははっきりと、「ほかの人たちにも話したい」と答えました。そのとき私は、ふと考えました――「彼女はこういうことを思いながら、毎日ロケからホテルに帰るのか、そして孤独のうちに“あの瞬間”を思い出しているのか」と。
ただちに私の目の前に、孤独な女性がホテルの部屋ですごす様子を描いたホッパーの絵画が思い浮かびました。
このとき、本作の撮影監督パヴェウ・エデルマンが救いの手を差し伸べてくれたのです。彼は、私たちが撮りたいと考えていた映像を撮るためには、カメラを固定させて撮影するべきだと提案してくれました。
デビュー作を撮ったとき、私は27歳でした。そのころの私は、私たちはみな自分の映画を生きているのであって、生活など仕事のおまけにすぎないと感じていました。しかし今の私は知っています。俳優は仮に自分のすべてを映画の役柄に捧げるとしても、常に自分自身であり続けるのであり、いかなる幻想であろうと、彼らの現実にとって代わるようなものなど何もない、ということを。
だからこそ、私は“映画の中のマルタ”の独白は貴重だと考えました。
短篇小説『菖蒲』を映画にしたいという私の夢は、クリスティナ・ヤンダ抜きでは考えられないものでした。私が彼女と初めて出会ったのは32年前、「大理石の男」の現場でした。
私は『菖蒲』の作者と、そしてマルタを演じるクリスティナ・ヤンダと、長い空白の年月の後に再び出会いました。この二つの出会いのおかげで私は、自分自身を再び見つけ出すことがでたのです。それが画面に表れているかどうか――これは、観客のご判断におまかせします。
出演:クリスティナ・ヤンダ,パヴェウ・シャイダ,ヤドヴィガ・ヤンコフスカ=チェシラク,ユリア・ピェトルハ,ヤン・エングレルト
監督:アンジェイ・ワイダ
撮影監督:パヴェウ・エデルマン 作曲:パヴェウ・ミキェティン 美術:マグダレナ・デュポン メイクアップ:マルチン・ロダク
音響:ヤツェク・ハメラ 編集:ミレニャ・フィドレル ポスプロ・コーディネイター:モニカ・ランク
プロダクション・マネージャー:エヴァ・ブロツカ プロダクション・スーパーバイザー:マウゴジャタ・フォゲル=ガブリシ
エグゼクティブ・プロデューサー:カタジナ・フカチ=ツェブラ プロデューサー:ミハウ・クフィェチンスキ
2009年/ポーランド/87分/カラー/ポーランド語/シネマスコープ/原題:Tatarak/英語題:Sweet rush
字幕・資料作成:久山宏一
配給:紀伊國屋書店、メダリオンメディア 配給協力:アークフィルムズ 後援:ポーランド広報文化センター
© Akson studio, Telewizja Polska S.A, Agencja Media Plus
http://shoubu-movie.com/
2012年10月20日(土)より、岩波ホールにてロードショー(全国順次公開)
- 監督:アンジェイ・ワイダ
- 出演:マヤ・オスタシェフスカ, アルトゥル・ジミイェフスキ, マヤ・コモロフスカ, ヴワディスワフ・コヴァルスキ, アンジェイ・ヒラ
- 発売日:2010/05/07
- おすすめ度:
- ▶Amazon で詳細を見る
- 監督:アンジェイ・ワイダ
- 出演:タデウシュ・ウォムニツキ, ウルシュラ・モドジニスカ, タデウシュ・ヤンチャル, ヤヌーシュ・パルシュキェヴィッチ, リシャルト・コタス
- 発売日:2011/02/26
- おすすめ度:
- ▶Amazon で詳細を見る