第66回カンヌ国際映画祭レポート【5/5】
深谷 直子
「ある視点」でも情熱的な恋愛映画が受賞
『ストレンジャー・バイ・ザ・レイク』
『オンリー・ゴッド・フォーギヴズ』
松嶋菜々子、三池崇史監督その他のコンペ部門で賞に絡まなかった作品では、まずデンマークのニコラス・ウィンディング・レフンの『オンリー・ゴッド・フォーギヴズ』に心踊らされた。『ドライヴ』(11)に引き続きライアン・ゴズリングを主演に据えタイで撮影。アメリカ人が経営する怪しげなボクシング・クラブとそこにはびこる犯罪、家族の確執。神のようにばっさりと悪を裁く警官チャン、そして彼がカラオケで歌う歌謡曲……。説明を排したその世界はアジア人から見ても摩訶不思議だが、寡黙な作風のレフンには、無表情に映る東洋人とその内にある精神性、雑多な色彩を持つ風景に何か大きく触発されるものがあったのだろう。イメージと音響と夥しい暴力描写で見せる、美学で貫かれたフィルム・ノワールに圧倒された。
三池崇史監督の『藁の楯』も国境を越えて作られた作品である。日本では撮影許可が下りなかった新幹線のシーンを台湾で撮影したことについて記者会見で質問されると、監督は自由な撮影を可能にしてくれた台湾の協力にお礼を述べていた。が、会見での三池監督はたいてい複雑な表情を見せていた。カンヌのコンペ出品作はワールド・プレミアが必須条件なのだが、『藁の楯』はカンヌの前に日本で公開を迎えていた。こうした娯楽作品でカンヌへの参加はないものと早くから判断していたためだろう。しかしコンペに選出され、しかも国内で既に賛否両論分かれていたので、私たち外野からしてもカンヌ参加は不可解だし心配だった。だがティエリー・フレモー総代表はこの作品のオーソドックスさを買ってコンペに選んだとのこと。監督としてはそれも本意ではないという思いとともに、世界の目線は決して監督を異色の個性派としてだけ評価しているのではないという新鮮な実感とがあったようだ。明るくも暗くもないあの表情にはそういう突き抜けた境地が表れていたのだろう。カンヌでも評価は分かれ、レフンとともに嫌いな人は嫌いだが、「すべての要素が込められている」と絶賛する評も出た。私は初めて参加した正装で観る公式上映での熱いスタンディング・オベーションに感激しきりだった。三池監督は明らかに日本映画の壁を破り自在に映画を撮れる稀有で痛快な監督だ。今回のカンヌ出品でまたひとつ自らをはめていた枠を外し、変わりなく自分の「映画」を追求していってほしい。
ロマン・ポランスキーの『毛皮のヴィーナス』は評価も高く面白かった。マチュー・アマルリックが芝居の演出家、エマニュエル・セニエがオーディションに遅刻して現れた蓮っ葉な女優として出会い、彼女の厚かましさに押されて始まる二人だけのオーディションで、徐々に演技の中に没入して立場は逆転し、マゾッホの世界とも重なっていくというもの。ポランスキーが妻セニエを魅力的に見せようという個人的野心も伺えるが、『おとなのけんか』(11)で戯曲の映画化に新境地を見出したのか、軽妙に始まりじわじわと引き込んでいく達者な演出力がますます冴える佳作だった。
女優のヴァレリア・ブルーニ=テデスキの監督作で、脚本と主演も務めた『イタリアの城』は、没落していくブルジョワジー一家を描いた自伝的な作品。唯一女性監督の出品作となったが、残念ながらコンペの水準ではないと思った。しかし中年に差しかかった女性の出産への思いや、実の兄をエイズで亡くした悲しみも包み隠さず、自作自演の過剰な演技で笑いも取りながら描くところに、映画作家としての才気とフランス女優の度胸のよさを感じた。
『ボーグマン』
アラン・ギロディ監督(右) ©AFPオランダのアレックス・ファン・ヴァーメルダムの『ボーグマン』は奇妙で毒と風刺に満ちた作品だった。森の地下の隠れ家で暮らす正体不明のホームレスであるボーグマンが、司祭に追い立てられて郊外に逃れる。「シャワーを貸してくれ」との要求を受け入れたのは美しい庭園を持つ裕福な家。潜り込んだその家の子どもたちを手なずけ、徐々に主婦にも取り入って正当に住みかを得ると、仲間も呼び込みどんどん家庭を破壊していく。ハネケの『ファニーゲーム』(97)も彷彿させるが、この汚くまさに純粋悪の風貌で、子どもを洗脳し増殖をもくろむボーグマンたちの怖さはむしろSFのエイリアン的である。取りとめのない悪夢の世界を楽しんだ。
コンペ以外の部門では、「ある視点」部門で監督賞を受賞したアラン・ギロディの『ストレンジャー・バイ・ザ・レイク』が強烈な体験となった。同性愛者が集う湖畔を舞台にしたスリラーだが、とにかくゲイたちの生態のあからさまな描写に驚かされる。下半身を露わに浜辺でアピールする男たちは脚側から映され、ハードコアな性描写も赤裸々だ。しかし我を忘れた動物的な行為も、淡々と牧歌的に映されるので自然に見られてしまう。窮屈に生きるマイノリティたちにも、自由な自分を曝せるこんなユートピアがあるならば幸せだろうな……、と共感すら寄せながら。一方で彼らはそこで顔見知りになろうと名前も知らない他人同士であり、心の交流は難しい。主人公の青年に恋心を寄せながらも挨拶を交わすだけの内気な中年男性が、ようやく少し打ち解けて食事の約束をしても、本命がいる相手に簡単にすっぽかされてしまう。また、閉鎖されたユートピアは惨劇の現場にもなる。主人公は湖上での殺人事件を目撃するが、その犯人に惹かれていき、自分も犠牲者になるかもしれないとの疑念を抱きながらも警察の捜査をむしろ邪魔に思い、彼との愛にのめり込んでいく。ロメールのようにユーモラスで、ヒッチコックのようなサスペンスがあり、なんと豊潤な映画だろうか。とても新鮮に価値観を揺さぶられる1本だった。
同じく「ある視点」部門で「未来に向けた視点」賞を獲ったライアン・クーグラーの『フルーツヴェイル・ステーション』は、2009年の元日にカリフォルニアで起きた警官による黒人の青年の射殺事件を映画化したもの。青年は前科者だが、改心して家族と人生をやり直そうとしていた。映画は彼の人生最後の1日だけに焦点を絞り、過去の回想を織り交ぜながら、彼をとりまく厳しい環境や、よりどころとする恋人や娘や母親への愛、未来への淡い展望を、詩情も交えて描いていく。そして新年の祝賀に湧く電車内での不運なトラブルから警官に銃を向けられ、居合わせた人たちが携帯電話で撮影しながら見守る中、無残な一瞬へと向かうまでがじわじわと映し出される。主人公を演じたマイケル・B・ジョーダンや母親役オクタヴィア・スペンサーの切迫した演技に、理不尽な人種差別への怒りと悲しさが募った。監督は26歳でこれが初の長編映画。サンダンスで審査員グランプリと観客賞も受賞しており、ハードな社会派映画ながら日本公開も決まっているというのが嬉しい。注目していきたいと思う。
ライアン・クーグラー監督 ©FDC / L. Otto-Bruc
アレハンドロ・ホドロフスキー監督(左)アレハンドロ・ホドロフスキーが23年ぶりの新作『リアリティのダンス』を引っ提げて監督週間にて復活したのは今年のカンヌの事件。『オンリー・ゴッド・フォーギヴズ』でもエンド・クレジットでホドロフスキーへの献辞を捧げていたニコラス・ウィンディング・レフンの紹介でにこやかなホドロフスキー御大が登壇すると会場は大興奮で、私にとってもスピルバーグとの接近遭遇と並ぶ今年のハイライトだった。
日本でも出版されている同名自伝の映画化であり、厳格な共産主義者の父親と、オペラ歌手のように話す優しい母親との歴史を幼年期から辿るもの。拷問や放尿などショッキングなシーンも交えながら、家族への愛憎、抑圧と赦し、さまざまな思いがヴィヴィッドなイメージとなり万華鏡のようなカラフルな世界を見せてくれ、力強さに圧倒された。
『リアリティのダンス』はアップリンクの配給にて来年の日本公開が発表されて話題を呼び、私も楽しみにしているが、その噂はカンヌ期間中に聞いていて、もう1本監督週間で上映された『ホドロフスキーのデューン』(監督:Frank Pavich)を観なかったのを後悔している。きっと一緒に買ってくれただろうから字幕付きで観ようと期待してのことだったのだが、いまだこちらは配給が付いていないようなのだ。『ホドロフスキーのデューン』は、幻の作品に終わったホドロフスキー版『デューン 砂の惑星』のプロジェクトを巡るドキュメンタリー。壮大過ぎて製作が叶わなかった映画の全貌をホドロフスキー自身が明かすとともに、その企画自体がどれだけその後のSF映画に影響を与えたかを当時のスタッフたちが語るというもので、SFファンにはたまらない面白さだとのこと。映画史に関わる作品、いやきっと観る機会が訪れることを今も期待してやまない。
(2013.07.23)