今月の注目作
(2005 / 日本 / 宮藤官九郎)
宴会芸を突き抜ける力ワザを!

鮫島 サメ子

 困ったなあ。

 『池袋ウエストゲートパーク』も『ピンポン』も『GO』も、そして『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』も大喜びで見ていた筆者としては、 クドカン作品との相性がそんなに悪いとは思えないのだけど。今回は最初から最後まで、何だかなあという溜め息に終始。

 「リヤルと幻想、生と死が入り乱れた切なくも可笑しい"魂の五十三次"」とは本作公式サイトの惹句だが、そう、 独特のドライな疾走感と卓抜したコラージュセンスの下に繰り出されるギャグの数々を素直に愉しめば、「5点満点で3.7点」(Yahoo! ムービーのユーザー採点)は付けられたのかも。
 が、見栄を張っても仕方がない。主人公二人の額の血管がブチ切れそうな「てやんでい!」「べらんめえ!」の掛け合いを始め、 押しなべて肩に力の入りまくった過剰な演技は興醒めだったし、阿部サダヲや森下愛子、 荒川良々等々のお約束キャスティングも外連味が魅力に転じることなく、結局あざとさが鼻についただけ、というのが正直なところ。

 「才人」の初監督作品に期待しすぎた筆者が勝手に滑ったのか。とまれ、この居心地の悪さは何だろうと、トリアタマを絞って「似たような事例」 を思い出す。ううむ。気心が知れた連中による、ご機嫌で手慣れた宴会芸(とはいえ、それなりに気合の入った)の観客席に、ウッカリ「部外者」 が紛れ込んでしまった感じ…が近いかもしれない。純然たる第三者としての「客」の方向なぞハナから見ていない、内向きの芸。共演者同士が 「俺等、けっこう、いいじゃん」と自画自賛するようなソレの匂い。
 出演者が愉しむのはいい。が、出演者「だけ」愉しいのは、商品としてどうなんだ。もちろん、ギャグの好みは人それぞれであり、 近年のお笑い芸には押しなべて感心も関心もしない&持てない筆者のセンスの問題と言われれば、頷くしかないが。

 しかし、それでもなお素朴な疑問が残る。本作はその書割のような絵面から物語展開、演技、ギャグのテイスト、掛け合いの間に至るまで、 どう見ても舞台向け(もしくはテレビのバラエティ番組)の設えだった。なぜ、このツクリをあえて映画に持ち込んだのか。

 映画と舞台の差異を述べ立てればそらもうキリがないと思うが、ここではひとつだけ。 基本的に不特定多数のニュートラルな観客の鑑賞を前提にした映画に対して、舞台はある程度観客の「参加」を当てにできる。 殊にソコソコの位置にある小~中規模劇団の固定ファンは、時にイケズを口にしながらも「我が子」の成長が愉しみでならない、 一口馬主のようなものだ。こうした身内意識を持つ者にとって、暗黙の了解や内輪感の存在は優越意識と一体感を擽るものであり、 寧ろ大きな喜びとなるだろう。そしてあの、どこか宗教的行事にも似たライブならではの濃密な空気と陶酔感(単に酸欠かも)が駄目押しをする。 だから、筆者が鼻白んだバラエティ的演技やお約束感、スクリーンではどうにも浮いてた役者のアクといった要素も、これが「板の上」 であれば寧ろピッタリ嵌り、ハンパじゃない輝きを放ったはずだ。だからこその、「なぜ?」である。

 舞台のみならず、テレビや映画でも既に脚本家として赫々たる実績を持つ監督には、 この手法でもちゃんと客を惹きつけてみせるという勝算があったのだろう。でも、感想はやっぱり冒頭の「何だかなあ」。
 その中で唯一の救いは、ただ一人突き抜けた「芸」を見せてくれた、「笑の宿」の木村笑之新こと竹内力の存在だ。ダテに『DOA FINAL』 で哀川翔と「合体」してねえというか何というか。好悪を超え、あっけにとられている客までも強引に取り込む気迫とマイ・ ワールド感全開の説得力。これぞ、プロ。

 いや実に。どうせ「映画で舞台」をやるならば、全篇にこのレベルの「力技」が欲しかった。であるならば、 きっと手法云々などたいして気にならなかったに違いない。その意味でも、残念としか言いようのない怪作でありました。

(2005.4.17)

2005/05/01/13:13 | トラックバック (0)
鮫島サメ子 ,今月の注目作 ,真夜中の弥次さん喜多さん
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