先日発生した暴動によって、移民国家としての暗部が世界にさらけ出された感のあるフランスであるが、 本作はフランスはもとより現在のヨーロッパにおける移民問題の核心の一つであるトルコ移民を題材にしたサスペンス・ スリラーである。
「クリムゾン・リバー」('00)の原作者であるジャン=クリストフ・ グランジェ(本作では脚本に参加)の小説「狼の帝国」を原作にした本作は、 パリ10区のトルコ人街で発生した連続猟奇殺人事件を追う二人の刑事を軸に物語は進行していく。「クリムゾン・リバー」同様、 本作も若手刑事とベテラン刑事のコンビというバディムービーの定番を踏襲しているが、意表を突くのはその刑事の造形だ。
この種の作品では若手刑事は猪突猛進型の熱血漢、 ベテラン刑事は沈着冷静で老練な現実主義者というように、役柄の年齢がそのままキャラクターの特色になることが少なくない。が、 本作ではジョスラン・キヴラン扮する若手刑事をコンプライアンスが強い正義漢として、また、ジャン・ レノ扮するベテラン刑事を汚職の噂と乱暴な捜査手法で同僚から「悪魔」とすら呼ばれるダーティな卑劣漢にすることで、 従来のバディムービーのクリシェを上手く転倒させ、独自性を出すことに成功している。本作では予想外の無茶苦茶な行動を示すジャン・ レノに物語を牽引させながら、ジョスラン・キヴランが彼の行動を常に抑制する役を担っており、 バディムービーの特徴を巧みに強調したスピード感のある刑事ドラマに仕立てている。
これだけでもサスペンス・スリラーとして十分見応えのある作品になっているが、 本作ではこの刑事ドラマと並行して、記憶喪失に悩むアンナの物語を同時に描いていく。そして、 本作の最大の収穫はこのアンナのパートにあると言っていい。
高級官僚の妻として何不自由のない暮らしをしているアンナは、 一ヶ月ほど前から夫の顔が分からないといった記憶障害と薄気味悪い譫妄発作に悩まされているのだが、 夫の心配とは裏腹に彼女は周囲と自分自身に対する不信を強めていく。彼女が抱く混乱を周囲の人間はパラノイア的なものとして扱おうとするが、 周囲がそうすればそうするほどに、 彼女は自分の記憶に対する違和感を基にした自己疎外感と自分は一体何者なのかという自己不信感を募らせるのである。この構図は、P.K.ディックの好んで描いたシュミラクラ的悪夢世界を髣髴させる。
「ブレードランナー」の原作者として有名なP.K.ディック作品は、 これまでに何度か映画化されている(2006年三月に、潜入麻薬捜査官の悪夢を描いたディックの大傑作「暗闇のスキャナー」 がアメリカで公開予定)が、「ブレードランナー」 を除いてディック作品の本質的要素であるシュミラクラ的不安とアイデンティティの揺らぎを表現し得た作品はなかったように思う。 本作のアンナが募らせる「過去に何があったのか」「自分は誰なのか」「誰を信じていいのか」 という焦燥感によってサスペンスを加速させていく様は、ディック原作作品以上にディック的であり、 ディックファンには堪らないものがあるに違いない。
本作はこの毛色の異なる二つのサスペンスを縦横に織り交ぜることで、 スリリング感とドライブ感を堪能させてくれるが、もう一つ忘れてはならないのが青を基調にした映像に絶えず降りしきる雨の存在だ。 猟奇殺人事件を追う刑事達のパートではこの雨がハードボイルドなノワール世界を演出し、 アンナのパートでは彼女の心象風景を鮮やかに浮き上がらせて、 陰と憂いを帯びたパリという本作特有の作品世界を構築するに至っているのである。
この二つの物語はそれぞれが単体でも楽しめるくらい濃密なものではあるが、惜しまれてならないのは、 二つの物語が重なったときに浮かび上がってくる「灰色の狼」の存在、その実態が今一つ不明瞭なことだろう。この「灰色の狼」は、 トルコに実在の国粋主義組織で、フランスでは口にするのも憚られる禁忌的存在ということなのだが、なぜそこまで恐れられるのか、 本作では描き切れているとは言いがたいのだ。寧ろ、余りにも漠然とし過ぎているために、 中東過激派組織のステレオタイプの域を出ていないように感じる者も少なくないだろう。一説によると、 製作にあたってその筋から圧力がかかったとも言われており、このステレオタイプ感はその結果なのかもしれない。しかし、それならば 「実在の組織」を扱うことに拘らなかった方が、作品としては幸福だったのではないだろうか。パリを舞台にした中盤までが映像美といい、 世界観といい、丁寧に作り込まれていただけに、尻すぼみに終わってしまう後半の存在が実に、実に惜しい。
(2005.11.28)
(C)2005 Gaumont - TF1 Films Production
主なキャスト / スタッフ
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