面白い。筆者は本作の原作漫画を読んでないし、前編にしても本作にしても、基本的な世界観自体には殆ど関心を持てない。夜神月、なんて珍妙な名前のやつが主人公であったり、CG感バリバリの「死神」とやらが複数出てきたり、そもそもモチーフである「デスノート」というものの成り立ち自体、よくわからない。ノートのルールも、かなり行き当たりバッタリに書き加えられている印象である。だから「傑作」などと言い張るつもりは毛頭ない。どことなく古臭い画面のビジュアルや脇の役者の演技面(類型的なTVディレクター役のマギーなど)で、「これってどうなのよ?」という部分も非常に多かった。
だがしかし。地下牢に緊縛された戸田恵梨香に金子修介は言わせるのだ。「トイレに……トイレに行かせてッ!」と。もう、椅子から転げ落ちそうになってしまいました。すばらしい。男ならば誰もが一度は妄想するであろう(……えっ、するよね?)「女性に言わせてみたい」禁断の懇願台詞を、最高のキャスティングと舞台設定で言わせた金子監督は猛者だ。これぞ映画監督だ。『あずみ2』を見たときに失いかけたこの監督への信頼が百倍返しで戻ってきた。
と、多少茶化して書いたけれど、筆者はかなり大真面目にこの場面に感心した。これは氷山の一角であって、男性の欲望を刺激するスケベな演出スタンスが、全編に亙って貫かれている。満島ひかりのミニスカートから伸びる健康的な脚だとか、片瀬那奈のすらりと伸びた色気ムンムン(死語)の美脚だとか、上原さくらが車の助手席で見せるしどけなく組まれた脚だとか……要するに脚フェチ万歳の絵作りが最後まで続くわけだが、「おれは女優(の脚)の見せ方に拘る!」と宣言して徹底して自らの欲求に忠実な画面作りをすることは決して不純ではない。語弊を畏れずに言わせてもらえれば、これが金子修介の『デスノート』という人気漫画に対する戦い方なのだ。その戦いの最大の成果が、戸田恵梨香扮するミサのキャラクター造型であろう。
彼女は藤原竜也扮する天才殺人鬼に心酔し、彼が頼みごとをするときでも床に跪いて、命令口調をおねだりする。何ともワガママで甘えん坊な、そしてちょっと病的なマゾヒストだ。それを強調するかのように、彼女の衣装にはつねに鎖が巻き付いている。地下牢に監禁される場面は言うに及ばず、歩き出したとたんに足首に巻きついた鎖が映し出されるショットまである。この正確無比な演出ぶりはどうだろう。彼女は支配されることに至上の喜びを見出している哀れな子羊なのである。自身の命を捨てることすら厭わず、キラの奴隷となることを一途に願い続けている。
そんな彼女の背景は、一家皆殺しの唯一の生き残りという、明確すぎるほど明確な理由でカッチリ作りこんである。彼女は地上の殺人犯が全員死ねばいいと思い、その能力を有するキラを神、あるいはご主人様と崇める。その思い詰めた凶暴なる純愛は、いつしか彼女を愛らしく、そして儚げに見せてゆく。念願かなってキラと抱き合う場面の至福の表情。彼と唇を合わせることのできる喜び。彼女が無実の人びとを殺害したバカな娘であろうとも、その可憐はいささかも霞むことがない。冷静に考えなくとも、どうしようもなく漫画的なキャラ設定だが、戸田恵梨香の思いのこもった熱演によって、ここには真実味というものが確かに生まれている。ああ、なんて愛しいんだ! 抱きしめたい! と思った客は筆者一人ではないはずだ。なお、彼女のキャラクターに、金子修介を育てた日活ロマンポルノの残り香を微かに感じ取ってしまったことも蛇足ながら付加えておく。
それから、ある意味ネタバレになるけれど、ラスト十五分の台詞の応酬は実に見応えがあった。藤原竜也独演会。数々の大舞台で鍛え上げられたパフォーマンス的瞬発力が遺憾なく発揮され、その演技をスタッフがきっちりと捉えていく。本来、物語を登場人物の長い心情吐露で終わらせるというのは危険な賭けなのだ。『嫌われ松子の一生』でネタにされていたように、崖っぷちで片平なぎさを前に犯行理由をぶちまける犯人の絵にしかならないわけだから。しかし藤原竜也をはじめとして、戸田恵梨香、松山ケンイチ、鹿賀丈史の四者が互角に渡り合いながら、持てる力の限りをぶつけるこの場面の高揚感は格別で、「ここで決めるんだ!」という、全キャスト、全スタッフの熱意が映像に反映されていたと思う。力作!
(2006.12.19)
主なキャスト / スタッフ
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