スーダンと言えば皆さんは真っ先に何を思い浮かべるだろうか?
筆者の場合は、スーダン西部のダルフール紛争だ。2003年に勃発した紛争だが、30万人が虐殺され、270万人が避難民となり、史上最悪の紛争とまで言われている。そして解決の糸口はまだ見つかっていない。また、今年3月にはバジール大統領に対して国際刑事裁判所から逮捕状の発付が決定するなど、イメージ的には最悪である。
ダルフール紛争に関するニュースは日本ではなかなか報道されない。民族や宗教の紛争もなく、平和ボケしている日本にいると、この地球上に本当にそんな悲惨な地域があるのか、と非常に遠い存在に思える。もはや別世界での出来事のようだ。でも日本とスーダンの時差は7時間たらず。距離的に考えれば、さほど遠いというわけではない。
ダルフール紛争をまるで他人事のように捉えているのは、何も日本だけではない。本作は、スペインのバルセロナを舞台に、ダルフール救済のためのチャリティーコンサート「SING FOR DARFUR」が開催される1日を描いている。だが、人々のダルフールへの関心は皆無と言ってもいいだろう。ストーリーはこれと言ってなく、ある女性の様子をカメラで追っていると思ったら、次のショットでは彼女がすれ違った人を捉える。そうして次々に被写体が脈略なく入れ替わっていく。
本作は声高にダルフールの救済を訴えているものではない。もし、それをするのであれば実際のダルフールの難民キャンプなどの映像を挿入したり、本編のなかでダルフール紛争について、登場人物にもっと語らせたりするべきだ。だが、本作ではそのような常套手段を用いていない。モノクロームの無機質な映像からは人々の体温や感情が伝わらず、寒々しさすら覚えるのだが、それがかえって人々のダルフールへの無関心さを浮き彫りにし、姿が見えない他者の痛みや苦しみに対して、無関心であることの残酷さを伝えている。
バルセロナの雑踏を行き交う、様々な人々の軽薄な会話や態度が延々と続くのだが、よくよく考えれば、自分も彼らと同じような会話をしているではないかと思い当たる。
例えばサッカー好きの男性が、欧州のサッカークラブで活躍するエトー(カメルーン)やドログバ(コートジボワール)などのアフリカ出身の選手の名前を挙げていたが(ただし、ドログバの名前は日本語字幕には出てこなかった)、「スーダンにはいいサッカー選手はいないよ。だからダメな国なんだよ」という主旨の発言をしていた。彼の発言に諸手を挙げて賛同するわけではないけれど、サッカー大好きの筆者としては似たような会話をした記憶がある。その他にも、ファッションや仕事やペットについての会話も登場し、会話の内容に心当たりのある観客も多いだろう。
つまり、本作に出てくる人々は自分自身でもあるのだ。映画を見始めたときは、あまりにも無意味な会話が続くので、「せっかくチャリティーコンサートが開かれるのに、もっとダルフールのことを語るなり、考えたりしろよ」とやや不満を感じていたものの、映画の登場人物は実は自分自身と同じだと気づいたときには、身のすくむ思いがした。
だから、観客には登場人物たちを責めたり批判したりする資格はない。筆者もダルフール紛争のことを知識として知っていて、その惨状について「ひどいわね」と心を痛めるものの、それでは自分は何をするべきなのか、ということまでには考えが至らず、どうもバツの悪い思いがした。
もちろん、たわいのない会話をすることは罪ではない。むしろ、人が誰かと交わす会話のほとんどは、客観的に見れば、本作に出てきたような、どうでもいい内容で占められているのかもしれない。でも、その「どうでもいい」会話のなかにですら、ダルフールのことはほとんど触れられていないのだ。世界の多くの人々がダルフールに無関心であることを、スーダンの人々が知ったらどんなに悲しむことだろうか。無関心であることは何と残酷なことなのか、と改めて思う。
それにしても、本作のような観客参加型と言ってもよい映画は、他に類を見ないのではないだろうか。エンド・クレジットには“You”という文字が浮かび上がる。つまり、「あなたもこの映画の出演者なのですよ」というメッセージだ。そのような製作側の思いを観客はどう受け止めるのか。それは個々人がこれから考えていくことになる。何も毎日ダルフールのことを考えろ、と訴えているわけではない。だが、1人1人にできることには限度があるけれど、世界中の人達が今よりもほんの少しでも意識を高めていけば、何かを変えられると信じたくなる。そういう製作側の控えめではあるが、無関心で溢れている現状をどうにかしたいという思いが感じられる。
それを如実に表現したのが、映画の冒頭で「SING FOR DARFUR」のチケットが入った鞄をひったくられた英国人女性がラストに再登場し、タクシーの運転手に「コンサートに行くことになって、初めてダルフールのことを調べたの」と語る。ひったくりに遭ったせいでチケットをなくし、コンサートに行くことができなくなった彼女だが、チャリティーコンサートと銘打った「SING FOR DARFUR」の目的は、歌手のパフォーマンスを楽しむことよりも、ダルフールについて考えることのほうがはるかに大切なことのはずだ。彼女はそのことに気づき、ダルフールに無関心であることから卒業した。彼女のように、多くの人が意識を変化させることが、今、最も必要なことであることを伝えている。同時に、何らかのきっかけがあれば、誰でも意識を高めることができるという希望も感じられ、心地良い余韻を残す。
冒頭に記述した日本とスーダンとの距離感。我々の無関心がさらにその距離を広げている。もう少しダルフール紛争のことを知ってみよう、という意欲が、まずはその距離を縮めることになるだろう。自分のことだけではなく、他者(他国)に対する関心を少しずつでも広げることができれば、世界はもっと我々に近づいて見えてくるはずだ。そんなことを本作を見て、噛みしめていただきたいと思う。
(2009.10.1)
シング・フォー・ダルフール SING FOR DARFUR 2007 オランダ・スペイン
監督:ヨハン・クレイマー 撮影:ワウター・ベステンドルブ 美術:リッケ・ジュリア
(C)Sing for Darfur powered by PLUS heads inc.
9月19日より、シアターN渋谷ほかにて全国公開
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