東京にもしずかに雪が降りしきり、冬の寒さがもっとも厳しい時期をむかえるなか、古着とライヴハウスの町・高円寺では2011年2月9日から13日にかけて第2回座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルが開催された。初日から駆けつけるべくスケジュールを調整していた矢先、何かに憑かれたとしか思えぬ大風邪を患って一日半寝込んだすえ、3日目から身体をひきずって中央線に乗った。見られなかったいくつかの作品が、いまも悔やまれる。
■映画祭「ではない」
座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルは、今年でまだ2回目の若い祭典。プログラム、運営、ともにいまだ手探りの状況が続いているように見えるが、だからこそこのイベントが何をしようとしているかが、いま、如実に現れている気がする。
このフェスティバルのもっとも画期的な点は、その名称を「ドキュメンタリーフェスティバル」としていることからも明らかであるように、映画祭「ではない」ということにある。座・高円寺のスクリーンには、映画作品だけではなく、テレビ作品も上映される。同じ映像表現でありながら、なかなかクローズアップされないテレビ作品をプログラムに組み込み、文字通り拡大(クローズアップ)してスクリーンに映し出すことで、映画史の単線的な記述では見えないものが、視野のなかに開けてくる。
今回はテーマを「≒1969」として、1969年に前後する作品を映画とテレビとを問わず上映することで、ふたつのメディアが共有してきた精神史をあぶりだそうとしていた。面白かったのは、さらに各作品の上映前に1969年当時のニュースフィルムの上映があったことだ。大学闘争が収束しつつある東大の駒場祭や、万博開催前夜の大阪など、あるいは取るに足らない些細な光景が歴史をたしかに証言していた。2011年の現在からあらためてこれらの映画、テレビ、ニュースフィルムを再配置することで、「1969」という年号がいまのわたしたちに何を示しうるのか、その可能性を模索しようとする姿勢が伺えた。
■テレビ作品上映の意義
映画とテレビ作品をともに上映することは、それぞれの作家論を検討するうえでも欠かせない視点であるだろう。たとえば今回『パルチザン前史』(1969)が取りあげられた土本典昭は、周知のようにもともとは岩波映画制作所でテレビ用の短編作品を手がけていた。今回「俺はガンじゃない! 片腕の俳優 高橋英二の1年半」(1970)などのテレビ作品が上映された田原総一朗が、ATGで『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971)を制作・監督したこともよく知られている(清水邦夫と共同監督)。今回は取りあげられていないが、大島渚や吉田喜重など、テレビに可能性を求める映画作家も存在した。映画とテレビとを複眼的にまなざすことなしには、彼らの全体像は決して見えてこないことだろう。
今回もテレビ作品は入場無料での上映だったように、もともと公に向けて制作・放送されたテレビ作品は、上映プログラムとして入場料を取ることができない。名画座や映画祭で過去の作品にふれる機会のある(かもしれない)映画作品とは異なり、このことがすぐれたテレビ作品を見る機会を限られたものにしているのはおそらく事実である。テレビが「ただの現在にすぎない」ということが本当だとしても、そのいっぽうで巨大な映像遺産であることは疑いをえず、スクリーンで上映されるこうした機運が高まってゆくことを切に願いたい。
■あるキャスターの肖像――『ハノイ 田英夫の証言』
今回見ることのできた60年代末の作品から共通して感じられたのは、作品が「問いかける」姿勢である。もっとも顕著なものは、冒頭に街頭インタビューで「あなたにとってベトナムとは何ですか」と文字通り問う、TBS製作による『ハノイ 田英夫の証言』(1967)だろう。ディレクターは太田浩、宝官正章、村木良彦。1967年10月30日23時15分から放送された。
ベトナム戦争が泥沼化するなか、TBS「ニュースコープ」のキャスター田英夫は、南からの情報しか入ってこないことの苛立ちから、北爆のさなかのハノイへの取材を決行する。番組は、スタジオで大写しにされた田の冷静な表情と現地の映像とを結びながら、田の「証言」を主軸に構成する。現在の報道番組のイメージでは、キャスターはあくまで入ってきた情報を冷静に伝える「だけの」ものだが、ここでの田はみずからハノイへ身を投じ、みずからの見たものと聞いたものをみずからの言葉で語ることを恐れてはいない。北爆は朝と夕の二回に限られ、ハノイの人々はその時間帯を避けて日々の暮らしを続けている。田の視線はむしろ彼らの日常にこそ注がれる。変わりなく日常を続ける彼らに接し、「北爆はそれほど効いてはいない」と断言。力強く生活するハノイの人々の表情を、「容易ならぬ微笑」という文学的ともいいうる修辞で表現する。そこでいわれていたのは、田自身がパラフレーズしていたように、ハノイの人々の明るさと、真の独立に向けての不屈の精神に間違いなかった。これが、冒頭のインタビューで問われた「あなたにとってベトナムとは何か」に対する、その実情を取材した田の答えだったのだろう。このとき、ハノイの人々の不屈の精神と、田の報道への姿勢があたかも二重写しのように見えてくる。『ハノイ 田英夫の証言』が突出した番組であるのは、この作品がハノイについての重要なドキュメントであるとともに、田英夫というひとりのキャスターについてのドキュメントでもあるからに違いない。よく知られるように、この後この番組は「偏向報道」であるとして、田英夫はキャスターを降板させられている。その事実が、ベトナムの真実を伝えようとしたひとりのキャスターの肖像をゆるぎないものにしている。
上映後のトークで、今野勉氏と金平茂紀氏はこのような「哲学的ともいえるインタビュー」を用いた手法は、いかにもディレクターの村木らしい演出だと指摘。そうして「視聴者を共犯者に仕立て上げてゆく」のだと語った。この作品には3人のディレクターが関わっているが、こうしたインタビューや「スタジオドキュメント」の手法は、村木が固執したものだったという。TBS入社当時、和田勉のテレビドラマなどとともに、「大島渚氏の運動と作品」に触発されたと村木は著書で回顧しているが、大島のテレビドキュメンタリーの代表作である『忘れられた皇軍』(1963)のラストのはげしい問いかけを想起すれば、村木の方法論の源流のひとつに大島のドキュメンタリーがあったことを髣髴とさせる。トークでは、さらに田がきわめて慎重に言葉を選んでいることが指摘され、1965年に第2部以降放送中止になった『南ベトナム海兵大隊従軍記』(牛山純一制作)と同じ轍を踏まないよう留意していたという重要な点が語られた(この作品は昨年上映された)。
▶ レポート1 2
第2回座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル (2011/2/9~13)
『ハノイ・田英夫の証言』(1967/ディレクター:太田浩、宝官正章、村木良彦)
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