映画祭情報&レポート
第2回座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル【レポート2】
映画祭「ではない」ドキュメンタリーの祭典

萩野 亮

■和製シネマヴェリテ――『ねじ式映画 私は女優?』

村木とともに『ハノイ』の共同演出にあたった宝官正章は、この経験から同年『私は……新人女優』において、当時売り出し中だった歌手・藤ユキのインタビューを、30分ワンカット、フィックスのクローズアップ、という村木の「スタジオドキュメント」をさらに突きつめるラジカルな手法で制作する。相当な反響を呼んだというこの作品をわたしは見る機会を持てていないが(来年に期待)、今回のフェスティバルで見ることのできた岩佐寿弥監督作『ねじ式映画 私は女優?』(1969)は、タイトルのみならず、この作品と多くのものを共有しているように思える。

撮影前年の1967年に公開された『日本春歌考』(大島渚監督)に出演し、アングラ女優として名を馳せていた吉田日出子を中心的な対象に選んだこのフィルムは、作り手の出演者への度重なる「質問」によって構成されている。複数の俳優に質問を投げかけ、それに対するリアクションを記録してゆくこの手法は、まさに『私は……新人女優』と重なるものだろう。興味深いのは、上映後の宮沢章夫氏とのトークで岩佐監督が、このころ影響を受けていたのは「ゴダールのシネマヴェリテ」だと断言していたことだ。「シネマヴェリテ」とは、16ミリキャメラの軽量化と同時録音の実用化によって可能になったフランスの新しいドキュメンタリー表現の潮流を指す。その方法的特性は、作り手がキャメラの挑発的な存在性を強く自覚し、撮影行為それじたいによってさまざまに変容する取材対象を記録するというものであり、そのとき特権的に用いられたのが「インタビュー」という手法だった。ゴダールは『男性・女性』(1966)や『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1967)で、会話場面での切り替えしを否定し、徹底して聞き手のリアクションこそを画面に認めることで、シネマヴェリテの手法をみごとに劇映画に転用していた。

『ねじ式映画』は、吉田日出子の魅力を画面いっぱいに記録しながら、この映画のためだけに企画された演劇の上演までの道のりを記録してゆくことで、より根源的にドラマとドキュメントの枠組みを揺さぶってゆく。編集においては、日付と時間(時刻ではなく、ショットの継続時間)、場所を表示してばらばらにつなぎ合わせることで、観客を更なる混乱へ導く。岩佐監督によれば、ここに働いていたのは「(記録した素材の)どこを切ってもいいんだ」という意識であり、このスーパーは「映画が関わってしまったかけがえのない時間の表示」であるという。キャメラと対象との関係のみによって映画を駆動しようとするシネマヴェリテの方法論の、あるいはもっとも凝縮した表現がここにはある。

「60年代の政治状況のなかで、自分は表現の世界において映画とは何であるかを問いたかった」と岩佐監督はトークで述懐したが、同じ時代、テレビで悪戦苦闘を続けていた村木や宝官もまた、「テレビとは何か」をはげしく問うていた。今回上映された作品では、NHK製作の『廃船』(工藤俊樹演出、1969)もまた、第五福竜丸のたどった運命を、三種の異なる視点と時間軸によって何度も問い直す、きわめて知的な構成を持つ作品だった。60年代末とは、まさに「問いかけ」こそが表現の現場を支配し、観客や視聴者をも巻き込むかたちでそれを展開しえた時代だったのかもしれない。

■「やさしい作品ばかり」――コンペティション

座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルのもうひとつの柱は、公募によるコンペティション部門である。今回は84の応募作のなかから、『”私”を生きる』(土井敏邦監督)、『しみじみと歩いてる』(島田暁監督)、『ガジラの青春』(松本壮史監督)、『幸せな時間』(横山善太監督)の4本が入賞作として上映された。応募作のなかには、入賞した土井監督がそうであるように、すでに劇場公開作のある作り手によるものも含まれ、またテレビ作品も多く応募されている。ここでも「映画祭ではない」ことの雑多な面白みが強く現れているといえるだろう。今回はテレビからは入賞作がなかったが、今後はたとえばテレビ部門を設けてもいいのかもしれない。自主映画は各地に応募可能な映画祭がいくつかあるが、すでに記したようにテレビ作品は依然として見られる機会が限られている。その年の全国のテレビドキュメンタリーの力作が集まる祭典になれば、業界の活性化にもつながるだろう。

画期的だと思われたのは、その入賞作の審査が公開で行なわれ、Ustreamで中継されたことだ。今回の審査員は、田原総一朗(審査委員長)、吉岡忍、森達也、佐藤信、橋本佳子、若井真木子の各氏。この公開審査が何を明らかにするかといえば、とりもなおさずそれは各氏がどのように「ドキュメンタリー」という、あえていってあいまいな映像領域をとらえているかにほかならない。作品の提示したそれぞれの「ドキュメンタリー」に対し、どのような言葉で応じるのか。森氏が冒頭にまず語った「これは自転車とカレーライスを比べるようなもので、どこに基準を置くかで全然違ってくる」という前置きは、審査する者の「基準」が同時にこの場で審査されているのだということをいい表していた。

森氏は総論として、「作品が個人で簡単に作られる時代になって、どんどんセルフになってくることの懸念がある」と述べた。ここでの「セルフ」とは、いわゆる「セルフドキュメンタリー」を単に指しているのではなく、作品が他者との議論を介さず個人で制作されうる環境について指摘している。そしてその弊害が端的に「尺」=上映時間の「冗漫さ」として現れてくると語った。この「冗漫さ」とは、作り手と対象との関係性の問題でもある。総論として田原氏が述べた「作品のなかに闘いのない、いずれもやさしい作品ばかりだ」という評言にわたしはとても共感したのだが、今回の入賞作4本は、作り手と対象者とのあいだの緊張感をあまり感じられない作品ばかりだった。もちろんそれは個々の作品の問題であると同時に、日本の社会全体の変容を意味してもいる。佐藤氏が「特集上映で組まれた60年代作品と鋭いコントラストを感じた」と語ったように、現代はかつてのように観客を巻き込んで問いを形成してゆくような作品が成立する時代では、もはやないということだろう。

作品がセルフになってゆくという流れに対し、面白いスタッフワークを見せているのは『幸せな時間』である。この作品はキャメラを構える女性が祖父母をとらえたセルフドキュメンタリーでありながら、演出と編集は別のスタッフが担当している。この作品を激賞した橋本氏は、このことが「単に家族の記録ではなく、計算された緻密な構成にしている」と語った。この作品の、痴呆状態にあったはずの祖母が夫の死をいかにも気丈に受け入れる横顔を写した終盤のショットにはわたしも並々ならぬものを感じたが、橋本氏も付け加えていたように、字幕やナレーションの語り口に冗長さをおぼえたこともたしかだ。
『”私”を生きる』には、むしろそうした冗長さや「やさしさ」はなく、教育現場で闘う3人の教師はまさに「私を生きる」べく厳しさでみずからを律している。そして彼らの闘いを作り手は断固として支持する。しかし、その互いのぶれのなさには、ドキュメンタリーがドラマを育んでゆく余地が残されていないのではないか。だから田原氏はこの作品を「キャンペーン」だといいきった。また若井氏がこの作品と『しみじみと歩いてる』について語った「余白のなさ」もまた、そうしたことを指摘するタームだった。ここにはジャーナリズムとドキュメンタリーとの境界が顔を覗かせている。それを分節しうるのは、やはり「ドキュメンタリーとは何か」という各人の「基準」なのだ。
各氏から厳しい意見も聞かれた『ガジラの青春』が、しかしもっとも「いま」を感じさせる感性と手法で撮られていることはたしかだ。誰からも指摘されなかったが、この作品には松江哲明監督の『童貞をプロデュース』(2006-2007)をはじめとする諸作の影響が濃厚に認められる。その限りでわたしがもっとも期待を寄せた作品でもあったが、彼女も友だちもいない青年ガジラに、監督がバンドと学祭での演奏を勝手にプレゼントするという仕掛けがまるで活かされていないという印象は、審査員の各氏とまったく同じである。

いよいよ大賞を決定する段になって、森氏と吉岡氏が『”私”を生きる』を、田原氏と佐藤氏が『しみじみと歩いてる』を、橋本氏と若木氏が『幸せな時間』を推して完全に三分し、議論が停滞。急遽観客賞を設定し、当日4本すべてを見た観客(わたしも含む)が挙手による多数決で『幸せな時間』を選出した。残る『”私”を生きる』と『しみじみと歩いてる』に奨励賞が与えられ、大賞は該当作品なしという結果に終わった。この結果はわたしには妥当だと思われた。各氏の総論で語られた「やさしい」、「冗漫」という言葉が、やはり何より今回の4本を言い表しているように思われた。

■第3回へ向けて

5日間のうち限られたプログラムにしか駆けつけることができなかったが、昨年の第1回からもう一歩進んださまざまの新しい試みを見ることができた。プログラムに関してすこし付け加えるならば、「ゲストセレクション」で上映された作品が、当のゲストがこの機会にはじめて見る作品だったりしたことはとても残念だった。それぞれのゲストの思い入れのある作品として紹介するのでないなら、単にトークゲストとして招聘すればいいように感じる。特集上映については、再三繰り返したようにテレビ作品はとても貴重だが、映画に関しては『ハーツ・アンド・マインズ』や『アトミック・カフェ』、『沖縄列島』など、すでにソフト化されている作品がDVDで上映されることにあまり魅力を感じなかったこともたしかだ。タイムテーブルも、とくに最終日は相当きつかった。

このようなふとしたほころびが、「座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル」をこれまでにない映像の祭典にするため、実行委員会が試行錯誤を重ねた苦渋の結果であることは、しかし十分に感じられた。第3回は、2012年2月8日から開催が予定されている。来年こそは風邪をひかずに駆けつけたい。

(2011.2.27)

レポート1 2

第2回座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル (2011/2/9~13) 公式
『ねじ式映画・私は女優?』(1969/監督:岩佐寿弥/出演:吉田日出子)
『”私”を生きる』(2010/監督:土井敏邦) 『しみじみと歩いてる』(2010/監督:島田暁)
『ガジラの青春』(2010/監督:松本壮史) 『幸せな時間』(2010/監督:横山善太)

2011/02/28/23:50 | トラックバック (0)
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