魔法少女のいるところ

第1回「秘やかで孤独な祭典のために」

大久保 清朗

『魔法少女まどか☆マギカ』1
(C)Magica Quartet/Aniplex・Madoka Partners・MBS
少女が曠野を歩いていく。最後になるかもしれない死闘のために、風に抗い、たったひとりで。
目前に魔物が立ちはだかる。白い屍衣を待った巨大な死神たちだ。それでも少女は立ち止まることはない。彼女の背中に黒き怨念の影が広がる。翼のようにも見えるが、この世界のすべてが彼女の小さな双肩にのしかかっているようにも見える。そのとき、暁美ほむらの耳許で囁きが聞える。まぎれもない。それは親友鹿目まどかの声だ。ほむらは、かすかな微笑みとともに飛び立つ。文字どおり黒い火焔となって。
『魔法少女まどか☆マギカ』は――冒頭が映写機の輪転音とともに始まったように――カタカタと音をたてていた輪転が途絶えて終わる。かつて『仮面/ペルソナ』で、イングマール・ベルイマンもこの古風な機械音とともに物語を始動させ、終わらせた。映画自身が「これは映画である」と語るという仕掛けは、今ではありきたりな趣向にも見えるだろう。だがベルイマンの真意は映画の虚構性の暴露にとどまらず、その先になおも宿る機械性と呪術性との融合を透視することにあったのではないか。少年が白い壁を愛撫するとそこにぼうっと女の顔が現われる。光と闇。対立しあう存在同士の混合が映画(=女)を生成させることの奇跡。『まどか』の始まりは、ベルイマンの『ペルソナ』の導入を思い起こすとき示唆的である。
新房昭之監督の多くのアニメがそうであるように、『まどか』を見るとき、これがアニメであるという事実を意識せざるを得ない。第1話のアバンタイトルは重たい緞帳の開幕である。それは巨大なスカートを思わせる(ということは例の“怪物”の子宮内ということなのか?)。モノクロの迷宮をかけるまどかの姿。ダリ的歪曲空間は、どこかヒッチコックの『白い恐怖』で主人公がさまよう夢魔境を彷彿とさせる。しかし、そのなかにあって〈非常口〉の若葉色の標識が冴えざえと輝いているあたりがいかにも新房的シニカルさだ。その出口を抜け出したところで、まどかは今一人のヒロインほむらと出会う。第一話のタイトルは「夢の中で逢った、ような……」であった。所詮、すべては一夜(ひとよ)の夢に過ぎない。それも非常口つきの!
『魔法少女まどか☆マギカ』まどか『魔法少女まどか☆マギカ』ほむら
(C)Magica Quartet/Aniplex・Madoka Partners・MBS
新房作品に一貫する紋切型の面白さとは、別の言葉でいえば虚構からの出発である。それは一面で軽薄な形式主義、空疎な様式美である。しかしそれがある臨界点に達するとき、〈非常口のある夢世界〉が、脱出口のない現実に変貌する。まどかは、非常口を通ってさらなる悪夢にはまり込んでいたのではないか。それはまぎれもなく無限の恐怖である。だがこれは同時に奇跡の萌芽でもある。始まりにおいて、ほむらは、まどかにとって夢の中の存在である。だが終わりにおいて、まどかは、ほむらにとっての夢となっている。『セリーヌとジュリーは舟で行く』を思わせる、少女たちの入れ替り(チェンジリング)。

2011年4月21日深夜(22日未明)、何人の不眠者が『まどか』の最後を見届けていたことか。曙の静寂のなかで茫然としたことか。
深夜のテレビが、昼間のテレビとは違うことは、誰もが気づいている。それはもはや、ありふれた中継装置ではない。世界に遍在する異次元への扉としてのテレビ。『ポルターガイスト』におけるトビー・フーパーやスティーヴン・スピルバーグの想像力に、深夜テレビの魅惑は支えられているようだ。それは端的に〈孤独な祭典〉である。オリンピックであれワールドカップであれ、世界中継されるスポーツの祭典の、孤独とも連帯ともつかない狂騒を思い起こそう。「彼方」の戦場に向けて、魂が抜きとられていくことの恍惚は、現代に残された稀有な祭礼である。
深夜アニメもまた、「彼方」からの祭典である。『まどか』の魅力は、悠木碧や斎藤千和を始めとする声優たちの熱演、梶浦由記の音楽、劇団イヌカレーによるコラージュ的造形美、アニメ制作会社シャフトによる高度な技術的達成に支えられている。だがそれらが、深夜アニメという非日常と強い親和性を備えていることも無視できない。

1990年代後半に次第に本格化していった深夜アニメは、世紀末の闇――二十世紀末の夜に、快楽をむさぼる人々の消費慾――を糧として、ゆっくりと成育し、今に到る*1。そこには日中には抑圧されていた血なまぐさい快楽がいっせいに芽吹き、淫靡な欲望が大輪の花をつける。それはかつて映画において人々が求めていたものではなかったか。
たとえば世紀末日本の電脳ポルターガイスト奇譚ともいうべき『serial experiments lain』は、深夜アニメというものがどのようなものであるか(どのようなものであるべきか)を教えてくれたのではなかったか*2。いずれにせよ『lain』が深夜アニメの〈深夜性〉に深く根を下ろした作品であることは確かだ。
serial experiments lain Blu-ray BOX|RESTORE (初回限定生産)ひとりの少女がビルから墜落死し、ヒロイン玲音(れいん)が、死者であるその少女からのメールを受信する。そこから少女が奇妙な情報の迷宮に巻きこまれていく。『lain』に漂うのは濃密な屍臭である。それに比べれば黒沢清作品との物語的類似は瑣末なことだ。たとえば、まぶしい陽光が路上に作りだす影。『lain』ではそこに疫病者の肌に浮かぶ斑紋が広がっている。そしてそれは『まどか』の最後で、ほむらの双肩に広がっていた蠢く怨念の影に酷似してはいなかったか。そもそも、エンディング・ソングにおいて、闇の中でくるくるとまわる少女のシルエット(それが人間の顔の目ように見えるのが不気味)は、裸のまま眠り続けるヒロイン玲音をケーブルや配線が繭のように包みこんでいるエロティックなイメージを彷彿とさせずにはおかない。深夜アニメとは、死の世界から届けられる手紙のような存在だ。死がそうであるようにそれは〈彼方〉にある。しかし、誰もがそれぞれ死を免れないという意味で〈内部〉にある。
少女という無垢と深夜という魔。両極の非現実の相姦によって、生み落とされた存在が『まどか』ではなかったか。そしてそれは彼岸の存在であると同時に、此岸の存在である。かつて東映任侠映画のヒロイン藤純子をめぐり加藤周一は「われらに超越し、同時にわれらに内在する英雄、その超越性と内在性の弁証法が、彼女を大衆の理想の代弁者、管理社会の昼が終った後、深夜の映画館における大衆のひそかな願望の人格化たらしめる」*3と書いた。まどかも(そしてほむらも)、いやあらゆる魔法少女たちが、「われらに超越し、同時にわれらに内在する」ヒロインたちだ。「管理社会の昼」が終わり、日常から切りはなされた夜の電波となって「ひそかな願望の人格化」として結晶化したヒロインたちである。ほむらの聞いた「がんばって」というまどかの囁きは、すでに希望という概念と化したまどかとしての超越者の声であるとともに、ほむらの記憶のなかで生きつづけるまどかの内在者の声であった。
だがそもそも、なぜ魔法少女でなければならなかったのかだろうか。私たちの「願望の人格化」としてのまどかは魔法少女の姿を取ったのか。この連載を通じて、これからしばらく魔法少女について考えてみたい。

編註

*1 1990年代から2000年代にかけての深夜アニメの変遷については、「アニメ!アニメ!ビズ」掲載中の「藤津亮太のテレビとアニメの時代」の第23回および第24回を参照されたい。 本文へ

*2 この作品については、『SFマガジン』2011年6月号に掲載された関竜司氏の論考「玲音の予感――『serial experiments lain』の描く未来」を参照されたい。本文へ

*3 「さらば藤純子」『加藤周一著作集』第7巻、平凡社、1979年所収。本文へ

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2011/06/04/14:11 | トラックバック (0)
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