ファントム・スレッド
2018年11月7日(水)ブルーレイ+DVDセット発売!
Text:青雪 吉木
完璧な役作りで有名なダニエル・デイ=ルイスと、同じく完璧主義のポール・トーマス・アンダーソンが『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(08)以来の主演×監督タッグを組み、1950年代ロンドンの高級服飾店を舞台に、男女の捻じれた愛の覇権争いを描いた傑作。
ダニエル・デイ=ルイス演じるレイノルズが時間をかけて身支度をする冒頭からして、目の当たりにするのは完璧主義。自宅と工房と店を兼ね備えた高級服飾店「ハウス・オブ・ウッドコック」の天才的なデザイナーにして仕立て屋であるレイノルズの関心は、自分の理想の服作り以外にない。完璧な身支度も仕事に臨むための儀式であり、時に彼が興味を示す女性はデザインにインスピレーションをもたらし、完成したドレスを着せるマネキンのような存在でしかない。やがて飽きれば、服飾店の経営に辣腕をふるう姉シリル(レスリー・マンヴィル)が手切れ金代わりのドレスを与え、女はお払い箱となるのだ。シリルは弟のレイノルズを完璧に理解しており、彼の才能を活かすべく、他者が入り込めないルールをあらゆる人間に課すのである。そう、レイノルズが地方のレストランで見初めたウェイトレスのアルマ(ヴィッキー・クリープス)もこれまでの女と同じはずだった……。
レイノルズにしてみれば、最初はアルマの素朴さが美徳に見えたが、換言すれば無神経。アルマにはレイノルズの作品であるドレスを愛する気持ちもあるが、それ以上に普通の男性としてレイノルズを愛し、日々の暮らしを実践する自分を愛して欲しいのだ。だから彼女はレイノルズの仕事中にも日常を持ち込む。朝食の席ではデザイン画をスケッチするレイノルズの横で喧しい音を立ててトーストにバターを塗り、午後には熟考するレイノルズをよそにガチャガチャとカップを鳴らし、頼んでもいない紅茶を注ぐ。もちろん、傲慢で極度の集中を必要とするレイノルズはこれに我慢がならない。邪魔だと言い放ち、だから下げてるでしょと抗弁するアルマに、邪魔された事実は消えない!と追い打ちをかけるのである。そろそろ関係が終焉に向かうかに思えた二人だが、仕事が佳境を越え、疲れ果てたレイノルズが見せた無防備で赤ん坊のような姿にヒントを得たアルマは、“ある方法”で二人のパワーバランスを反転させる……。
絃とピアノで構成され、時に沈黙の瞬間がありつつも、終始、鳴り続いている印象があるジョニー・グリーンウッドの格調高い音楽、撮影も兼ねたポール・トーマス・アンダーソンの異常に濃密で重厚で寓意を込めた絵作り、そしてダニエル・デイ=ルイスとヴィッキー・クリープスの強力な演技に引き込まれるのは必至だが、この映画でもっとも驚くのは、レイノルズを倒錯的な関係に引き入れるためにアルマが行う“ある方法”だろう。“ある方法”をめぐり、最終的にレイノルズとの共犯関係に陥る男女の心理の駆け引きは、サスペンス映画さながらである。
実際はポール・トーマス・アンダーソン監督が病床に伏せた際に感じた妻への疑惑に端を発したアイデアらしいが、この“ある方法”を観ていて筆者が思い出したのは、映画ファンには『太陽がいっぱい』(60)『見知らぬ乗客』(51)『キャロル』(16)の原作者として知られる作家パトリシア・ハイスミスのある短編小説である。商業誌に初めて掲載された彼女のデビュー作「ヒロイン」。奉公先の家庭への狂おしい愛を抱く子守りの女が、いざというときにどんなに役に立つかを女主人に証明してみせようとして起こす異常な行動を描いた短編だが、この子守りが起こす行動は、心理の上ではアルマが行う“ある方法”とほぼ同じと言っていいだろう。だから何?と言うなかれ。実はパトリシア・ハイスミスとダニエル・デイ=ルイスの間には微妙なつながりがあるのだ。
それを説明するにはダニエル・デイ=ルイスの父親について触れねばならない。彼の名前はセシル・デイ=ルイス。幼いころから詩を書き始め、後に名誉ある桂冠詩人に任命されたほどの才人である。だが、古くからのミステリ・ファンなら別の名前を覚えているだろう。江戸川乱歩が激賞した『野獣死すべし』を筆頭に、多数の作品をものしたミステリ作家ニコラス・ブレイクである。結婚後、二人の子供(もちろん一人はダニエル・デイ=ルイスその人)を持った詩人セシル・デイ=ルイスは、生活のためにミステリ作家としても筆を執っていたのだ。ここで取り上げたいのは、そのニコラス・ブレイクが1958年に出版した『血ぬられた報酬』という作品である。注目したいのは、そのあらすじ。
互いに亡き者にしたいほど邪魔な存在を持つ二人の男が出合い、彼らはこう考える。一人が完璧なアリバイを用意してもう一人が殺人を犯し、お互いの邪魔者を消し合う交換殺人を行えば、どちらも容疑者になることなく目的を達するに違いない。だがその先には……。
このあらすじを聞いて、アルフレッド・ヒッチコックの『見知らぬ乗客』を思い出す人は少なくないだろう。ヒッチコックの映画の公開が1951年、そしてパトリシア・ハイスミスの初長編である原作の出版が前年の1950年。ついでに言えば、この映画化にあたって脚色を担当したのがレイモンド・チャンドラーだったという事実も興味深いが、それはまた別の話。要するに1958年に発表された『血ぬられた報酬』が後塵を拝しているのは否定できないところだが、ニコラス・ブレイクはその存在を知らなかったという。彼は『血ぬられた報酬』の巻末に追記を寄せており、こう書いている。
本書が印刷されてのち、わたしはそのプロットが、パトリシア・ハイスミス女史の『見知らぬ乗客』のそれと相似していることを発見した。わたしは、この作品に一度も目を通しておらず、映画も観ず、また、この作品の内容を聞いた覚えもなかった。(中略) 幸いにして、ハイスミス女史は、この偶然の悪戯によって立たされたわたしの苦境に、理解ある態度を示してくださった。ここに女史に感謝の意を表する次第である。
ダニエル・デイ=ルイスの俳優引退作『ファントム・スレッド』の鍵となるプロットとパトリシア・ハイスミスの短編第1作「ヒロイン」の相似。そしてダニエル・デイ=ルイスの父であるニコラス・ブレイクの『血ぬられた報酬』の基本プロットとパトリシア・ハイスミスの長編第1作『見知らぬ乗客』の相似。単なる偶然と言えば偶然に過ぎないが、どこかしら“見えない糸”を感じるのも確かだ。
『ファントム・スレッド』でダニエル・デイ=ルイス演じるレイノルズは母親に囚われている。そもそも仕立て屋の仕事を始めたのも、再婚する母親のウェディングドレスを繕った16歳の記憶に執着しているからだ。母親の幻影を編むための“見えない糸”。経営を司る姉シリル、従業員のお針子たち、顧客、そして彼がデザインした服を試着させるマネキン代わりの恋人と、周りを取り囲むのは女性ばかりだが、母親に並ぶ存在はおらず、彼はドレスを仕立て続けることで今は亡き母親の幻影を追い続けているのである。恋人との関係を拒絶し、支配する役割を果たしていた“見えない糸”がアルマの手に渡り、今度は母親のようにふるまうアルマがレイノルズを支配する。タイトルの『ファントム・スレッド』とは、そのような“見えない糸”のことであり、あるいは完璧な仕事をこなすレイノルズやそれを演じるダニエル・デイ=ルイス、ひいてはポール・トーマス・アンダーソンの監督術に至るまでの完璧主義を貫く“見えない糸”のようにも思える。主演のダニエル・デイ=ルイス以外に男性キャストがほぼおらず、父性の存在は欠け、最終的には女性に屈服するストーリーでありながら、作品自体は監督・主演男優コンビの完璧主義が支配しているという矛盾。ところが、さらにそこへ主演男優の父親と因縁のある女性作家の視点が入り、プロットを操る別の“見えない糸”があるように夢想させられるというのは、何とも皮肉な話ではないだろうか。
(2018.9.12)
監督・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
衣装デザイン:マーク・ブリッジス 音楽:ジョニー・グリーンウッド
出演:ダニエル・デイ=ルイス、ヴィッキー・クリープス、レスリー・マンヴィル
発売・販売元:NBC ユニバーサル・エンターテイメント
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公式サイト
2018年11月7日(水)ブルーレイ+DVDセット発売
- 監督:ポール・トーマス・アンダーソン
- 出演:ダニエル・デイ=ルイス, ヴィッキー・クリープス, レスリー・マンヴィル
- 発売日:2018/11/07
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