(完全ネタバレ・要注意!)
あらかじめ断っておきたい。筆者はこの三部作を、Aプログラム『朝日のあたる家』→Bプログラム『蒼ざめたる馬/複製の廃墟』の順番で見た。送り手がそのようなプログラムを組んだのはそれなりの意図あってのことだろうと受け止めたからだ。
『朝日のあたる家』は三部作通してのヒロイン・マユミが故郷の伊勢で被る悲劇を描き、『蒼ざめたる馬/複製の廃墟』は、彼女が悲劇を乗り越えた果てに、都市部で犯罪者およびテロリストとして開花する様子を描いている。したがってAプロ→Bプロの順序は時系列に沿った並びであり、物語の構成としてはわかりやすいのだが、Bプログラムからの帰納法的な見方の方がいいとする意見もある。三部作を見終わった今、なぜそのような意見が出るのかは漠然とわかるが、どこから見てもそれなりの感慨をもたらす作品であることは間違いがなさそうだ。以下はAプロから見た者としての感想である。
順を追っていこう。『朝日のあたる家』は伊勢のとある小さな町を舞台にしている。実家で一人暮らしをしている平凡なOL、マユミのもとに、「画家になりたい」という夢に挫折した妹、ナオコが帰ってくる。マユミはそれまで、妹の学費や仕送りを捻出するため、昼は事務員、夜はクラブでアルバイトをしていた。ナオコはそのことに感謝するものの、マユミが大手デパートの副店長と付き合っていることを知って激昂する。そのデパートが町に進出したせいで、姉妹の家業は潰え、商店街はシャッターが下りて墓場の様相を呈し、母は貧窮と失意のうちに死んでしまったのだ。いわば敵である男と姉との交際を、ナオコは認めることができない。彼女は副店長の姉への愛を確かめるべく、一計を案じる……。
『朝日』は三部作の中でドラマとしての完成度がもっとも高い。が、およそありきたりなメロドラマの域を出てはいない。決して陳腐であると腐したいわけではない。それぞれのキャラクターはよく作られているし、人物たちの関係性の力学も、ドラマ作りの教科書のようにかっちりと作りこまれている。しかし、献身と裏切り、敵であるはずの男との交情、誘惑と脅迫、唐突としか言いようがない殺人事件の発生、新鮮味に乏しいクリシェめいたセリフの果てしない応酬など、ドラマを構成する要素の悉くが、昼メロであってもおかしくはない次元に留まっているのだ。もしこの作品が全81分をこの調子で語り終えたならば、筆者は続編への興味を失っていたかもしれない。ところが最後の5分にいたり、映画は俄然輝きはじめるのである。
マユミはある人物に殺害され、海底へと沈められてしまう。ところがそれは彼女が平凡なOLから日本経済を攪乱するテロリストに変貌を遂げるための通過儀礼だったのである。殺害されて海水に浸けられるという経験は、キリスト者として生まれ変わる「生のバプテスマ(洗礼)」ではなく、すべての愛を否定する「死のバプテスマ」だ。映画は最後に、ほの暗い商店街を湿った映像で映し出す。つまり、この閉ざされたシャッターがひしめき合う暗い商店街を「産道」として、あらゆる階級を嫌悪するマユミが誕生したのである。このように、ありきたりなメロドラマを超克する独自の意匠が施されたことで、見る者は続編への強烈な期待を掻き立てられずにはいられないだろう。
もっとも、死者の蘇りは基本的にありえない話であって、男は一瞬、腐乱死体となったマユミの姿を目にしたりもする。したがってこれに続く『蒼ざめたる馬/複製の廃墟』は、一種の寓話と読むことも可能である。
『蒼ざめたる馬』という言葉は、映画の冒頭でも引用されたヨハネ黙示録が原典だが、その本懐は、同一のエピグラフを掲げた、ロシアの社会革命党のテロリスト、サヴィンコフことロープシンが著したテロ小説『蒼ざめた馬』への目配せであろう。聖句を口ずさみつつテロ活動に明け暮れる冷徹非情な人物を主役に据えたこのロマンティックな傑作テロ小説が、『蒼ざめたる馬』ならびに『複製の廃墟』へ与えた影響は決して小さくはないはずだ。ロープシンもまた、政治信条をまくしたててよしとするのではなく、刺客の心象に重きを置いた作品作りを行っているからである。
『蒼ざめたる馬』は、京都に姿を現したマユミが、二人の女を配下にし、金持ちの男を誑かして金を巻き上げ、不要となった彼らを殺害するというウェットなノワールだ。手下の少女の一人は、騙した相手に惚れつつあり、マユミはそこに危機感を抱いている。愛や恋を真っ向から否定し、金持ちから金を巻き上げることに即物的な喜びを見出すマユミにとって、少女の姿はあまりにも軟弱に映るのだ。
しかし、そもそも彼女たちの犯行はあまりにもずさんである。殺害した男の車を白昼堂々乗り回し、死体を埋める場所も異様にロケーションの良い、いつ増水してもおかしくないような河原だ。死体の着衣を剥ぎ取り、被害者の歯を破壊して身元判明を遅らせるといった、事件隠滅の基本的な知識も持ち合わせていない。これは彼女たちの無知というよりも、絵柄を優先した作り手の問題のようである。細部を疎かにする投げやりさは三部作すべてに見受けられ、およそ肯定できるものではない。仕上がりとしては習作めいた中編であり、単体で見た場合、不満の残る仕上がりだ。『ラザロ』は各作品を単体で見るべき作品ではない。
三部作の掉尾を飾る『複製の廃墟』は、「その後のマユミ」を刑事の視点から描いた一種のサスペンスで、映画としてのテンションが格段に高い。東京にやってきたマユミは、贋札作りの技術を学び、日本経済の攪乱を計画するのである。ここにきて『ラザロ』のルサンチマンは爆発する。
かつて「日本型社会主義」と揶揄される平和な時代があった。しかしバブルが弾けて長い不況が続き、時代の要請にこたえるように小泉劇場が開幕し、種々の構造改革が断行され、熾烈な市場競争が発展し、貧富の差が極端に拡大して、地方と能力の低い奴と福祉が切り捨てられる、弱者救済の仕組みが破壊された弱肉強食の時代が到来した。そしてマユミは、大手デパートの進出によって廃墟と化した、小さなアーケード街を産道として生まれたテロリストである。すなわち、小泉が推し進めてきた新自由主義に対する復讐の女神なのだ。
彼女は「金持ちのボンボンが一人死ねばその分世の中が平等になる」というマユミ理論を提唱し、数々の殺人や経済テロを起こして日本国家に揺さぶりをかける。しかし、彼女は何も本気で彼女なりの“理想の社会”を築きたいと考えているわけではないだろう。何かをやりたいのだ。誰かに一杯喰わせてやりたいのだ。第一、彼女は妹がなぜ殺されたのかも、自分がなぜ殺されかけたのかも正確には理解していまい。はっきり言って彼女は作り手の思いを仮託されるために造形され、動かされているにすぎない。したがって彼女が口にする底辺生活者の憤怒と恨みは生硬で説明的なセリフにならざるをえないし、高度な技術を必要とする偽札作りが、ここに示唆される程度の安易さでなし得るものなのかとか、刑事の捜査方法がまるでなっていないとか、そもそも贋札をばら撒く行為が、本当にマユミらしいだろうかとか、ありとあらゆる疑問符が頭の中で湧き上がってもくる。だから見る側は、それが人物のセリフというより、作品の主題を作者が語っているのだという割り切り方をするべきなのかもしれない。
彼女は自分を恋い慕う若い刑事を殺害する。さらに自分を追い詰めた老刑事も相棒に射殺させる。彼女は愛や恋といった情緒的なもの一切を信じない。「目的のためならばすべての手段は正当化される」と言わんばかりに、人命を奪うことを躊躇しない。彼女が殺害するのは、おもに国家権力の犬である警察官や資本家の息子だったりするが、同時に紙幣の偽造を手伝わせた町工場の老人――労働者階級の男だ――すら、相棒を使って殺害するのを厭わない。抑圧された者による権力への憎悪がいつしか狂気を帯び、敵のみならず、自分の立場を危うくする者への独裁者的なふるまいを引き起こす。歴史がさんざん繰り返してきた過ちを、マユミは無自覚的に踏襲するのである。
ところで『ラザロ』という総タイトルに込められたものは、『朝日』の結末を踏まえた「死者からの蘇り」という、ヨハネ伝11章に見える「ラザロの復活」という高名なエピソードに多くを依っているのだろう。だがルカ伝16章にある「金持とラザロ」というたとえ話のほうに、より重要な連関性がある。
ここでのラザロは金持の家の門前で暮らす「できものだらけの貧しい人」である。彼は死後、陰府でアブラハムとともに宴席につく。そこへ、死んだ金持ちがアブラハムに助けを求めにやってくる。しかし、彼は生前富んだ暮らしを送っていたことを理由にアブラハムから指弾されるのである。
「お前は、生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼が慰められ、お前は悶え苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越してくることもできない」(「聖書・新共同訳」)。
ここに、貧者が金持ちを徹底的に断罪する『ラザロ』三部作を貫徹する世界観が集約されているといっていい。『蒼ざめたる馬/複製の廃墟』において、マユミは富者へ一切の容赦をしない。貧者と富者との間に、マユミは明確な断絶を見ている。言ってしまえば戦争を仕掛けたわけだが、彼女の富者に対する戯画的なまでの想像力の欠如は、富者がまったくの他者であることに由来する。いささか鼻白むタイトルも、こうしてみると太古から続く「貧困」の歴史性に準拠しており(『朝日のあたる家』が貧困を歌ったトラディッショナルであることは説明するまでもないだろう)、本サーガにそこはかとなく漂う神話性を引き立てる道具として有効に機能していることが理解されるだろう。
以上はタイトルに冠せられた言葉の観念的な意味合いを勝手に解釈したものが、乱暴な物言いであることを承知の上で続けると、『朝日』の舞台となる伊勢も、単に撮影条件その他の理由で選ばれただけとは言い難い事情が垣間見える。
1910年に起きた「大逆事件」(天皇暗殺を目論んだ、とされるグループが逮捕された事件)の中心メンバーの出身地は、伊勢に近しい熊野は新宮の出であった。しかもこの事件、台頭してきた社会主義者への弾圧という性格を帯びている。先述したマユミの「金持ちのボンボンが一人死ねばその分世の中が平等になる」という理論の根底には、社会主義、ひいては共産主義へのかなり歪んだ憧憬が横たわる。紀伊の男・井土紀州はそういった歴史的背景を踏まえた上で、あるいは大逆事件の雪辱戦として、マユミというテロリストを造形したのではないのか。これもまた暴論であることを承知で付け加えれば、初代天皇・神武天皇が国の平定においてもっとも手を焼いたのは熊野である。
結末において彼女は、自分が一種の神に近付いたことを知るが、彼女のたたずむ林には寒々しい風が吹いている。たまたまあのロケ地に風が吹いていたとは見做せない。マユミの心象風景としての風が吹いているのだ。尻上がりに盛り上がってゆくテロドラマの結末として、はたしてそんな叙情的な幕切れでよかったのかどうか。マユミに激越な感情移入をした者にとって、この結末は物足りないはずである。ここには感傷的で安直なヒューマニズムしか漂ってはいないからである。しかし筆者は、生硬で扇動的なセリフや主題を、映画の枠組みにすぎないはずの「ドラマ」が乗っ取ったのだと理解した。つまり、映画はメッセージを伝えるための道具ではないことを、作り手自らが実証したのだ。
確かにそれはありきたりなメロドラマであるかもしれない。しかし、その“ありきたり”から脱却できないところに、映画ならではの良さがあり、安らぎがあるのだ。テロリストに恋した純情で若い警官。その警官に心ならずも惹かれてしまうマユミ。この絵に描いたようなメロドラマ的構図の魅力はどうだろう。マユミに初恋の相手の面影を見ている相棒の女(伊藤清美、好演!)が、計画を成功させ、海外へ旅立つ際、自らの頬にナイフを入れてマユミとの熱い記憶を刻印する行為のぞっとするようなロマンティシズムなど、完全にラブストーリーのそれだ。そうした美しいメロドラマの表出なくして、この殺伐とした映画の魅力は絶対に語れない。テロドラマとメロドラマのきわめていびつな融合が、『ラザロ』の独自性である。
また、頻発する贋札偽造事件によって日本経済が混乱に陥っていく様を、夥しい新聞記事のつるべ打ちによって描き出す手法が、若松孝二監督が一連のテロ映画で示した爆弾テロのシークエンスと酷似しており、否が応でも映画的興奮を誘われたことも付記しておく。
(2007.7.29)
ラザロ~LAZARUS~朝日のあたる家/蒼ざめたる馬/複製の廃墟 2007年 日本
監督:井土紀州
脚本:板倉一成,井土紀州,森田草太,遠藤晶,西村武訓,吉岡文平
撮影:鍋島淳裕
出演:東美伽,弓井茉那,成田里奈,池渕智彦,小野沢稔彦,伊藤清美,堀田佳世子,小田篤
ポレポレ東中野でAプログラム『朝日のあたる家』を~8月3日まで上映。
その後、大阪・第七藝術劇場、名古屋シネマテーク、
広島・横川シネマ他
全国順次公開
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