アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』と言えば、『指輪物語』と並び称されるハイ・
ファンタジーの傑作にして、エピック・ファンタジーの至宝とも言える作品である。
尤も1968年の第一巻から1972年刊行の第三巻までを一つの区切りとして、それから18年後に第四巻が刊行されるなど、
シリーズ全体としてはル=グウィンの思想的変遷に合わせて紆余曲折を経た作品でもある。
そもそも『ゲド戦記』の名を高めたのは、それまでのファンタジー作品では脇役的位置だった魔術師にスポットを当てたこと、
これによって形而上学的な世界像を精緻に構築したこと、この二点にあるだろう。特に、
他作が世界を経巡る外的な冒険を中心に描いていたのに対し、『ゲド戦記』がそのような外的な冒険よりも、自身の『影』
と対決するという内的な冒険を物語の基幹に据えていたこと(第一巻)は、当時としては極めて画期的だった。
ユング心理学でいう『シャドウ』に通底するこの『影』という概念、そして『影』との統合・
超克を通じた主人公の精神的な成熟などを描いた第一巻に続き、光と闇の対立と統合を描いた第二巻、生と死の対立と統合を描いた第三巻と、
『ゲド戦記』は従来のファンタジーで顕著に見られた二項対立的な世界構造から主人公を、延いては読み手自身を解放する普遍的な物語として、
時代を問わず読み継がれ愛され続けてきたのである。
そのようなファンタジー文学史に名を刻む金字塔的作品だけに、『指輪物語』の興行的大成功以来、
ファンの間で映画化が待ち望まれていたのは想像するに難くない。今回は実写ではなくアニメ化であったが、それでも「スタジオジブリ」なら……
と希望を抱いた向きも当然あるだろう。しかし、よもやこの作品を宮崎駿の長男・吾朗氏が監督することになるとは、
殆ど誰も予想できなかったのではなかったろうか。
筆者自身も、このサプライズ過ぎる人選に喫驚した一人であるが、その話が噂から確定に変わった段階で、筆者の中でジブリ版『ゲド戦記』
の作品的失敗は確定されたも同然となったのは言うまでもない。なぜなら、現場も知らない、実作経験もないズブの素人が、
まともな作品に仕上げられることなど、文字通り「万に一つの確率」であるかないかだからだ。しかも、
原作があるとはいえシリーズの中盤部分を中心に脚色すると聞けば、失敗の確率は更に跳ね上がる。これで成功を期待することは、
はっきり言って「奇跡」を期待するに匹敵することと言わねばならないだろう。
果たして予想通りと言うべきか、一般試写の段階から酷評の嵐が吹き荒れたわけだが、
そうした声に対して筆者個人は少なからず疑問を抱く。特に「父親・駿の足元にも及ばない」
といった批評がまかり通っていることは残念と言うほかない。
勿論、「ジブリ・ブランド」の作品であるし、父子であるし、そうした比較をされるのは必然的な面はあるだろう。また、
そうしたくなるのも理解できなくはない。が、この二人を並べて比較すること自体、はっきり言ってナンセンスなのだ。
息子であろうとなんであろうと実務経験のない素人が、処女作で宮崎駿レベルの作品をいきなり作れると本気で思っていたのであれば、
それは創作や作劇というものを全く理解していない人間の言葉だろう。逆に言えば、そうした比較をすることは宮崎駿の才能、実績、
功績そのものを否定し、単なる消費対象にまで貶めるもの、愚弄するものとすら言いうるのではないだろうか。
とは言っても、本作が酷い失敗作、 習作レベルの愚作としか言いようがない作品であることは否定しようがない。しかし、色眼鏡を外して観れば、本作を観た宮崎駿が「素直な作品」 と評した理由も見えてくる。それだけ本作は、あらゆる意味で「素直すぎる」作品なのだ。
物語は、魔法の力が失われ始め、世界の均衡が崩れつつある多島海世界”アースシー”を舞台に、 世界に災いをもたらす源を探るべく旅をしていた大賢人ゲドと父王を刺して国を出奔中のエンラッドの王子アレン、 二人の出会いと旅路を描いている。
本作の問題点についてあげつらうのはキリがないが、集約すれば、物語創作の初心者が陥りがちな
「頭でっかちの観念性」と自分の有している原作情報と作品理解を前提に話を一方的に組み立てる「二次創作作家が陥りやすいミス」、
この二つに尽きるだろう。
前者は「生きることを大切にしない奴なんて大嫌いだ!」というテルーの台詞を筆頭にした生硬すぎる台詞群に顕著だが、
表現に対する自信のなさと伝えたいという思いが先走った結果、台詞にすることで理解してもらおうとしている感が強く残る。
後者は、主に中盤以降の脚本の破綻の原因となっているが、原作を知らない観客が存在することまで頭が回らなかったのか、
作品内で全く咀嚼せずに原作のネタだけをいきなり持ちこんでしまっており、監督の余裕の無さと作劇技術の低さを露呈してしまっている。
ただ、本作で注目すべきなのは、そうした欠陥ではなく寧ろアレンに「父殺し」をさせていることである。
原作にない「父殺し」を敢えて付け加えたのは、やはり偉大すぎる父・
駿の影を常に意識せざるをえなかった吾朗監督の心情をストレートに投影させたものと見るほかない。
余りにもストレート過ぎて気恥ずかしくなるほどだが、『影』に怯える姿や吐露される父王に対する心情など、
アレンの言動は全て吾朗監督の肉声を想起せずにはおかないものであることは事実だろう。
物語の構成も、『影』に怯えるアレンというオリジナルな設定を加えることで、「世界が均衡を崩し始めた原因」
を探るという雲を掴むような原作の大枠に対し、メリハリを持たせて持続感を打ち出そうと苦心した様子が窺える。尤も、それも中盤以降、
ゲドとクモの因縁話を持ち出したことで、一気に破綻してしまっているのだが。
総じて不細工で不格好な作品ではあるが、自らのテーマを打ち出そうとしている点など、
それなりに評価できるように思う。
ただ、はっきり言ってしまえば、余りにも全てが早すぎたのだ。監督をすることも、観念的なメッセージを盛り込むことも、
原作を利用して自分のテーマを開陳することも、メッセージ性と娯楽性の両立を図ることも何もかも。
そうしたことの一切は実作経験の過程で、確固とした自らのスタイルを築き上げた者だけに許された領域であり、
技術と経験が噛み合って初めて観客を満足させる作品として成立するものだろう。
本文のタイトルを劇場版「風の谷のナウシカ」より引用したのは嘲弄でも皮肉でもなく、筆者の素直な思いである。そして、この『ゲド戦記』
という歪な作品は、吾朗監督(そして、鈴木敏夫プロデューサー)が生み出した『影』そのものでもあるだろう。この余りにも強大な『影』
を自らのものとすることができるか否か、そこに今後の彼の監督生命とスタジオジブリの命運がかかっている。
(2006.8.7)
製作:「ゲド戦記」製作委員会 コピーライト:(C)2006二馬力・ GNDHDDT
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