山下葉子に見惚れた。黒沢あすかに戦慄した。二人が同じフレームに収まった際の、 息を飲むようなエロティシズムに唸った。実際に起きた殺人事件が下敷きにされていたり、 メディアに取り沙汰される機会の多いチャイルドアビューズや保険金殺人がモチーフだったりと、 "社会派"と称される要素には事欠かない作品だ。しかし、これはれっきとした恋愛映画だ。赤裸々でファナティックな、 女性同士のラブストーリーである。
そう言い切ってしまうと、日本の風土の特異性を「犯罪」という視点から抉り出した重層的な本作品を矮小化してしまうかもしれない。 しかし、鑑賞後脳裏に焼き付いて離れないのは、魔性の女・ 黒沢あすかによって性的なアイデンティティを根底から覆されてしまった山下葉子のひた向きな形相と、 彼女を翻弄する黒沢あすかの底冷えするように残忍な嘲笑だ。二人の対照的な表情が作品にはりつめた緊張感を保たせており、 官能的な興奮を誘う。そのせいか、筆者にはその他の事柄がすべて副次的なものとして映った。切実に伝わってくるヒロインたちのエモーション。 それが本作品の命である。
山下葉子は美しく裕福な都会の人妻で、一人息子を持ち、鳥の絵を描くことを趣味としている。一方、 黒沢あすかは鄙びた田舎町でガソリンスタンドを営む父のもと、誰の子とも知れぬ娘を嫌々育てている自堕落な女だ。 山下は自らが運転するタクシーに黒沢を乗せ、その手を鎖で縛りあげる。彼女は怒っている。いや、 怒りを通り越して絶対零度の醒めた境地に達している。彼女たちの間には只ならぬ過去があるらしい。はじめ抵抗していた黒沢は、 開き直っている上に、早くも山下を籠絡しようとする狡猾な微笑を口元に浮かべている。映画はそんな二人がいかにして出会い、 どんな経緯を辿って現在に至ったかを簡単には説明してくれない。『ペパーミント・キャンディー』(イ・チャンドン監督)式に、 時系列が遡る構成で徐々に彼女達の過去を紐解いてゆく。
子どもが消えたのだ。山下のたった一人のかわいい息子が行方不明になった。山下はその鍵を黒沢が握っていると確信している。 映画はやがて子どもの失踪劇の真相に焦点を絞ることになるが、そこに「たかが子ども一匹の命」とでも言いたげな、 野蛮で原始的な視点を挿入させた点が、凄い。もちろん、作り手がそう考えているというわけではなく、そうした非人間的 (だが実はきわめて人間的)な発想を物語にきちんと取り込まなければ、人間を描いたことにはならないからそうしたのである。
子どもを失って狂乱し、泣き崩れる母親たちの姿を、 我々はテレビドラマやワイドショーやニュースでさんざん目にしてきた。あるいは、 無辜の子どもたちが易々と命を奪われる恐ろしい現実に粛然とし続けている。しかし、その痛ましい姿をただ単に「痛ましい」 と言ってみたり、子どもに手をかけるのは悪いヤツだと糾弾するだけでは、ことの本質は見えてこない。 想像を絶する行動の背景を理解しようと努めること――。それは作り手としての誠意であり倫理である。「人間を描く」 という命題に敢然と取り組んだその姿勢は、故・今村昌平のそれと通じるところがある。
とは言え、それでも筆者は女性同士の恋愛模様だけに拘りたい。例えば劇中、息子探しに疲弊した山下が、 夫と息子を殺害したという若い女(未向)を拾って、ホテルで慰みものにする場面がある。若い女は山下の愛撫から空虚さを感じ取る。 そして言い放つ。「私は誰かの代わりなんでしょ!?」。これって凡百の恋愛劇でしばしば目にする、王道のシチュエーションではないか。いや、 クリシェだと非難しているわけではない。こうしたありがちとも言えるシチュエーションを挿入することで、ある種の恋愛映画の―― ある種のピンク映画の、と言い換えてもいい――必要不可欠な要素が的確に配置されたようで気持ちが良いと言いたいのである。
山下が黒沢に送り続けていた絵葉書を、黒沢が「気持ち悪い」と床に投げ捨てる場面もそうだ。 それを見た山下は、自分の純粋な想いが踏みにじられたようで深く傷ついただろう。たまらなく惨めだっただろう。 しかも相手は自分よりも若く、下品で、下層階級に属している。黒沢を想って一人微笑を浮かべながら小鳥を模写した、 あの美しく満たされた時間は何だったのだ? このときの山下の顔は急に何歳か老けて見えて痛々しい。否、痛みとは名ばかりで、 これは甘くて疼くような必死の愛の交歓場面なのだ。
その最大のものが、終盤明らかになる二人の馴れ初めである。それがどのようなものか、ここではもちろん明らかにしないが、 映し出されるそれは、見ているこちらが途方に暮れるほどロマンティックなものだ。思いもよらぬ場所で落とし穴にはまり、 一瞬にして世界のタガが外れてしまう――その後の二人の人生を大きく狂わせてしまう。それはやはりとてもロマンティックなことなのだ。 たとえ最悪の悲劇が二人を待ち受けていたとしても。
(2006.10.3)
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