いきなり私見だが、映画を観る時には、それが「誰が観るものなのか」 がよく気になるマイナー好きにとって、今観ている作品が一体何なのかを判断するために、 一定の意味付けを試みるのは一種のケジメでもある。ご存知の方は多いだろうが、もちろん本作はマイナーではない。 日本の女子中高生を中心に幅広い支持を集めた「Deep Love」シリーズの作家Yoshiの初映画化作品だ。 原作の支持層が物語っているように、この作品は若い世代にとって友情や生を見つめなおす契機となることが望まれている。
非行が問題となったのは昨日今日のことではないが、最近ではそれに伴って自身の「生き方」を見失う子供たちの増加が懸念されている。 「夜回り先生」と呼ばれる水谷修氏が、夜の街にさまよう青少年たちの教導育成に努めているのは有名な話だ。寄る辺を失い、 不安定感を抱える若者たちへ送られたYoshi氏の物語は、今を生きる者たちの最もきらびやかな姿を描き出し、 生と死という強烈なテーマを観客に訴えかけてくる。多くの若者にとって同世代の若者の物語は共感を呼び、 自分自身の悩みを解決する手だてとなることができるのかも知れない。
「友達なんか必要ない。必要な時だけ利用するもの」とリナ(北川景子)は言い放つ。 突然の病魔に襲われ、絶望して命を絶とうとした彼女は、幼少からの友達だと言うマキ(本仮屋ユイカ)に出会い「本当の友情」 に気づき始める。「本当の友情」というと「ふたりはプリキュア MaxHeart2」の台詞を思い出すが、 それはひとまず置いておこう。入念な配慮を経て選ばれた俳優は、各人それぞれが本作品の世界観によく合っている。 北川景子は見事なプロポーションもさることながら、リナの苛立ちや不安、孤独感を湛えた演技が一際輝いている。 本仮屋ユイカの出演を重ねるごとに洗練されていく演技も注目である。他にも人気俳優やベテラン俳優などが配され、 まさに各人が気を吐いた空間となっていると言えよう。
しかし、だ。逆に言えば本作はこういった原作者や監督の意図を反映させただけに過ぎない。
若者層に向けて骨太のメッセージを送り出す一方で、ストーリーとしての深みや映画としての魅力は決定的に損なってしまっている。
これではただの道徳授業のビデオ教材だ。一人一人丁寧に選ばれた配役は、ストーリーに組まれた枠組みを出ることなく、
主人公やテーマを際立たせるだけの機能しか持たない。主人公のリナの両親は特にひどい。
大杉漣や宮崎美子は養育者としての父母像をくどいほどの演技で見せてくれる。しかし、
リナや両親を取り巻く環境や原因については一切言及されず、いわゆる一般的な若者の現在的な視点からしか描かれることはない。結果、
周囲の人物達は主人公の"主観的な"原因として示されるに過ぎず、単なるストーリーの持ち駒として充てられただけにしか見えない。
これは明らかに演出の失敗である。映像をできる限りリアルに、
そしてテーマを伝えんとする意気込みのあまり作品自体のリアリティを測り損ねた。結局は表層的に作者のテーマをすくっただけの、
側面的で薄っぺらな作品となってしまった。また以下のようにも言えよう。誰が見ても分かりやすく、
明白なメッセージを前面に押し出してはばからない作品、つまり固定した道徳観念や社会観を持ち、視野狭窄な主張をする作品は、
学校で見せられる道徳の教材と同じ程度の水準でしかない。教室か映画館か、見る場所が違うだけだ。もし
「本当に大切なことは結局どこでも一緒だ」と言うつもりなら、もう少し客観的な視点を混ぜてもよかったのではないか。
舞台や役者をよりリアルに見せようとすればするほど、内容のお粗末さが浮き立ってくる。
テーマがテーマなだけに、作品の芝居臭さやわざとらしさを避けることは難しいのだろうか。Yoshi氏の作品の性質自体が、 野にて道徳を説くようなものだからかもしれないが、両沢監督は小説と映像の受け取られ方をもう少し吟味するべきであった。 同じメディアではあっても、両者は似て非なるものだ。
(2007.2.9)
Dear Friends 2007年 日本
監督:両沢和幸
脚本:両沢和幸,三浦有為子
出演:北川景子,本仮屋ユイカ,黄川田将也,大谷直子,小市慢太郎,宮崎美子,大杉漣 他
公式サイト
c2007『Dear Friends』製作委員会
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