話題作チェック
(2008 / アメリカ / クリストファー・ノーラン)
「そこ」には答えのない問いしかない

松本 不二人

ダークナイト『バットマン ビギンズ』(2005)に続いて『ダークナイト』が公開されている。クリストファー・ノーラン監督によるバットマン新シリーズである。アメリカでは興行成績も次々と塗り替える程の人気だそうだ。日本にも鳴り物入りで公開されたこともあり、早々に注目されていた。この人気は、ヒース・レジャーの死去が一因でもあろう。本作において私の一番の関心事だったのも、やはりジョーカーを演じたヒース・レジャーである。彼は『ブロークバック・マウンテン』(2005)で素晴らしい演技を見せて以来、寡聞にも(本当に寡聞なのだが)その名前を聞くことはなかった。今回ジョーカーという極めてエキセントリックで有名な役柄を演じただけでも注目に値するというのに、その若い命を失ってしまう程の役柄、そして本篇自体どれほどのものだったのか、と思わずにはいられなかった。
ジョーカーの役作りは生半可なものではなかった。彼はことさらにオーバーな演技をしている、というわけではない。確かにピエロの不完全なメイクはジョーカーという存在の生々しさを伝えているようで、あの顔での高笑いにはめまいを起こしそうになった。しかし、彼はジャック・ニコルソンのように悪目立ちをしたり、本篇自体を食ったりということもない。こう言えば語弊があるが、違和感のない当然の狂気の男であった。彼の徹底的な安定感はもちろん他のキャラクターや、場面全体の構成でも同様にいえる。とは言ってもジョーカーは笑い声一つとっても圧倒的な魅力がある。「アッハア、ハア、イイ、アア」と不自然な笑い声をあげ、マローニ(エリック・ロバーツ)率いるマフィアの会合に突然現れるジョーカー。またバットマンに殴られ爆笑するジョーカー。スクリーンを自由に踊り回るように歩く彼の姿を見ると、本篇は必ずしも彼だけのために設えられているのではないと分かっているのだけれど、いつの間にかジョーカーを中心に据えて見ている私がいる。札束の山に火を放つシーンでは、思わず「ここまで見せてくれた男がもういないんだ……」と感傷がにじむ。

ダークナイト2だがもちろん、そんな作品外の話題や感傷だけで観客を呼んでいるような薄っぺらなものであればここまでの人気、高評価には至るまい。本作が並々ならぬ力を注いで作られたことは、本篇を見たら一目瞭然である。本作はバットマン旧シリーズよりもリアリティに徹底的にこだわり、全体を練り上げている。それゆえ各々の役柄も相当に作りこまれており、役者たちも十分に、いや十二分以上に応じている。またリアリティを非常に重視した作品であるからこそ、作品全体にはヒーローものによくあるご都合主義、幼稚なヒーロー礼讃、正義への無条件な称賛が影を潜めている。たとえば今回の敵であるジョーカー(ヒース・レジャー)とトゥーフェイス(アーロン・エッカート)には、単純に悪とは言い切れない非常に人間的な側面があり、従来の善悪二元論では判断できない問題の深刻さをバットマンに投げかけている。
もちろん、映画のエンタテインメント性を純粋に喜ぶ方々にはこのような込みいった設定を嫌う人がおられるが、もはや理想のヒーロー像だけが好まれる姿ではなくなった、とここでは言っておこう。これは独りよがりの私見ではない。全年齢の観賞に堪え得る作品は確かに、それゆえにこそエンタテインメントの役を果たしていると言える。しかし、昨今の現代社会、世界全体で従来の価値体系が崩れつつある時期に、あらゆる人々に対して燦然と輝くような確固たる価値観を提示することなどできるのだろうか。
また私自身も基本的に、真理だとか言ったものをあまり信じてはいない。そんなものが分かれば皆苦労していない。「真理」という言葉の中には、原義以上に教条的なニュアンスが匂い立つ。かくあるべき、とかいう真理などまやかしである。ここあたりは極私的で必死な主張に過ぎないが、少なくとも誰にとっても分かるような、口当たりのよい形で提供され得るものなど、まずもって表層的であると言わねばなるまい。そういった意味でも、この作品が現代の善悪問題を煮詰め、より多角的な視点から矛盾をも炙り出し、バットマンたちをファンタジー世界のキャラクターから等身大の人間へとより近付けた、ということが感動的ですらある。また、今この作品が多くの人々に受け入れられている以上、少なくとも観客は陳腐なプロパガンダよりも、価値観の不確かなこの現実を直視したシビアな内容を好むようになっているということでもある。

ダークナイト3一般的に、ヒーローものにおける悪役は正義に駆逐されるべき存在であり、そこには一般に、たとえばキリスト教にある七つの大罪や愚かさなど、“善し”とされている性質の対極を特徴に持つものが多かった。それゆえに正義と悪とは明確に線引きされ、正義は悪にどれほど苦しめられようとも最終的には排除、克服するだけでよかった。それはある意味では単純な事実であり、そのためスクリーンに映し出される正義の在り方は牧歌的であったともいえる。しかし先述したように、何が悪で正義なのかが昨今の情勢や価値観の崩壊とともに次第に不明確になってきて以来、徐々に正義そのものの存在意義が問われるようになってきている。すでにヒーローもの以外の作品、たとえば史実を題材にした映画などでは正義の正当性を問う作品がいくつも出ている。
本作では正義の側にバットマンがあり、そして悪の側にジョーカーとトゥーフェイスがいる。しかし、実際にはこれは容易に二分できない。ジョーカーはバットマンに、「俺はお前を殺さない。お前がいるから、俺が悪でいられる」という。またバットマンにマスクを取ることを要求するものの、彼に直接危害を加えようとすることは、相変わらずあまりない。バットマンにあってはジョーカーを殺すチャンスが何度もめぐってくるのに、その最後の一線を越えることができない。正義の信念を貫くがあまりジョーカーを殺せず苦悩するバットマンの有様を見ていると、まさに正義―悪の表裏一体さ、不可分さを表しているようでもある。結局後半で現れるトゥーフェイスも、そんな正義と悪の軋轢に巻き込まれた1人である。彼は「運」という第3の手段を用いていた。しかし、彼のコインの使い方を見てみればそれが恣意的なのは明らかである。自分の望む手段を公正に見せるために「運」を方便に使うという人間のあさましさ、そして使わざるを得なかった悲痛さがここにはにじみ出している。

ダークナイト4いったい、望ましい社会を作るためにはどれだけのものを敵に回さなければならないのか。悪とはそう単純なものではない。“反”社会的行動を続ける悪や、秩序に対して混沌を悦ぶ悪、善から一方的に悪と名付けられた悪……本来世界は善悪に分けられない。それでもバットマンはゴッサム・シティを舞台に戦い続けるが、それは永遠の務めであるように思われる。彼のそうした行為こそは、いわば絵空事の理想、真理を追う代償だともいえる。完全な理想を決して体現できず、彼自身も公に認められることのない“闇の騎士”―ダークナイト―として務めるほかないのなら、バットマン自身が必然的に己の“悪”を受け入れる必要がある。「ゴッサム・シティには光が必要だ」という彼の台詞には、もはや悲痛さしか漂っていない。バットマンとは守護者、闇の監視者であると同時に、正義のため闇に潜むしかない受難者でもある。必要悪、という言葉があるように、善悪の不可分さをそろそろ新しい形で認める時期が来ているのかもしれない。
バットマンが苦しみ、ヒース・レジャーが死んだ『ダークナイト』。現実社会へ照射されたファンタジーが突き付けるメッセージは答えのない問いであり、「かくあるべき」と安易に口走る者にはあまりに辛辣でさえある。映画として最高に完成度の高い作品であり、また自分自身を深く思いめぐらされる一本である。

(2008.8.24)

ダークナイト 2008年 アメリカ
監督・脚本:クリストファー・ノーラン 脚本:ジョナサン・ノーラン
撮影:ウォーリー・フィスター 美術:ネイサン・クローリー
出演:クリスチャン・ベール,マイケル・ケイン,ヒース・レジャー,ゲイリー・オールドマン,
アーロン・エッカート,マギー・ギレンホール,モーガン・フリーマン
TM & (c) DC Comics (c) 2008 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved
公式

8月9日(土)より、丸の内プラゼール他 全国ロードショー中

ダークナイト (Blu-ray Disc)
ブルーレイ
クリストファー・ノーラン
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(参照日:08.10.05)
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2008/08/25/18:41 | トラックバック (6)
「た」行作品 ,松本不二人 ,話題作チェック
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