うっかりしていると、幽霊部員になりそうです。再び、INTROに書かせてもらいますので、よろしくお願いします。
本サイト、時々は覗いて読んでおりました。一頃は全くといっていいほど人の書いた映画評を読まなかったのですが、最近はまた、なるたけ読むようにしています。映画評ってのは結局どう書いても答えの無い、永遠に未完の世界。そこが面白いのかな、と改めて感じつつあるので。それでも、油断すれば誰もが、グルメの美食ガイドと書き方をゴッチャにしてしまうリスクとすぐ隣り合わせです。映画評を書くのはやりがいがあるけど、なかなか難しい。そんななか、本サイトでオッとなったのが、最近よく書かれている富田優子さん。自分の「好き」「面白い」をいったん冷まし、本当の感情を確かめながら書いている印象があって好感です。こういう健全な人が出てきたら、たちまち原稿依頼が舞い込むようじゃなきゃ、つまらん話です。(映芸ダイアリーズも、ホネのあるのが揃ってますのでひとつよろしく……)
以上は、『妻の貌(かお)』という映画を紹介するためのマクラ。この映画について書く場合は、映画評の役割を同時進行で考えてみる必要を覚えたからです。
川本昭人さんという82歳になるアマチュア映画作家の作品を、以前からコンクールの審査などで接していた映画評論家の佐藤忠男さんが高く評価していた。そこから、より多くの上映機会をという動きが生まれ、今回の劇場公開につながった経緯があるそうです。
『妻の貌』には、それだけの熱意を引き寄せる力があります。僕が映画の書き手専業ならば、どれだけ賞賛の言葉を注ぎ込んだことか分かりません。「2009年の日本映画ベストワン早くも決定!」とすら書いてみせたかもしれない。そういうキーワードは、千言、万言を費やすよりも吸引力がありますから。なにしろ僕自身が、佐藤さんの「疑いもなく日本映画史に特筆されるべき傑作である」というコメントにびっくりし、ただもうその言葉に曳かれて、6月に行なわれた試写会の抽選に申し込んだ次第。
で、待てよ、ここは考えどころだぞ、と思ったわけです。
「傑作」や「必見」という言葉は確かに強い。こんなに魅力的な宣伝文句は無い。しかし批評する人が用いる言葉としては、強すぎるのではないか。まるで魔法のような効果を持つキーワードである分、映画を見た一人一人がじっくりと感想や意見を持つ時間をあらかじめ省いてしまう恐れはないか。その言葉に期待して見た人の観賞行為が、まさに評判通りの良い映画だったと「確認」することになり、映画の価値を「発見」する余地を排除してしまうことにつながらないか。さらに言えば、それほどの出来栄えではないだろう、と感じる人に不用な疎外感を与えることにもなりはしないか。
僕の言いたいことが、昨今の書き手による「傑作」「必見」の濫用への懸念にあると、分かってもらえるでしょうか。「傑作」「必見」の連発をすでに自分の型としている方については、特に何か言いようもありませんが、佐藤忠男さんまで書いているとなると、ちゃんと考えてみざるを得ないのです。
ここまで書いて数日中断していたら、島田慎一さんの映画評がアップ。僕とは違う見かたがあると教えられるものでした。やはり、「傑作」という言葉の取り扱いに慎重なところから話を始めてくれるほうが、僕にとってはためになります。
『妻の貌』は、とても重層的な作品です。まず具体的な構造を言いますと、川本昭人さんが今までに作ってきた「私の中のヒロシマ」(73)、「おばあちゃん頑張る」(74)、「きのう今日あす」(79)、「お嫁さん頑張る」(84)などの短編をベースに114分の長編にしたのが本作です。すでに01年に作られていたそうですが、新撮を加えて再構成したニューバージョンが今回の公開版とのこと。
一貫して拘り、撮影対象にしてきたものは自分の家族であり、主役となるのは妻のキヨ子さん。川本さんのアマチュア映画作家としての歩みはそのまま家族の年代記であり、キヨ子さんという伴侶をずっと見つめ続けてきた愛情の記録です。
すぐにその内実の魅力について話したいところですが、それより先に、本作のフォトジェニックな特長を強調しておきたい。挿入される初期の短編は8ミリカメラで撮影されていて、近作や新撮のパートはビデオカメラで撮られています。しかも本作は時系列を縦横にした構成ですから、2つの違うメディア/画質の混在によって成立しています。それが、どれだけ本作の厚みにつながっていることか。
8ミリカメラが一般家庭に普及したのは、個人所得が上昇し、余暇の時間や趣味を楽しむ時間が市民に生まれた1960年代に入ってから。川本さんが8ミリカメラを購入したのは長男誕生がきっかけだったそうですが、当時はそういうお父さんがたくさんいたのです。僕の親父もそうだったりします。個人でも家族や身の回りを撮影して記録し、フィルムを編集すれば作品が作れるようになったことは、戦後文化生活の大きなトピックの一つであり、その恩恵は、誰もがハンディカムを手にできる現在までつながっています。つまり『妻の貌』には、1本のなかに期せずして戦後の個人映画・小型映画の歴史が織り込まれている、めくるめくようなスペクタクル性があるのです。
特に「私の中のヒロシマ」には、8ミリ映画ならではの魅力に圧倒されます。同録は出来ず、フィルムの尺も少ない不便さからくるショットの緊張感。1コマずつビューワーを覗き、ハサミとテープで切り貼りしながら構築していくアナログ作業で生まれる、人肌のする強度。
一方でビデオには、機能的な向上によってより細密な画像と、その場の物音や空気まで丸ごと長時間取り込める観察ツールとしての強みがあります。被写体にそっと近づき、じっと見つめ続けることは作為に勝る表現になり得るが、スイッチをONにすれば画面に映る全てがフラットに記録できることで、その被写体の魅力をかえって掴みにくくしてしまう(物事は構築を介さなければ把握できない……)逆説的な不自由さも抱えています。
本作は、この両者の特性が鮮やかなほど対照的です。しかし同時に、被写体への愛情(妻・キヨ子さんへの慈しみ)というモチベーションさえ一貫していれば、美しい調和は可能なのだ、と教えてくれます。
8ミリからビデオへの転換は市場的には不可逆の流れだったわけですから、川本さんも現実には、その都度手に入りやすいカメラを買い換えていったのだと思います。妻と家族の記録を撮り続けながら、ハードの変化に応じた試行錯誤や工夫を、静かにコツコツと繰り返してきたのだと思います。
そこが僕には、震えがくるほど興味深かった点です。『妻の貌』は、戦後の個人映画・小型映画の歴史を体内に宿した作品であると同時に、「この時代(リュミエールとメリエスの映画創成期)には、映画作りの専門家などがいるわけはない。誰でも、作りたいものが、映画を作った」という羽仁進の一文(『人間的映像論』)を強烈に思い出させ、僕たちの映画に対する常識を揺さぶる力を持っているからです。
アマチュア映画はプロの手による商業映画よりも格下なのではなく、確かな傍流として存在していた。いや、映画史はいつ違うものになっていたか分からない……。なんでも工場経営の若旦那リュミエールは当初、興行師のメリエスに「あのねアンタ、映画なんてものは道楽、趣味としてやるから面白いんだよ。商売になどなるもんですか。きっと損するからおやめなさい」と忠告していたそうです。ところがメリエスは「旦那のお言葉ですがね、あっしはただ、自分とこの劇場の新しい出し物が欲しいだけなんでさ」とアドバイスを聞かずにガンガン作ったんですね。そして、そのうちの1本、『月世界旅行』(1902)が空前の大評判になり、映画=興行の歴史がスタートした……のはみなさんよくご存じの通り。
PR映画や非商業ドキュメンタリー、東南アジアの映画、そして学生映画など、常に映画史の他の可能性を考え、発見を啓蒙し続けてきた佐藤忠男さんが、先頭になって本作の劇場公開に尽力し、あえて「疑いもなく日本映画史に特筆されるべき傑作である」と大きく謳ったこと。実は僕、とてもよく理解できるのです。ただ、「傑作」という強い言葉をよく消化するためには、丸呑みはせず、それぞれがしっかり咀嚼したほうがいい。
理屈っぽいことを長く書きましたが、これだけの厚みが背後にあると踏まえたうえで、川本さんが描き続けてきた、長年連れ添ってきた妻の肖像を存分に見ていただければ、と思っています。
8ミリの頃からずっと妻を見守り続けてきたカメラは、川本さんの目そのものです。カメラが川本さんの代わりにキヨ子さんに感謝し、心配し、一緒に憂い、そして謝っています。本作を見る多くの人が、映像による私小説、愛妻日記という感想を持つはずですが、まさに私小説のように日常の身辺をとことん見つめることで、大きな、普遍的なものにつながっている映画なのです。
キヨ子さんは広島で被爆し、原爆症に苦しみながら生きてきた人です。二人の子供を育て上げながら、寝たきりの義母をずっと介護してきた人です。夫でなければ成立しないほど近い距離から見た1人の女性を通して、いつまでも消えない原爆の爪痕、嫁姑の問題、ひいては日本の家制度などを考えさせられます。だから見た人のなかから本作が、依田義賢が脚本を書き、山本薩夫が監督した『荷車の歌』(59)とよく似ていることに気づき、胸を衝かれる人がたくさん現れなくてはいけないとも思っています。ディティールがどうこうという連想ゲームではありません。涙が出るほど辛抱強く働く日本の母親が、今もいるということ。キヨ子さんのような女性に僕たちは守られ、育てられてきたのだと痛みとともに知ること。
川本さんはまるで僕の父のようであり、キヨ子さんは僕の母そのものでした。これから見るアナタもそう感じるでしょう。まるで違う人生のはずなのに、そう錯覚させられる場面ばかりです。
一方で、本作を「傑作」と称賛することを僕にためらわせるのは、キヨ子さんを映した部分と他との落差です。妻の記録には濃密な情愛と、戦争が生んだ病気と闘う1人の尊厳ある女性への畏怖に近い一種張りつめた感情、のっぴきならないものが満ちています。ところが、お孫さんたちを映す映像になると、もう愛おしい、可愛いの気持ちでいっぱい。画面から、ピンク色のハートマークが3-Dでプヨプヨ飛び出てくるんじゃないかというぐらい。
で、これ自体はまた素晴らしい。それこそリュミエールによる初めての映画の1つ、『赤ん坊の食事』(1895)のような、愛する小さなものを撮る純粋な喜びに、見ているこちらまで温かい気持ちになります。特にすぐ隣に住んで、寝たきりのひいおばあちゃんのところによく顔を出す女の子なんか、どれだけ家族を明るく照らす太陽になってくれたか分からないほどでしょう。この孫娘さんの幼少期から成人式の日を迎えるまでが見られるのも、ゆっくりと皺を重ねてゆく妻の肖像と相まって忘れ難いものがあります。
しかしここに関してはやはり、その愛に対して素直過ぎる。妻と自分を通した家族の年代記という構築に甘さがある。そういう印象を持ってしまいます。
僕は、お孫さんの父である長男や次男の方と年齢が近いのです。ですから成長し、立派な社会人になられてからのお二人が、時々会う父(川本さん)が相変わらず回しているカメラに無関心で、川本さんのほうも大人になった息子にはもうカメラを向けず孫ばかり撮っている。この、お互いそっぽを向いた微妙な父と息子の距離感が、くすぐったいぐらいよく分かる気がしています。
でも、1つの集大成として長編化するにあたっては、あえて息子たちの声は聞いておく必要があった。長男が誕生したのを機に8ミリカメラを買ったのが事の起こりであり、そこから妻への愛情表現としての撮影が始まったのだから、その営為を息子たちから見た、関係者でありつつ客観の視点がどこかで欲しかった。
「キミたちには、いつもカメラを手放さなかった私はどう見えていた? お母さんの苦労をねぎらう言葉がどうしても言えず、その代わりに撮影していた私の気持ちが、キミたちには伝わっていたか」とぶつけて、それで、はかばかしい答えが返ってこなかったとしてもいいのです(大体において息子は母親の味方になるものですし!)。無理にいい話にまとめて体裁を整えなくてよいのが、アマチュア映画作家の特権ですから。しかし、家族を撮り続けたアマチュアだからこそ、聞きにくい肉親に聞きにくい質問をすることが可能です。そこまで踏み込んでいたら、キヨ子さんの母としての面もより浮かび上がり、『妻の貌』はさらに厚みのある映画になったのではないでしょうか。
要するに、僕が息子さんの立場ならば、「なんだよ父さん、映画をまとめるならオレたちにも聞いてこいよ。こっちにはこっちなりの、母さんへの思いってものがあるんだぜ」と言いたくなっただろうなあ、と思ったわけです。
いやいや、ちょっと待てオレ。そういう厳しい真似ができない川本さんの人柄ゆえに、プロのドキュメンタリストとはまた違う、本作のデリケートな温かみが生まれているのかもよ?
個人的には、映画は興行として流通し、プロが力を持つ歴史を歩む以外に発展の選択肢はなかったと思っていて、アマチュアリズムの容認には懐疑派の立場だけど、それだけでは映画固有の表現が、いや存在理由そのものが痩せていくのは事実。商売ッ気抜きでコツコツ作られたものがプロの作品を凌駕する場合はいつだって起こり得ると、もっと素直に受け止めるべきかもよ?
……と、これは僕の中にある別意見。
経験上、「面白い! 傑作だ!」とすぐ盛り上がる映画は案外忘れやすく、しばらく脳内討論できる映画のほうが残ります。この感覚は、中学2年生の時に初めて買った映画の本によって仕込まれた気がしています。
佐藤忠男著の講談社現代新書、『映画をどう見るか』。
映画を人や文化のありようを映す鏡と捉えたこの本が僕を、出来が良いか悪いか、世評が高いかどうかで手早く選別することに抵抗を覚える、面倒くさい人間にしてしまいました。そのせいで溜息が出てしまう局面がたくさんありましたが、なんでも「面白ければいいじゃん」と言い切れる人生もちょっと物足りない気がしますので、影響を受けて良かったのだと思います。佐藤さんが仰る「傑作」という言葉に反発し、一度立ち止まって考えてみせたのは、ささやかな恩返しのつもりなのです。
(2009.7.18)
妻の貌 2008年 日本
監督・撮影・編集:川本昭人 編集:小野瀬幸喜/ナレーター:岩崎徹、谷信子、川本昭人
配給:『妻の貌』上映委員会 配給協力:KAWASAKIアーツ、東風
7月25日よりユーロスペース、川崎市アートセンターにて、
8月1日より横浜ジャック&ベティにてロードショー
- (著) 佐藤 忠男
- 講談社
- 発売日: 1976
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