クロッシング
映画はそもそも昔から、あらゆる風景を貪欲に、無節操に消費し続けてきたメディアである。
ひとまず、いささか大げさにこう宣言してはみたものの、携帯電話で撮られた動画が即座にYouTubeにアップされるこのご時世に、この一文がいかほどの意味を持つのかは分からない。さらに言うなら、わたしたちはこの、携帯で撮られた映像がうんぬんというクリシェに、すでに飽き飽きしている。しかし、この映画に描かれているのは、いままでYouTubeで見たことのない風景、どんな映画でも会ったことのないひとびとだ。
「命がけのロードショー!!」なる、およそ見慣れないキャッチコピーがついた映画、『クロッシング』(キム・テギュン監督)を紹介するにあたって、こんな書き出しは余計かもしれない。あるいは逆に、軽薄すぎるかもしれない。なぜならこの映画は、北朝鮮からの脱出、いわゆる「脱北」をテーマにした作品であり、緻密な取材にもとづき、困難を乗り越えて作られ、ようやく日本公開に至った経緯があるから。そんじょそこいらの映画とは、一緒にしてはいけないのかもしれない。しかし、はたしてそうだろうか?
ストーリーの要約は難しくない。北朝鮮の炭鉱町。豊かではないがつつましく、幸せに暮らす親子3人の一家がある。元サッカー選手のヨンス、その妻ヨンハ、11歳の息子ジュニ。しかしヨンハが肺結核にかかり、ヨンスは北朝鮮では入手困難な薬を求めて、危険を顧みずに中国に渡る。残された母と息子。夫の帰りを待ち続けたヨンハはついに息を引き取り、天涯孤独の身となったジュニは父を追って国境を越えていく。
公式サイトのトップに使われている写真を見てほしい。ジュニが、ハングルでも漢字でもない文字が書かれた段ボールを首からかけて、砂漠に立っている。この文字は何なのか。この砂漠はどこなのか。北朝鮮か。韓国か。中国なのか。この写真のジュニの置かれた状況に、すぐにピンと来るひとは、ほとんどいないのではないかと思う。
もしあなたがわたし同様、それを言い当てられないのなら、ここに描かれている彼らの暮らしと移動の過程は、誇張でもなんでもなく、驚きの連続となるだろう。もちろんわたしも、北朝鮮から韓国に移ったひとたちの、新しい環境での生活になじめないがゆえの苦労であるとか、大使館への集団で駆け込んでの亡命であるとか、断片的な知識を持ってはいる。しかし、この映画を見るまでは、それらがひとつのまとまりになることはなかった。
脱北についてロクに知らなかったわたしは、ヨンスとジュニ、それぞれの越境(同じ川を渡るにしても、その描かれ方の違いはあまりにも切ない)を追っていくうちに、いつのまにか、とんでもない場所にまで運ばれていた。ヨンス一家の、そして同じような境遇のひとたちのことを考えると胸がつぶれる思いだが、ひとりの観客としては、大きな興奮でもある。
というのは、北朝鮮での一家の暮らし、村での生活、そして父と息子の脱北の一部始終という、ほとんど誰も見たことのないであろう光景が、見事に再現されているから。もちろん北朝鮮でのロケをおこなうことはできないし、キャストやスタッフが準備のために現地を訪れることも、不可能だ。頼りになるのは脱北者の協力と、現地の暮らしを見てきたひとたちによる証言だけ。
それだけをもとにして映画を作るのが、いかに心細いことか。並の神経だったら、北朝鮮を図式化された悪玉として描くことによって、埋めることのできないリアリティの欠如をごまかしたくなってしまうだろう。この映画は、それをしていない。脱北を助けるヨーロッパの人権団体にせよ、実際に手引きをする工作員にせよ、決して100%の善ではない。そもそも父親ヨンスには、「脱北」するつもりはこれっぽっちもなく、中国で荒稼ぎして北朝鮮に帰るつもりでいたのだ。本人にしてみれば、半ばだまされたような形での韓国行き。韓国の馴化施設で、淡い色のパジャマを着せられて呆けている彼の姿には、鈍い衝撃を受ける。韓国は必ずしも、彼にとっての楽園ではないのだ。
こうした細部の描写の積み重ねによって、わたしたちは少しずつこの映画を信頼していく。たとえば、聖書を初めて見たヨンスが「これは家系図の本か?」といぶかしがる様子。たとえば、野宿の際、盗まれないようにと靴を抱いて寝るジュニ。たとえば、歩くしかないために歩いているひとたち。たとえば、駅の待合室や駅の前の広場にたむろしていつまででもそこにいそうなひとたち。たとえば、車窓から中国の繁華街を見てのヨンスの驚きの表情。そしてたとえば、ピクニックでの、屈託のない一家の笑い顔。
わたしの見た試写では監督が登場し、「北朝鮮はひとつの政権、ひとつのかたまりとしか見られないことが多いと思うが、これを見て、人間がいることを感じてほしい」という趣旨の短いあいさつをしていた。かたまりを解きほぐし、記号に血を通わせ、実際には見ることのできない風景を作り出し、その中で生きた人間を動かす。そのために費やされた労力を想像するにつけ、頭が下がる。ある映画の誠実さとは、重いテーマをただ取り扱ったり、役者が迫真の演技をしさえすれば成り立つというものではない。
キム・テギュン監督は、『火山高』や『彼岸島』での凝りまくった映像スタイルは封印して、極度なまでに平明な演出方法をとっている。それは、できるだけ多くのひとたちにこの映画を届けたいとの使命感からでもあるだろう。もしあなたがすれっからしの映画ファンならば、描かれている内容の重大さと、ベタな、とすら言いたくなるかもしれない演出との落差に、体が引き裂かれるかもしれない。まさかそれが狙いではないだろうが、これは、映画ファンだけが見ればそれでよしとされる映画ではないだろう。そしてまた、映画ファンであれば、内容はもちろんのこと、この真摯なつくられ方を、じっくりと味わってみてほしい。
(2010.4.19)
クロッシング 2008 韓国
監督:キム・テギュン 脚本:イ・ユジン 撮影:チョン・ハンチョル
出演:チャ・インピョ,シン・ミョンチョル,ソ・ヨンファ,チョン・インギ,チュ・ダヨン
企画:パトリック・チェ 製作:BIG HOUSE / VANTAGE HOLDINGS 制作:Camp B
プロデューサー:ホン・ジヨン 字幕:根本理恵 提供:「クロッシング」パートナーズ 配給:太秦
2008年/韓国/107min/35mm/カラー/シネマスコープ/SRD
(c) 2008 BIG HOUSE / VANTAGE HOLDINGS. All Rights Reserved.
後援:在日本大韓民国民団中央本部、在日韓国商工会議所、在日本大韓民国婦人会中央本部
推薦:ヒューマン・ライツ・ウォッチ、北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会、北朝鮮難民救援基金、
特定失踪者問題調査会、NO FENCE(北朝鮮強制収容所をなくすアクションの会)、
RENK[救え!北朝鮮民衆/緊急行動ネットワーク]
2010年4月17日(土)より、渋谷・ユーロスペースにて命がけのロードショー!
銀座・シネパトス(5/1~)、シネマート心斎橋(5/1~)、札幌シアターキノ
など全国順次公開
(初回限定生産:本編DVD+特典DVD)
- 出演: キム・テギュン
- 出演: 石黒英雄, 水川あさみ
- 発売日: 2010-06-09
- おすすめ度:
- Amazon で詳細を見る
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