映画祭情報&レポート
大阪アジアン映画祭2011 レポート【1/2】
映画のあらたな〈アジア的状況〉へむけて

萩野 亮

アジアから大阪へ/大阪からアジアへ

オープニングセレモニーアジアとは何だろうか。アジアとは、地理的にはユーラシア大陸の大部分を占める国と地域およびその周辺の島々からなるエリアを指すわけだが、そこに重なり合うようにして、状況としての〈アジア〉というものがあるように思う。それはさしあたり反=ヨーロッパ的なものだといってもよいかもしれない。広場ではなく、路地に。秩序ではなく、混沌を。沈思ではなく、哄笑が。アジアは、アジア映画は、西欧近代的な合理性にもとづく価値観に対して、明らかに異なるものを提示してきた。ゼロ年代を経て、そうした〈アジア的状況〉がいま、ドラスティックな変化をむかえている。中国はいまや日本を抜いて世界第二位の経済大国となり、莫大な資産をもつ資本家を生み出し続けている。中国だけではない。ソウルやバンコックといった巨大都市を中心に高度消費社会がひろがり、ケータイやPCの登場しないアジア映画はもはや存在しないとさえいえる。西欧的なものとの二項対立ではどうやら測れない状況に、いまアジアは突入している。現代のアジア映画は、アジアの混沌をいまだ核におそらく抱えながらも、移り変わる風景の変化をとらえようともがいている。

「大阪発。日本全国、そしてアジアへ!」をキャッチフレーズに、あまり日本では紹介されないアジアの作品を〈大阪〉から発信する祭典として、大阪アジアン映画祭(OAFF)は今年で6度目の開催をむかえた。回を重ねるごとに着実に存在感を増してゆき、いまや東京国際映画祭や東京フィルメックスなど国内の主要映画祭にも決して見劣りしないボリュームとプログラムで、日本国内へのアジア映画紹介の重要な一角を担っている。今年度より新しくコンペティション部門を設置することで、たんに紹介に留まらない、アジアの新しい才能の積極的な発掘に、さらに乗り出したといえる。特別招待作品には、ワールドプレミアとなる『単身男女』(ジョニー・トー監督/2010)をはじめ、オープニング作品『ハウスメイド』(イム・サンス監督/2010)のジャパンプレミアなど、こちらも見逃せない作品が出揃った。また、CO2(シネアスト・オーガニゼーション・大阪エキシビジョン)との連携による「アジアン・ミーティング」を同時開催するなど、メジャー作品のいち早い紹介とともに、若い作家への視点が鮮明に打ち出されていることも特筆される。東京よりもはるかに〈アジア〉を感じさせる大阪で、これらの作品と出会えたことには新鮮なよろこびがあった。

オープニングセレモニー&イム・サンス監督舞台挨拶

イム・サンス監督
イム・サンス監督
2011年3月9日。寒風の吹きすさむなか、多くの人びとが大阪は福島にあるABCホールで列を成していた。黒いベンチコートのスタッフが、何度も声を張りあげて当日券の完売を知らせる。この日、大阪アジアン映画祭はオープニングセレモニーをむかえようとしていた。
セレモニーでは、行定勲、キム・デウ、ミルクマン斉藤の審査員各氏が登場し、行定審査員長が「この話をいただいたときに、すでに入っていた予定をどかして引き受けました」とまずあいさつ。「アジアの映画から私も大きな影響を受けてきましたが、日本ではいま、アジア映画はうまく上映される環境がありません。各国の映画祭を回っていて出品されていた映画がここにも出品されていて、審査員であることを度外視して、まずそれらの映画を見たい。観客の皆さんの反応を取り込みながら審査してゆけるのは、コンペティションの醍醐味だと思います」と語った。

そしてオープニング作品『ハウスメイド』のイム・サンス監督が壇上へ。『浮気な家族』(2003)や『ユゴ 大統領有故』(2005)などのスキャンダラスな作品で知られるイム監督待望の新作は、キム・ギヨン監督のかつてのカルト的超絶傑作『下女』(1960)のリメイクとして、カンヌ国際映画祭コンペティション部門をはじめとする各国の映画祭に招かれ、韓国国内でも大ヒットを記録した。キム監督は、近年日本でもようやく本格的に紹介された韓国映画史上の巨匠。とりわけ『下女』を嚆矢とする「女シリーズ」は、自然主義的に生と性のグロテスクを見つめ、その強烈な作品宇宙はいまなお世界中を瞠目させている。
「おかげさまでお金もいっぱいもうけました。キム・ギヨン監督ありがとう!」とオチャメなイム監督のトークはこの日もすこぶる快調だ。「私の父はジャーリストで映画評論家でもあったのですが、キム・ギヨン監督のことをわるく書いてしまったことがあって、ケンカになりかけたことがあったんです(笑)」と、父と巨匠との意外なエピソードも披露しつつ、鋭い問いかけも忘れない。「この50年間で、韓国はすさまじい発展をしてきました。経済的にも、映画表現としても。しかし、それは本当に発展といえるのでしょうか?」。『下女』が公開された1960年からの半世紀を、この映画作家は視野に入れようとしている。変わってゆくもの、変わらずそこにあるもの。「韓国の儒教的な男尊女卑の社会に、息が詰まる思いをしています。韓国だけでなく、男性が作り上げる社会はすべて失敗でした。だから男性の映画を作る理由が、私にはありません。」この発言に場内からは笑いが起きていたのだが、これは作家の根源的な思想を明かした重要な発言と思われてならない。
主演のチョン・ドヨンについては、「美容整形ブームで多くの女性が同じ顔になってゆくなかで、彼女はとても自然な表情をしていたんです」と紹介し、「彼女はしばしば神がかったようで、私は彼女からあらためて演技とは何かを教わりました。女優になるために生まれてきた人です」と絶賛。共演のイ・ジョンジェについては、「彼のような大物が演じるには小さい役だと思っていたが、シナリオを読んだ彼が、「興味深いキャラクターだ」と声をかけてくれたんです。彼よりも若い俳優十数人には、すべて断られてしまいました。シナリオを見る目の深さが違うと実感しました」とコメント。俳優陣への全幅の信頼とともに撮影が進められたことを伺わせた。

あまりにも気高い女性映画の誕生――『ハウスメイド』
GAGA配給・今夏公開予定

『ハウスメイド』
(C)2010 MIROVISION Inc. All Rights Reserved
路地の雑踏を見下ろす、ひとつの視点がある。ひとりの若い女性が、いままさにビルの屋上から飛び降りようとしている。激しくぶれながら猥雑な路地を映していたキャメラは、やがて彼女の身体が落下するさまを見届ける。オリジナル版である『下女』を知るものなら、ここですぐさまこのフィルムがかつての怪作とは似ても似つかぬ語り口で物語をはじめるのを認めるだろう。キム・ギヨンの『下女』が、あるメイド=下女の闖入によって家族が混乱と恐怖に陥るさまを、「階段」という装置を駆使したおそるべき演出力で映し出していたとすれば、『ハウスメイド』の関心は一貫して「女性の尊厳」にある。イム監督は自作を「不当な恥辱についての物語」だとも語っていた。路地の屋台で働いていたアラフォーのチョン・ドヨンは、あるブルジョワの夫婦にメイドとして招き入れられるが、そこにあるのは主人への性的な奉仕と、妻とその母による妬みと策略である。
『シークレット・サンシャイン』(イ・チャンドン監督/2007)でもとにかく凄かった主演のチョン・ドヨンは、たんに抑圧を感じるだけでない、若い主人に見初められることのひそかなよろこびをも表現して、厚みのある女性像を息づかせている。この作品がさらに深い射程をもっているのは、彼女だけを悲劇の主人公にするのではなく、妻、その母、メイドといった主人を中心にかしずく複数の女性の立場を描き分けることで、男性社会における女性のありようを冷静に描き通しているからだ。そのなかでも、往年のセルマ・リッターを思わせもするユン・ヨジョンの圧倒的な気高さは筆舌に尽くしがたい。更年期にさしかかろうかという、幾度もの「恥辱」を味わって来たに違いない彼女の存在を通じて、チョン・ドヨンは彼女の尊厳を貫こうとするのだ。妊娠したチョンに対し、ユン・ヨジョンの一度も相好を崩さぬ表情で放たれる「生みなさい」の一言に、『ハウスメイド』の女たちの闘いは賭けられている。
このフィルムは、『下女』のリメイクであるというよりは、たとえば『チェンジリング』のイーストウッドがキャプラに参照を求めたのと同じように、キム・ギヨンにそれを求めたに過ぎない。女性映画の傑作が、いまひとつここに誕生した。

(2011.4.14)

レポート1 レポート2

大阪アジアン映画祭2011 (2011/3/5~13) 公式
『ハウスメイド』 ( イム・サンス監督 / 韓国 / 2010 / 106分 )
2011/04/17/15:28 | トラックバック (0)
萩野亮 ,映画祭情報
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