特集

無常素描

( 2011 / 日本 / 大宮浩一 )
プリテンダー(振りをして生きようとする僕を)

若木 康輔

『無常素描』1僕は北海道の登別出身だ。「いい湯だな、ハハハン」とドリフも歌った登別温泉街が熱海と同じように大型観光地化して日本中の団体客を掻き込み、石油ショックのあと転げ落ちるように廃れる、その様子を間近に見ながら育ってきた。山のなかには丸ごと無人になったエリアがあり、生活品を残したまま棄てられ、台風であちこち崩れたホテルや家屋に土足で忍び込むのはものすごく面白かった。もう少し長じると、学校をサボッて煙草を吸い、エロ本を開くアジトとして実用した。退屈すると、泥だらけの部屋をあちこちひっぺ返し、ほじくり出した家計簿や茶碗、幼児の玩具などを見せ合った。学習机やタンスを外に持ち出して壊し、焚火をしたこともある。ここにだって人の営みがあったのだ、という事実を痛みとして感じる前に、僕はまずそこでヒマをつぶしてきた。
廃墟観察のような行為がディレッタントな趣味としてもてはやされる、近年の風潮に距離を置いてきたのは、やはり心のどこかで粗野で無思慮な遊びをしてきたことへの引け目があったせいだと思う。しかし、それが僕の育った環境だったのは否定しきれない。物事に必要以上に感傷的な価値を与えないリアリズムを実地で学んだのも事実だ、とも感じている。

東日本大震災被災地の状況を撮影した映像をダイレクトに前にして、なにがなんだか分からない、言葉を失う、としかいいようのない気持ちにかられ、同時にそれは違う、と僕は僕の嘘を見抜いた。
ここには分からないものは一つも映っていない。そのもののみが映っている。あまりにも無情な風景や状況に語るべき言葉を失った……などと行儀のいい逃げ口上で、思考停止してはいけないと思った。オマエ、ガキの頃は近場の廃墟を魅力的な解放区にして遊んでいたくせに、カンタンに胸を痛めた振りをして映画を整理しようとするな!とまず自分自身を告発しないと話を始められなかった。

『無常素描』2絵描きにとって、素描(デッサン)は練習の基本だ。即興で、いつでも事物を正確に描き出せるよう何度でもやる。独自の表現やディフォルメはその習熟の上に成り立つ。『無常素描』は、映画そのものが、レッスンだ。あらゆる執着を捨てたところに、万物流転の不変の定めを悟る境地がある。映画がそれを知識に基づいた描写ではなく、芯から掴めるかどうかのためのレッスン。どんなに辛くてもカメラを向けざるを得ない風景が眼前に広がる。その苦痛は、カメラの誕生によって開拓されてしまった本能の喜びがもたらす精神の軋み。本作が、ドキュメンタリストの業との内面の闘いの記録でもあることは、ある程度想像できる。
だから、観客にとってもレッスンであることは同じ。スクリーンに映し出されるものと自分を対峙させないうちは、アラン・レネのヒロシマじゃないけど、見たとしても、見たとはいえない。僕の場合は、なまの感情が変わり果てた風景を見て美しい、と感じてざわめき、理屈のほうが驚いて慌ててそれを打ち消そうとした。こういう心の動きが瞬間的にあった事実から逃れられない。

お互いにとって荷が重いことを書いているが、『無常素描』はこれから公開されて、年度末に相応の評価で総括されて、それで存在を全うする映画ではない。直後の被災地を撮った映画の社会的責務として、10年後、20年後、もうスタッフがこの世を去った後でも、多くの人が3.11を忘れかけるたび定期的に上映される運命にある。映画のタイトルに素描(デッサン)と付けられた意味は、ある程度以上時を経ることでより確かになる気がする。その時、僕は(まだ生きていれば)再見して、自分があの時なにを見たつもりでいて、なにを見てはいなかったのか改めて考えてみるつもり。みなさんもとにかく今のうちに『無常素描』に一度は接しておいて、後でそうしませんか。

『無常素描』3『無常素描』のなかで、ひたすら無常とはなにかを学ぶためのレッスンに耐え続けているようなカメラ(レンズの選択やカラーの調整など具体的な技の細心さがまずあるだろうことは当然として、全編に凄みがあった)は、子どもたちの走り回る姿を車窓から見つけた瞬間、スタッフの現地での思いが噴出したようにスローモーションになる。
僕自身、今年の春以降は、これからは21世紀生まれの子どもたちにしか期待できない、グランドデザインは「あたらしい人」たちに任せよう、という思いに強く捕らわれているのと同時に、子どもたちの姿が光るからこそ、次世代、次々世代に希望を感じることそのものが勝手な執着なのではないか、という不安を持っている。そのため、あのスローモーションに感慨を覚えた一方、本作の中でいちばん脆弱な部分かもしれない、とも感じた。
いつか、3.11の風化が言われ始めた時に『無常素描』を見直そう、というのには、あのスローモーションの意味合いがどう変わっていくか知りたい気持ちが少なからず含まれている。

(2011.6.13)

作品紹介

大地揺れ、津波の跡、後。

東日本大地震発生から一ヶ月あまり――。
車窓に、瓦礫の山と広漠たる荒野の、灰色の風景が流れてゆく。
一人の映画作家が、尼崎の町医者とともに被災地へ向かっていた。

『無常素描』4そこで出逢ったひとびとは、静かに語りはじめる。一台のカメラが、その声と風景を何度も往復しながら、ただひたすらに素描を重ねていく。監督は、『ただいま それぞれの居場所』で、介護現場のいまと希望を描き、平成22年度文化庁映画賞「文化記録映画大賞」を受賞した大宮浩一。
日付も地名も、人の名も付すことのないこの映画は、未曽有の大地震と津波の跡を、そして、その後もなお続くいとなみを、決して情報に還元することなく、スクリーンに大きく映しだしてゆく――はたして「復興」とは何を意味するのか? 私たちは何処へゆくのか? 映画館の暗闇に、いくつもの問いが、浮かんでは、消えていく。

コメント

  • 誰が悪いわけでもないのに、自分のせいでもないのに、どうしてこんな災厄が起きてしまうのだろう。そして人間はそれを目の当たりにしてどうやって生きていけばいいのだろう。この春の出来事の中心にあった筈の問いかけに、この映画は一番に答えてくれている。
    報道ではなく正に映画。出来事が起こってから短期間に上映まで行うという行為も含め、映画にはまだまだ未来があるのだと勇気を貰った。――瀬々敬久(映画監督)
  • 記憶にある故郷・気仙沼は目の前にあるのに、生活の音、匂いが一切ないことに、ある種の恐れを抱いたのを思いだしました。テレビや新聞では、さも騒々しく取り上げられている現地ですが、決して大声もなく音もなく、暗いトーンの静寂だけが降り注いでいました。
    被災地で私自身感じた感覚が、映像化されていることに驚きました。
    ――小野寺英孝(医師/聖マリアンナ医科大学 災害医療支援班)
無常素描 2011年 日本
謝意  被災された全ての皆様 被災地にて救援活動をされている全ての皆様 玄侑宗久
監督:大宮浩一 企画:長尾和宏・大宮浩一
撮影:山内大堂 編集:遠山慎二 整音:石垣哲 構成:辻井潔 車両:港谷泰之 宣伝美術:成瀬慧
製作・著作:大宮映像製作所 配給:東風 (C)大宮映像製作所
2011年|Japan|HD|75min|docmentary
公式

オーディトリウム渋谷にて、6月17日(金)19:30より先行上映
6月18日(土)よりロードショー他全国順次公開

東日本大震災 宮城 [DVD]
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2011/06/15/11:39 | トラックバック (0)
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