フィリップ・グランドリュー (映像作家)
足立 正生 (映画監督)
映画「美が私たちの決断をいっそう
強めたのだろう/足立正生」について
2012年12月1日(土)より、渋谷アップリンクほか全国順次公開
特異な前衛政治作家を被写体とするドキュメンタリー・シリーズ『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう』の第1弾として、フランス人映像作家フィリップ・グランドリューが取り上げたのは、今年逝去した若松孝二らとともに「性と革命」を主題とする映画をつくり続けてきた足立正生である。作家・AVライターの東良美季が、フィリップ・グランドリューと足立正生におこなったロングインタビューの成果を、ここに掲載する。(取材/文:東良美季)
なるほど、試写を観て感じた強いインパクトは、作家本人が実に確信犯的に選び取った行為だったのだ。その意味で本作は思想や知性で観るのではなく、感性と感覚で味わうドキュメンタリーである。フィリップ・グランドリュー監督にはロカルノ国際映画祭審査員賞を受賞した『翳り(Sombre)』(1998年)という作品があるが、これなどはご本人がどう思われるかは判らないが、「フランスのデヴィッド・リンチ」といった趣きもある。つまり先の発言にあるように、彼は「知らないもの」「意識や知性では捉えられないもの」に対してカメラを向けているのだ。
さらに言えば、この作品の主人公は足立正生に違いないのだが、もうひとつのテーマとして「東京」という街がある。我々は例えばソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』、フラン・ルーベル・クズイの『TOKYO-POP』といった映画に接するたびしばし当惑する。そこに描かれるのが我々の知る東京であって、しかし東京でない街といった不思議な印象を受けるからだ。
本作にもその印象は顕著である。特に冒頭ブランコのシーンが終わり、夜の街をあてもなく歩く足立の姿があり、やがてカメラは彼から離れ、まるでそれ自体が生命を持ったかのように浮遊し、新宿のアルタ前、渋谷のスクランブル交差点を彷徨う。そこに映し出される人、人、人。誰もが携帯電話を耳に当て、あるいはその液晶画面を凝視し、あるいは携帯音楽プレーヤーのイヤフォンを装着して歩く──その光景は、別の時代の何処か他の惑星での出来事のようだ。
そこにあるのは「異邦人=ストレンジャー」の視線である。しかもそれはフランス人であるとか日本人であるとかいう問題でなく、果たして我々にこの現実を的確に捉えることなんて出来うるのだろうか? という根源的な問いかけなのだ。
足立氏はこう説明を試みる。
「つまりさっきフィリップが言ったように、要するに我々は常にわけのわからんものを追い求めているのだと。この映画の中には私がタクシーの後部座席に座り呆然とした表情で車窓を眺めているシーンがあるけれど、つまり彼は僕にこう言ってるんだな。『結局お前はどの世界にいてもストレンジャーじゃないか』と。車内だから私は座っているしカメラも固定されている。しかし風景は流れていくわけだ。つまり我々が現実に生きている感覚もまた、流れいくものではないか、捉えられないものなのではないかと。彼はそれが撮りたかったんじゃないかな。そしてさらに言えば、そのように流れていくものと僕やフィリップ、そして観ているあなたも、すべて流れながらも溶け合っているということでしょう」
そこで訊いてみた。「足立さんはまさにかつてストレンジャーとして中東の地にいらして、そしてまたストレンジャーとして日本に戻られたわけですが?」と。
「そうですね。私は十数年前突然帰って来て、東京の浦島太郎みたいなところがあったんですね。それがまた十年経ってこの映画に映し出される風景を見てみると、さらにこんなにも変わってしまったのかと思うところもあり、それこそ六〇年代から本質的には何も変わってないなと感じるところもある。だから『お前は浦島太郎だな、何処までも』と言われてるようなね。つまりストレンジャーとはそういうことですよ」
確かに、映画の中でカメラが浮遊する新宿や渋谷の風景は、かつてハリソン・フォードが『ブレードランナー』の中で彷徨った近未来の都市のように見えるけれど、同時に足立氏が旧友と杯を交わす新宿ゴールデン街は、六〇年代から何ら変わっていないように見える。さらにグランドリュー氏が宿泊していた場所だろう、渋谷の高層ホテルの窓から最新のデジタル一眼レフカメラによって撮影されるスクランブル交差点、高速道路を初めとした俯瞰の光景。そこには建設中のヒカリエもが写り込んでいるというのに、まるで懐かしい、あの高度経済成長期の東京のようだ。この奇妙な既視感はいったい何だろう?
グランドリュー監督は東京の街についてこう語る。
「確かに私が東京の街に投げかける視線はまさにストレンジャーのものであったと思います。ただしそういった視点の中でも、一箇所だけ例外があります。それは長い高速道路での車の移動の部分です。パリを出る時からひとつだけ撮影しようと決めていたところがありました。私はアンドレイ・タルコフスキーの熱烈なファンの一人として、『惑星ソラリス』に登場する長い道路のシーンを撮りたいと思っていたのです(※注・タルコフスキーは『惑星ソラリス』にて、未来都市の風景として東京の首都高速道路を主観撮影した)。ですから実は今回私が撮った車で移動する場面でも、サウンドトラックのうんと後ろの方に、かすかに『惑星ソラリス』の音声を乗せてあります。何故そのような方法論を取ったのか? それは映画とはこのように、ある映画からある映画へと移っていくものだからです。映画とはその作品自体で固定したものではありません。交流するのです。映画は常に生きています。私たち作家が受けれることが出来れば、つまり映画を『生きたもの』として受容する姿勢さえあれば、映画はまた別の映画へと受け継がれていくのです」
なるほど、先に書いた奇妙な既視感の意味はこれだったのだ。そしてグランドリュー氏の言う「受け継がれていくこと」こそ、本作『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』の最も重要なテーマとなっていく。作品中には監督自身のモノローグによるこんな言葉がある。
「ひとりの人間から別の人間へ、命は果てしなく伝わっていく──」
つまり映画とは命であり、命とは映像に宿るものなのだ。だからこそこのフランス人作家は、「映像作家についてのドキュメンタリー作品を連作で撮ること」を決めたのだ。他者の命は彼に受け継がれ、その命もまた別の作家に受け継がれていく。もちろん映画を体験する観客、我々ひとりひとりにも、である。
グランドリュー氏は続ける。
「時々ものごとが突然出来る、自然に生まれる時があります。映画を作っている時、私は自分で何かを作ろうとはしません。ある瞬間何かがそこに突然出来上がるのです。自分で何かを作ろうとすると、いつも抵抗を受けてしまいます。思うようになりません。あらゆるところから抵抗が来て、拒否をされるんです。その意味で言えばこの映画は、言わば私と足立さん二人の関係によって、私に対して与えられたものではないかという気がしています。奇妙なことに私たちはお互いを、普通の在り方ではほとんど知りません。何か別の次元でお互いに繋がっているところがある。その関係を精神性と呼ぶのはおかしいかもしれませんが、何かがあって、そのおかげで何かが起きて、この映画になったという印象を私は持っています」
シリーズ企画:ニコル・ブルネーズ、フィリップ・グランドリュー
監督・撮影・編集・音響:フィリップ・グランドリュー
助監督・通訳:シャルル・ラムロ 音楽:フェルディナンド・グランドリュー/プロデューサー:アニック・ルモニエ(Epileptic)
出演:足立正生、小野沢稔彦
2011年/フランス/カラー/モノクロ/74分/HD/ステレオ © EPILEPTIC
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