(ネタバレの可能性あり!
)
イングマール・ベルイマンの映画を愛する者にとって至上の秋である。『ファニーとアレクサンデル』(85)
で映画界からの引退を表明した彼が、およそ20年ぶりに新作映画を発表したのだ。しかも夫婦間の、
あるいは中高年男女のセックスの問題をとことん追及した赤裸々なる傑作『ある結婚の風景』(74)の続編だという。
期待は否が応でも高まった。欧州での公開から数年が経ち、ようやく日本公開が決まった。先夜、ついに実物に触れた。
ベルイマンの最新作にして(彼が言うところの)「最終作」に。鑑賞後、形容しがたい幸福感だけが残っていた。もちろん、
彼の映画が心をぽかぽかと温めるはずもない。彼が相変わらず冷厳で恐ろしい刺激的な作家であったことが嬉しかったのだ。
しかもベルイマンは彼の内面における重大な変容を示唆していた。
『サラバンド』の舞台中継的手法は、『ある結婚の風景』をそのまま踏襲するものである。全部で十の断章が設けられ、一つ一つの「場」 で二人芝居が演じられる。シンプルだが実験的ですらあるこのスタイルには、当たり前の話だが、 力強い脚本と俳優の卓越した演技力が求められる。「いい脚本とすばらしい役者」を映画の大前提とするベルイマンの信念は、 はっきり言って古臭く素朴すぎるものだが、それだけに達成される表現は質実剛健なものとなる。すべてを台詞で説明しきってしまう、 あからさまに演劇的な演出に違和感を覚える向きもあると思うが、映画人である以前に舞台人であるベルイマンにとって、 これが一番自然な演出方法なのだろう。リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソンという、 世界を代表する名優二人による演技は簡潔ながらいっそう重厚となって見る者を魅了する。ベルマン映画ではおなじみの、 肉親を痛罵するとげとげしいダイアローグと赤裸々な言及がほうぼうで炸裂し、愛が、性が、人生が語られる。 これを捉えるデジタルハイビジョンのキャメラは彼の映像への高度な美意識を一切貶めてはいない。フィルムと遜色ないどころか、 フィルムを無駄使いした凡百の映画を蹴散らす秀麗な感触を可能にしている(渋谷ユーロスペースの上映環境による)。窓の向こうの陽射し、 置かれた瓶の配置、壁紙の色合い、俳優たちの皺や髪の毛の一本一本を鮮明に映し出し、篝火に照らされているように温かい。
冒頭、マリアン(リヴ・ウルマン)が観客に向かって語りかける。離婚した夫、ヨハン(エルランド・ヨセフソン) が莫大な遺産を相続して別荘を購入したこと。彼らの間に出来た二人の娘について、一人は精神病院に入院し、 一人はオーストラリアに渡ったということ。やがて舞台はヨハンの別荘へと移る。そこでマリアンはいきなり霊による歓迎を受ける。 彼女の入った部屋のドアが、次々と自然に閉まるのだ。この現象は彼女を怖がらせるためのものではもちろんない。 知らないうちに地獄と化しているこの家へマリアンが留まることを強く要請する行為なのだ(そしてベルイマン映画の通奏低音である「時計」 が映し出され、ベルイマンファンの興奮を誘う。イーストウッドの映画に星条旗を見つけて喜んでいる手合いと一緒だ!)。 やがてキャメラは彼女から離れ、ベランダで寝ているヨハンことエルランド・ヨセフソンの姿を捉える。 寝椅子に寝そべる彼の全身が映し出されたとき、もはや平静でいることは難しい。ベルイマンの作品のみならず、タルコフスキーの 『ノスタルジア』(83)『サクリファイス』(86)、アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』(95) といった作品で重要な役柄を演じてきた俳優の、このずっしりと重い存在感はどうだろう。
数十年ぶりとなる彼らの再会は微笑ましいものだが、すでに棘を含んだ物言いがチクリチクリと挿入されていて心憎い。先述の通り、 話は『ある結婚の風景』の続編という形をとっているが、ベルイマンはなじみの深いマリアンとヨハンを使って、 別の物語を語ろうとしていることに気づかされる。第二章において、ヨハンの孫娘で19歳のカーリン(ユーリア・ダフヴェニウス) が颯爽と舞台に飛び込んでくるのだ。グリーンのタンクトップに若々しい乳頭の突起を浮かべた飾り気のない彼女。その瞳は涙で濡れている。
カーリンは妻に去られた父親ヘンリック(ボリエ・アールステット)に憐憫の情を抱きつつも、 彼による度を越した期待に応じられずにいる。ヘンリックはカーリンに過大な期待を――ほとんど誇大妄想とも言える期待をかけており、 カーリンはもっとシビアに自分の実力を評価している。それゆえ、父と娘の間には諍いが絶えない。彼らの相克の遠景には、 ヘンリックとヨハンによる父と息子の相克が重く横たわっている。ヨハンは死んだ嫁のアンナを愛していたが、血の繋がったヘンリックのことは、 かれこれ五十年もの間、忌み嫌っているのだ。この父子の争いはやがてカーリンの奪い合いの様相すら呈するようになる。
ベルイマンの『秋のソナタ』(78)やミヒャエル・ハネケの映画『ピアニスト』(01)で生々しく描かれたように、 音楽家の一家において、親子の絆は常人の理解を超える場合が多いようだ。ここでもヘンリックとカーリンの関係は共依存、 あるいは近親相姦的な危険性が見え隠れしている。和解のキスを求める父は、直情のあまり、娘の唇を唇で割り、舌を絡ませるのだ! その下劣でもあり、直球勝負であり、見る者の横っ面を張るような強烈な表現にたじろいだ。 しかもそれはカーリンの嫌悪の表情を一瞬映すのみで、何事もなかったかのようにあっさり流されてしまう。この予想外の一瞬のためだけでも、 この映画を見る価値は十分にあると断言できる。
家族間の骨肉の争いを凝視してきたベルイマン・ワールドが加速するのはそこからで、ヨハンとヘンリックの金銭が絡んだ断裂、 ヘンリックとカーリンの衝突を次々と仮借なく映し出す。唯一この呪われたサークルから離れた立場にいるマリアンは、 ついに苦悩の淵に立たされる。彼女は森の中の小さな教会に足を踏み入れるのである。そこで彼女は背後にふっと射し込んだ美しい光に気づく。 そう、『サラバンド』にはあの「光」が登場するのだ。
神への背任に苦しむ牧師を描いた"神の沈黙三部作"の二作目、『冬の光』(63)でも、主人公の牧師の背後にこの不可思議な「光」 が射し込んでいた。だが空疎な宗教儀式を繰り返し、現実世界では愛人を傷つけるだけのつまらない人間である牧師は、「光」 という形をとって顕れた恩寵にとうとう気づくことがなかった。しかし本作では、心から彼らの和解を願うマリアンが、 慎ましい教会の中に顕現する光に気づき、あまつさえキリストの像に悲痛な面持ちで祈りすら捧げるのである。
堂々と大写しにされるキリストとその腕に抱かれた使徒の像。そこには『冬の光』における信仰への懐疑や嘲笑は一切ない。 牧師の息子として育てられ、長い間「神のまなざし」という暗い牢獄に捕囚されていたベルイマンは、 "神の沈黙三部作"を制作したことでようやくその桎梏から解放されたと述懐している。 その後は神なき世界を冷徹に凝視することでいよいよ自分自身の作品世界を突き詰めてきたわけだが、歳月が流れ、 彼はクリシェとの謗りをあえて甘受する覚悟で「光」を直接的に描写したのである。これはほとんど映画史的な事件ではなかろうか。 その光はおよそアナログな方式で出現するのだが、老齢に達したベルイマンの真情を垣間見せて非常にスリリングだ。
「光」は目に見える形だけで現れるのではない。作中、死んだアンナのまなざしが、愛憎に苦しむ生者たちをしばしば照らし出す。 アンナは『叫びとささやき』(73)における病身の聖女ハリエット・アンデションであり、『沈黙』(63)の末尾を飾る「精神」 という言葉そのものである。しかもここではかなり露骨に「世界を照らす光」という役割を、ヨハンの台詞によって与えられている。 「世界を照らす光」とは愛に決まっている。だが同時にそれは「神の子」「地に火を放つ者」といった言葉と同様に、イエス・ キリストの姿を即座に想起させるものだ。むろん、この台詞もってアンナ=キリストだと決め付けるのは強引だが、アンナをイエス・ キリストと置き換えても十全にその任を果たしうる程の輝かしい役回りを担っている。
画面上には写真としてしか登場しないアンナの穏やかなまなざしが、生者の人間臭い足掻きや醜い諍いの虚さをきわだたせる。 そしてそのまなざしは最後の最後に、エルランド・ヨセフソンとリヴ・ウルマンの全裸をあかあかと照らし出すのである。 人間は老いても聖人になどなりえない。ただ人間は人間らしく年をとるのである――。映画史を彩ってきた老名優の二人、 その高齢者ありままの裸がスクリーンに映し出されたとき、何かもう「イングマール・ベルイマン、最後の表現」 その最上の瞬間に立ち会えた気がして、胸が熱くなって仕方がなかった。
やがて訪れる静謐なるエピローグ。帰宅したマリアンは精神病院に入っている娘と対面を果たす。 マリアンは娘がかけている色眼鏡をそっと外す。裸眼であることのおののきに、娘の体に一瞬震えが走る。そして母と娘はほんの数秒間、 視線を交わらせるのである。徹底的に自己をむき出しにした後でしか、人は他者の心に触れることは出来ないという、『冬の光』の「裸眼」 のエンディングでも見られたテーゼをここに見て取ることが出来るが、そうしたメッセージが、「ベルイマンの映画」という狭い枠にとどまらず、 全方位に向けた観客の感動に昇華していると信じたい。必見!
(2006.11.27)
主なキャスト / スタッフ
TRACKBACK URL: