島田慎一評「奇跡に抗いながら」 / おさかひろみ評「ただ、したくなる」
オギミユキ評「身の丈にあった、精一杯の言葉」
いまおかしんじ監督インタビュー:映画『獣の交わり 天使とやる(イサク)』について
浅草世界館にて、5/20(水)~5/26(火)
(タイムテーブル 12:15/15:35/19:00)上映。
大阪・タナベ国際劇場にて、5/23(土)~5/29(金)上映。
この映画、『獣の交わり 天使とやる』は、脚本を書いた港岳彦さんに誘われて、成人館で鑑賞しました。
その日は脚本の手直しや撮影現場の様子についての話を聞いたり、出演者にお会いしたり、といった機会に恵まれたんです。で、そういう、自分にとってはめったにあるわけではない経験をしてみると、とたんに作品論らしきものが書けなくなりました。勝手な思い入れから、まるで自分が作品作りの内側を知っているかのような錯覚に陥ってしまったせいではないか、と感じています。
ここで一つ言い訳をしておくと、そもそも「理論」という言葉の元になったのは、ギリシャ語の「テオーリア」という言葉で、これは古代ギリシャにおける使節団のようなものを意味していたんだそうです(と、たまたま読んでいた本(田崎英明著「ジェンダー/セクシュアリティ」)に書いてありました)。
よその土地で催されているイベントにオブザーバーとして立ち会い、故郷に帰って自分たちが観たことを報告する――そういった部外者による出来事の反復という行為のなかから、「理論」というものが生まれたというわけで、なるほど言葉の原義通り、作品について考えるためには、まず作品の外に立つことに努めるべきなんですね。
気持ちを切り替えて、あらためて「シナリオ」誌に掲載された『イサク』(本作のシナリオタイトル)のシナリオを再読しました。
素直に読めば、これは罪の意識を背負った青年が信仰に目覚め、自らイエス・キリストのようになって奇跡を示す、かなりストレートな贖罪と和解の物語です。
公募に応じた脚本なのだから、当て書きであるはずはないのだけれど、まるで今岡信治監督のために書かれたかのような異界のキャラクター(黒塗りのキリスト)や、結末近くの奇跡的な展開が用意されています。
それなのに今岡監督は、そこに飛びついたというわけではなく、ありきたりな脚本の解釈に抗いながら、自分の考える『イサク』に作品を引き寄せようとした、と想像させる逸話をいくつか聞いたり読んだりしました。
その結果として、汚れた足を見せるだけで充分なはずのキリストが、ぶざまな全身をさらけだすことになったのは、やり過ぎではないかという気もします。ヒロインが全裸で海に浸かる行為が、罪を洗い清めるためならともかく、信仰を捨てる決意の場面に置かれたことも、奇をてらいすぎた感じがします。あるいは、海に棄てたはずの聖書や植物状態の青年の復活の奇跡は、登場人物の主観的な幻想だとも解釈できる両義的な演出で描かれていて、それらがあまりにも唐突に、ぶっきらぼうに投げ与えられるから、彼らは奇跡どころか、それが起こったことにさえ、気づいていないかのように受け止められます。
だからといって、演出上の迷いや誤りを含んだ作品ではありません。それどころか、絵作りはいつにも増して丁寧で確信に充ちています。
音楽の助けを借りず、淡々と刻まれるショットは強い説得力を持続させ、俳優の演技もそれぞれが入念な役作りを感じさせて、ベストなタイミングを狙った陽光のなかで、ヒロイン役の新人、吉沢美優が輝いています。
ことに前半部分において、きわめて順接的なストーリーテリングが逆に違和感を感じさせるのだとすれば、それはこれまで、観る人それぞれに、飛躍する物語の語り直しという幸福な労働を強いてきた、過去の今岡作品を見慣れてきたせいなのでしょう。
今岡信治といえば、既存の映画作りのフォーマットをなしくずしにしながら、そのつど「今岡信治の映画」を創ろうとする挑発的な作品のいくつかをつい思い浮かべてしまうのですが、本作はどこか肌合いが異なっています。あからさまな異物感を差し出すのではなく、順接的な語り口のなかに、語っていることそのものへの軟体的な否定の身振りが潜んでいるかのようです。そこには、そもそも信仰の奇跡なんて信じちゃいないんだけどさ、という、注意深い保留の姿勢が感じられます。
驚くべきことが起こったとも、なにも起こらなかったとも解釈できる物語は、じっさいのところ、苦しんでいた人の心が、すこし明るくなったという程度の変化をもたらすだけです。主人公・伊作の存在が変えたのは事物ではなく、植物状態になった青年の妹と母親の内面にかかわる問題だ、と演出は示しています。しかし、その「すこし」が、じつはわたしたちに日々訪れて、しかも誰も気づかない「奇跡」なのではないか――この、信仰による(あるいは人の思いの強さによる)奇跡を物語ったはずの映画は、奇跡の顕れに抗[あらが]いながら、演出のレベルにおいては、そんなことを訴えているかのようです。
結果的に完成した作品は、どこからも疑問を抱かせない、スッキリとした印象を与えてはくれません。いかにも今岡信治らしい作品を仕上げることにはこだわらずに、「外側」から見ただけではどこかわりきれない、なにか今までとは違ったことをやりたがっているような逡巡を含んでいます。
にもかかわらず、素直に愛すべきと思える作品です。力のこもったシナリオが語る真摯な物語とオーバーラップしながら、登場人物でもあり、生身の人間でもある俳優たちから、今そこで生きているという実感をひきだそうとしている。そんな魅力があります。
けっきょくのところ、興味に値する人間が自分の生き方をさらけだすだけで、映画というものはできてしまうと考えるのが今岡信治の映画作りであって、シナリオから読み取った、自分とは違う部分を執拗にまさぐりながら、演出家として、力ずくで「人間」を見せることに傾倒したなまなましさの刻印が、本作を愛おしく思わせるのかもしれません。
――と、結局のところ、作品そのものに近づこうとしながら、今岡作品全般の再認識にたどり着いてしまったのは、創造の現場にどっぷり浸かった港さんの視点から離れなければと意識しすぎたせいなのでしょう。
やっぱりまだぼくは、この作品のオブザーバーになりきれていないようです。
(2009.4.7)
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浅草世界館にて、5/20(水)~5/26(火)
(タイムテーブル 12:15/15:35/19:00)上映。
大阪・タナベ国際劇場にて、5/23(土)~5/29(金)上映。
この映画の正しい置き場所が まだ体の中にみつからない。
確かにしまったのに、どこにいったのだろう」という感覚。なぜだろう。
この映画、色を感じないのだ。
スクリーンの中で過ぎてゆく色たちを必死に追いかける。聖書、伊作のバッグ、果穂のカーディガンの花、スニーカー、車、パチンコのケース、秀樹の靴下……確かにそこに赤という色が用意されているのに、それらは開眼しきらない果穂の表情のように未完成だ。むしろ「無色に近い」という新しい色を塗られているようである。それには、ここ数年のいまおかしんじ監督の映画にあった香ばしさや賑々しさはない。
代わりに風が吹いていた。市川準監督の『トニー滝谷』のように映画の中に。でも『イサク』は、あちらに吹く風をこちらには漏らさない。『トニー滝谷』はその風通しの良さに、肌寒さを感じる程だったのに。
これまでのいまおか作品の中でどれかに似ているとするならば「無色に近い」というその色は『彗星まち』に似ている気がした。 だが『彗星まち』が観る者の出入りを許していたのに対して、こちらにはもっと閉塞感があり、それは登場人物たちの心境がもたらしたものではなく、作り手か、はたまた別の誰かのみえない背中がスクリーンと観客の間に被っていたからであったように思う。人に触れるのも海に行くにも、映画じゃなくて自分でやらなきゃいけないんだよね。
2009年3月1日、生まれて初めて行った新宿国際名画座で「ねえ、まだなの?」と呟きながら、ひたすら絡み待ちをするおじさんの隣でこの映画と対面した。彼の当初の欲求にはそぐわなかったかもしれないが、後半、観客の誰もが満たされたであろう奇跡のセックスがそこにはあった。「気持ちよさそう」とか「きゃあ!いやらしい!」とかいう次元じゃなく、ただ、したくなるセックスが。
この映画の中で最も美しく尊いこのシーンを観たいがために私はまた映画館に行く。どうか私も私の大事な人たちもみんな、死ぬまでにあんなセックスに出逢えますように。
(2009.4.7)
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浅草世界館にて、5/20(水)~5/26(火)
(タイムテーブル 12:15/15:35/19:00)上映。
大阪・タナベ国際劇場にて、5/23(土)~5/29(金)上映。
罪を犯したものの心の彷徨いを描いたピンク映画といえば、これまで私の中では断然、瀬々敬久の「高級ソープテクニック4」だった。絶望的なまなざしの伊藤猛が、自分が昔レイプした女に救いを求めるものの、かなえられない。
あの作品では男が一方的に癒しを求めて女にすがりつくのだけど、この「獣の交わり 天使とやる」はひと味ちがっている。罪を犯したもののと、犠牲になったもの(の家族)それぞれが、自らを救う方法を手探りで見つけ出す物語なのだ。
この「救い」というテーマには宗教や信仰が絡めてあるのだけども、私にはそのあたりをきちんと読み解けるような勉強が足りていなかったので、観た後にはかなりの長い間、考え込んでしまった。
印象的なセリフが登場する。聖書に登場する「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」という一節をとりあげて、伊作は「打ったほうの苦しみをイエスは考えたことがあるのか」と問う。罪を犯した側の苦しみを訴えるこの言葉は、彼のそれまでのきまじめな振る舞いゆえに、心にひびく。
一方で映画は、被害者(の家族)である果穂の側の苦痛もきめ細やかに描いている。弟の介護に明け暮れて心身ともに疲れている彼女にとっては、伊作の中にある葛藤など当然、知ったことではない。むしろ、罪を犯した側でありながら「(神の)声が聞こえた」という伊作の出現に、彼女はふかくふかく傷つけられ、心のよりどころとしていた信仰まで捨て去ってしまう。
「癒しなさい」という声に突き動かされて果穂につきまとう伊作は、実はそういう彼女の苦しみを理解していない。彼女を癒したいと望んでいるのは間違いないだろうけども、本当のところ、彼はただ声の通りに動くことで自分が癒されることを望んでいるだけではないか。果穂に対して真摯に振る舞っているように見える伊作だけども、彼の目は結局、自分の葛藤にしか向いていない、と私には思えた。
神に呼ばれた伊作と、神を乞うて得られなかった果穂が羽毛にまみれて抱き合うシーンは、象徴的で、とても美しい。だけども、その場面でも、きっと二人の心は互いには向いていないのではないか。彼らが求めているのは相手の癒しなどではなく、自分自身の癒しだけなのだから。
もちろん、おそらくそれでもいいのかもしれない。伊作は、それで果穂を救えたと信じて、自分の癒しとしたかもしれない。果穂はもしかしたら、弟を傷つけた男と関係を持つことで、決して消せない罪の意識をせおったのかもしれない。罪をせおった者が神に呼ばれるのならば、今、彼女は間違いなくその資格をえたのだ。それこそが彼女がみつけた、自分自身を癒す方法だったのではないだろうか。一度すてた聖書を拾い上げ、賛美歌を口ずさみながら弟の体をふく彼女の顔は、それまでになくすがすがしい。
しかし私にとってこの映画で一番印象的だったのは、伊作と果穂のくだりではなく、伊作と女友達・美保との濡れ場のシーンだった。物語中、誰もが、背景になっている傷害事件のきかっけは、被害者のほうにあったのだ、と理解しており、伊作が被害者を昏睡状態に至らしめたのは不幸な事故であった、とも思っている。だが彼はこの濡れ場で、美保にだけ、「本当は殺すつもりで殴った」と告白するのだ(彼がもしこれを果穂に告白していたならば、どうだっただろうか)。それを聞いた彼女は、伊作を胸に抱きながら「誰にでも他人に言えないことはある、黙っていろ」と諭す。聞き捨てならぬ告白を聞いてしまった女が、自分の身の丈にあった精一杯の言葉で(その場しのぎかもしれないが)男を癒そうとする。そのありかたこそ、実はこの映画の中でいちばん、私が共感できた部分だった。
(2009.4.12)
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獣の交わり天使とやる 2009年 日本
監督:いまおかしんじ(『たまもの』『かえるのうた』『たそがれ』)
脚本:港岳彦(『ちゃんこ』) 撮影:鈴木一博 編集:酒井正次
出演:吉沢美憂、尾関伸嗣、小島遊恋、古澤裕介、伊藤清美、吉岡睦雄、松原正隆、川瀬陽太、
守屋文雄、及川ゆみり、ローランド・ドメーニグ、ほか
製作:国映、新東宝、Vパラダイス
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