会話の途中で今まさに話そうと思った事柄が出てこない――
誰もが一度は経験したことがあるであろうこの現象は、大抵の場合「ど忘れ」と呼ばれて省みられることは殆どない。「最近『ど忘れ』
が酷くてさー」「私も歳かねー」などと言って、さらりと流していたものの、当人の自覚無自覚に関わらない諸々の症状に、
いよいよもってこれはおかしいと訪ねてみた病院で告げられたのは、若年性アルツハイマーという診断だった――。
本作は山本周五郎賞を受賞した荻原浩の同名小説を原作に、若年性アルツハイマーという思いがけない病気と向き合うことを余儀なくされた、
中堅広告代理店の熱血営業部長と彼を支える妻の姿を描いた作品である。
若年性アルツハイマーをテーマにした作品と言えば、昨年日本でも公開されて大変な話題を呼んだ韓国映画
「私の頭の中の消しゴム」(04)が記憶に新しいが、誤解を恐れずに言えば、「私の頭の中の消しゴム」における若年性アルツハイマーとは、
要するにメロドラマを際立たせるための一要素に過ぎなかった。対する本作は、病と人間の有り様を見つめようとしているという点で、
よりヒューマンなドラマに仕上がっていると言っていいだろう。
特に若年性アルツハイマー特有の「社会的な死」という問題を見据えている点は、
本作の大きな収穫の一つであると思う。この「社会的な死」とは、
病気により辞職を余儀なくされた患者が社会との接点を失うといった意味合いだが、
これは社会生活から引退してから発症することが殆どの老人性アルツハイマー患者にはほぼ無縁の問題だろう。この為、
老人性アルツハイマー患者が「肉体の死」と脳機能の停止に伴う「人格の死」、二度の「死」に臨まねばならないのに対して、
若年性アルツハイマー患者はこれらに加えてもう一つの死である「社会的な死」にも臨まなければならない。この意味で、
若年性アルツハイマーは、単に闘病期間が長いというだけに留まらない過酷さが伴うものと言えるのだ。
そうした若年性アルツハイマー患者が、病気によって社会から零れ落ちていく過程で味わうであろう、現実に対する様々な感情――戸惑い、
苛立ち、悲しみ、不安などを、渡辺謙が全身で掬い取ってみせた前半は、確かな見応えがあった。
しかし、患者の内面を中心に描いた前半に対して、後半を介護者である妻の姿に視点を移したことで、
作品そのものの焦点が急速にぶれ始めていく。と言って、患者から介護者への視点のスイッチングそのものは実に滑らかで、
殆ど違和感を感じさせないものではある。が、介護者である妻に視点を移したことで、本来中心にあるべき患者の姿を、
物語の周縁に押しやってしまった面があるのは否定できないだろう。これは同時に、前半ではそれなりに奏功していた「日記による心情吐露」
という演出装置をも放棄することに繋がっており、前半と後半における演出の齟齬となっている。結果として、本作の後半部分は何もかもが――
介護者である妻の視点としても、患者本人の視点としても中途半端でチグハグなものになってしまっているのである。
はっきり言ってしまえば、この後半部分はアルツハイマー患者の現実も、
自宅介護の現実も殆ど描きえていないとすら言えるのだ。少なくとも筆者には、
記憶が失われていくことの不安や悲しみは感じ取れなかったし、
かけがえのない宝石のような思い出を思い出すことのできない無力感やそれによってじわじわと実存が侵蝕されていくような恐ろしさ、
或いは死ぬほど愛おしいと思っていた人の顔が、声が、姿がわからなくなっている自分に対する絶望感を、
後半の渡辺謙の姿からは殆ど感じ取ることはできなかった。また、そうした患者を前にして何もしてやれない介護者の辛さ、
介護生活の過酷さも余り伝わってこなかったのである。
と言うのも、この作品ではアルツハイマー患者の症状を固定して描いてしまっているからだ。アルツハイマーの様々な症状――
例えば特定人物に対する認識不全など――は、一度現れたらそれがいきなり死ぬまで続くというものではなく、
深さを変えながら現れては消えるということが延々と繰り返される実に厄介なものである。
それ故に介護者は気まぐれに現れたり消えたりする患者の症状や言動に徐々に神経を消耗させられることになるわけだが、
そうした部分が本作からはきれいに抜け落ちている。時に凄惨ですらある介護生活の日常風景を、
本作は突き抜けるのではなく避けているようにすら見えるのである。だからだろう、
本作を観終わってもどうしても冒頭シーンへと意識を繋げることが困難なのだ。
本作が惜しまれるのは、若年性アルツハイマー患者の「社会的な死」をあれだけ執拗に描きながら、
アルツハイマー患者が直面する「人格の死」の進行過程が全くと言っていいほど描かれていないこと、この一点に尽きるだろう。折角、
娘の結婚式や初孫と過ごした日々といった魅力的なエピソードや風景を物語に織り込みながらも、
その全てを観客の眼前で失わせるという残酷さを発揮できなかったのは、
ひとえに脚本の脆弱さと作品が重くなりすぎることを小手先で回避しようとしたかのような安易な演出の失敗と言わざるをえまい。
過酷な現実を見据え、残酷なまでにその実相を暴いてみせるくらいの覚悟が脚本になければ、どんな題材を扱おうが、本当の意味での
「ヒューマン・ドラマ」たりえないのかもしれない。
(2006.5.29)
(C)2006「明日の記憶」製作委員会


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