今週の一本
(1989 / イタリア / リリアーナ・カヴァーニ)
その無垢を現実にこすり合わせよ

膳場 岳人

 89年の劇場公開版より約20分長い「ノーカット完全版」が、新宿K’sシネマで上映中である。尺が延びたぶん、フランチェスコの心理の変遷をじっくりと辿ることができるものの、説明に不足がないため、却っていささか平板な人物像に映ってしまっている。語り口も平坦で、緩急というものが欠けているために若干退屈である。ヴァンゲリスのシンセサイザーが、沈黙の効用など知らぬげに始終鳴り続け、閉口を誘う……と、欠点をあげつらえばきりがないが、それでも筆者はこの映画がけっこう好きだ。“アッシジの貧者”こと聖フランチェスコの半生を、可能な限り史実に沿う形で描こうと努力しているからである。

 ジョヴァンニ・フランチェスコ・ディ・ベルナルドーネは、1182年(一説には1181年)、イタリア中部ウンブリア地方のアッシジに、裕福な織物商人の息子として生を受けた。若い頃は名うてのプレイボーイとして鳴らし、歌や踊りにうつつを抜かす享楽的な生活を送っていたらしい。その一方で騎士道に深く傾倒していた彼は、ペルージャとの戦争に意気込んで志願するが、これといった戦功も挙げられないまま捕虜となり、病体で故郷に送り返される。捕虜生活の中で聖書に親しみ始めた彼は、静養の日々の中、営利追求を旨とする商人の生き方に疑問を抱き、何かに導かれるように貧しい人々の中に分け入っていく。ある夜、サン・ダミアーノの朽ち果てた聖堂で休んでいた彼に十字架のキリストが囁く――「私の教会を建て直しなさい」。

 本作ではその際のキリストの幻影も声も描かれない。フランチェスコは、寝て、起きて、十字架を抱きしめるだけだ。それでも充分に彼に起きた回心を観取することができる。フランチェスコはさっそく聖堂の修復作業に取り組むが、それが「私の教会=サン・ダミアーノ」といった狭義の意味でなく、当時腐敗が進んでいたカトリック教会全般の再生を促す言葉であったことを知る由もない。貧しい隠遁者のいでたちで家々を回って施しを請い、それを貧者や、当時不治の病として街の外へ隔離されていたハンセン氏病患者らへと分け与えるフランチェスコは、町民の笑い者となる。彼の父ピエトロはフランチェスコが財産を勝手に処分して貧者に施したことを知り激怒、我が子を相手に裁判で争うことを決意する。法廷の場に引きずり出されたフランチェスコは、その場で一切の財産と相続権の放棄を宣言し、着衣を脱ぎ捨て素っ裸になる。神への帰依を表明するためである。彼は父に囁く。「私には別の父がいる」。フランチェスコ25歳の時であった。

 町はずれの聖堂で黙々と修復作業に取り組む彼の周りに、少しずつ若者が集まり始める。その中には後にキアラ(クララ)女子修道会を設立する美少女・キアラもいる(演じるのは現・ティム・バートン夫人のヘレナ・ボナム=カ-ター)。やがて彼らは貧しくも平和な共同生活を営み始める。フランチェスコが簡明な「会則」を持参してローマ法王に謁見し、修道会設立の認可をもらうことでその結束はより強固なものとなる。以降、アッシジには“生ける聖人”の噂を聞きつけた情熱的な若者たちが世界中から続々と詰めかけてくる。会におけるフランチェスコの指針は、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積む事になる。それから、私に従いなさい(マタイ伝19・21)」に基づき、私有財産の放棄、従順と貞潔、奉仕の精神といった原理に貫徹されている。しかし若者たちにとってそれはあまりにも素朴で非現実的なものに映った。フランチェスコへの批判が噴出し、組織には派閥や軋轢が生じ、彼らの素朴な共同体は瓦解の危機に見舞われる。不世出の修道僧ではあっても、組織の指導者としての資質に著しく欠けていたフランチェスコはこうして窮地に立たされる――。

 フランチェスコを主人公とした映画と言えば、真っ先に挙げなければならないのはロベルト・ロッセリーニの『神の道化師 フランチェスコ』である。14世紀に編まれたフランチェスコ伝「アシジの聖フランシスコの小さき花」に基づき、数々の微笑ましいエピソードを朗らかなタッチで綴った奇跡的な傑作である。しかしフランチェスコのリアルな苦悩は注意深く排除されており、「正伝」とはいい難い。もっとも世間に知られた作品と言えばフランコ・ゼフィレッリの『ブラザー・サン シスター・ムーン』だが、始終流れるドノヴァンの楽曲といい、“お花畑”な雰囲気の能天気な映像の羅列といい、筆者個人としては正視に耐えない映画だった。

 リリアーナ・カヴァーニによる本作は、フランチェスコを当時人気絶頂だったミッキー・ロークが演じるという世紀のミスキャストでいきなり出鼻をくじかれるが、次第にそれも慣れてくる。カヴァーニがフランチェスコを映画化するのは66年の『アッシジのフランチェスコ』に引き続き二度目らしいが、それなりの探求・思索の跡が随所にうかがえる。フランチェスコは最初に聖痕を受けた聖人としても有名だが、それを大仰な「奇跡」と位置づけず、あくまで深い信仰がなした肉体的な変化とした上で、「果たしてそこまでの信仰がわれわれに可能だろうか?」とキアラにつぶやかせる幕切れによって、対象に対する誠実さをつつましく立証する。

 フランチェスコが筆者をひきつけてやまないのは、清貧の思想に共鳴したり、狂気じみた求道の姿に打たれたり、動物とさえ意志の疎通ができる(とされる)純真無垢なたましいに憧れるからだけではない。フランチェスコは美しいたましいを持っていたが、それを後生大事に温存するのでなく、不慣れな組織運営に苦慮し、理想と現実の間で引き裂かれながら、せわしない現実に身をこすり合わせた。理想を同じくする仲良しグループの閉じた世界で充足することをしなかったのである。異なる意見を持つ他者と交わりを持つ努力を重ねなければ、どんなに崇高な思想も、閉じた世界で死に絶え、世の中へと広がっていかない。本作はそこを重点的に描いているがゆえに、映画的な欠点は多いものの、評価に値すると思うのである。

  貧しさの中に生きるとき、人には信仰、あるいは確固たる信念が必要なのかもしれない。辛い現実から逃避するためではない。現実を意味のあるものに変えるためである。

(2008.2.4)

フランチェスコ~ノーカット完全版 1989年 イタリア
監督・脚本:リリアーナ・カヴァーニ 脚本:ロベルタ・マッツォーニ 撮影:ジュゼッペ・ランチ 音楽:ヴァンゲリス
出演:ミッキー・ローク,ヘレナ・ボナム=カーター,パオロ・ボナチェッリ,アンドレア・フェレオル
公式

2008年2月2日より、新宿K’s cinemaにて
“リリアーナ・カヴァーニ傑作選”の一本として上映

神の道化師、フランチェスコ
神の道化師、
フランチェスコ

監督: ロベルト・ロッセリーニ
アッシジのフランチェスコ
アッシジのフランチェスコ
アシジの丘―聖フランチェスコの愛と光
アシジの丘―聖フランチェスコの愛と光
アシジの聖フランシスコ (平凡社ライブラリー) (単行本(ソフトカバー))
アシジの聖フランシスコ

2008/02/05/02:26 | トラックバック (0)
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