成瀬巳喜男の『乱れ雲』は、交通事故によって夫を喪った未亡人・司葉子が、
加害者である加山雄三とあわや一線を踏み越えそうになるという、古式ゆかしいメロドラマだった。成瀬の遺作となったこの映画、『稲妻』
『浮雲』『めし』のような傑作に比べればいささか見劣りするが、そこへ同じく「交通事故」をモチーフにした、アレハンドロ・ゴンザレス・
イニャリトゥ監督の『21g』を並べてみるとき、やはり成瀬は偉大だった、と平凡なつぶやきをもらしたくもなる。
「交通事故」というモチーフは、成瀬をはじめとして多くの映画作家が取上げてきた。あるときは物語の必然に基づいて。
あるときは物語を始めたり終わらせたりするために。近作ならば、『ジョー・ブラックをよろしく』では、物語を起動するために、ブラッド・
ピットが数台の車に撥ねられて楽しそうに宙を舞ったし、『存在の耐えられない軽さ』では、物語を終わらせるための事故が悲痛な感銘を誘った。
デビッド・クローネンバーグ監督の傑作『クラッシュ』では、交通事故によって性的な快楽を得るという面妖な男女が、
ロマンポルノさながらの観念劇を繰り広げた。一方、クラッシュそのものを笑い飛ばす、『ブルース・ブラザーズ』シリーズや、
ダイアナ元王妃の事故死現場で過激なカーチェイスを展開する『RONIN』のような不謹慎な快作もある。
そう言えば、イニャリトゥ監督の前作『アモーレス・ペロス』も、交通事故がモチーフだった。
事故を媒介として出会う何組かの人物とその人間模様。そんなありふれた物語の何にそれほど魅了されるのか、
監督はこの映画でも同じモチーフを変奏する。
交通事故の加害者にして前科者、脳死した被害者の心臓を貰った大学教授、事故で夫を喪った未亡人の三人が、
ついには正面から対峙するという、ただでさえ辛気臭い物語を、ショーン・ペン、ベニチオ・デル・トロ、ナオミ・
ワッツといった役者バカたちが陰々滅々と熱演する。粒子の粗い、ざらついた映像で捉えられる彼らの苦悩だが、
その迫力はさすがと言わねばならないのだろう。ここぞという時にギヨヨーンと鳴り響くギターの音色もドラマティックだし、
粉々にシャッフルされた映像の断片が、徐々に一つの物語を形づくる構成は、それが特に必然性のあるものとは思えぬにしても、
平板な物語を最後まで飽きさせない工夫としては奏効している。
飽きないといえば、ナオミ・ワッツの裸体がこれでもかと大写しになるベッドシーンには見とれた。まろやかな光沢を放つ美しい乳房が、
ショーン・ペンの無骨な掌によって丁寧に愛撫される。この映画で一番魅力的なシーンだ。しかし、それは単に女優ナオミ・
ワッツのヌードに興味があるから惹きつけられるのであって、ベッドシーンへいたる推移には何ら面白みはない。ナオミ・
ワッツの死んだ夫の心臓は、その時、ショーン・ペンの胸で恨めしげな鼓動を響かせていたのではなかったか?
死んだ夫の心臓を持つ男に抱かれる――そのあまりに倒錯した背徳に、ナオミ・ワッツは何も後ろめたい思いをしなかったのだろうか?
(えー、何か三人でしてるみたいで燃えちゃうー)とか、ほんの少しでも思わなかったのか?
翻って成瀬の『乱れ雲』のクライマックスはどうだろう。加山雄三の立場をわきまえぬ求愛に、ついに腰から砕けた司葉子。
彼女は意を決して加山の部屋を訪れ、二人は階段の上と下とで息詰まるような視線のドラマを展開する。彼らはそのままタクシーに乗り込み、
無言のままどこぞの宿へと向かうのだが、その目的はセックスをすること、ただそれだけだ。夫を殺した男に向かって、
いままさに貞淑な肉体を捧げようとする女。車中には重苦しい沈黙が垂れ込める。タクシーは踏み切りの前で停まる。
電車が轟音を響かせて行き過ぎる。運転手が、いかがわしそうにバックミラーを覗き込む。
見ているだけで熱い吐息がもれそうな彼らの佇まいには、ナオミ・ワッツのヌードをもってしてもかなわない、強烈な官能が漲っているのだ。
その後彼らがどんな運命を辿るかはここでは触れないが、「ドラマティック」とはそういうことではないのだろうか。『21g』のように、
ショーン・ペンとナオミ・ワッツが、ごくごく自然に、簡潔に、ドラマ上の問題を解決して結ばれても特に問題はない。ないが、単に
「リアリティがある」だけの物語など面白くもなんともないではないか。話の整合性を保つことに腐心しているばかりでは、
インスタントで即物的なエロティシズムしか醸せないのである。そういう意味で、ぼんやりと晒されたショーン・ペンの微妙に不健全な裸には、
思わず息を飲んだ筆者である。
(2004.6.14)
主なキャスト / スタッフ
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