(ネタバレの可能性あり!)
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border="0" /> 菊池凛子の米アカデミー賞ノミネートによって日本国内で思いがけない知名度を得た本作は、
「アモーレス・ペロス」(99)、「21グラム」(03)で知られるメキシコ人監督アレハンドロ・ゴンサレス・
イニャリトゥの最新作である。
時制の解体や多視点の並列処理といったイニャリトゥ監督作品ではすっかりお馴染みの手法は今回も健在だが、
編集の精度に関してはこれまで以上に磨きがかかっており、その作風は今作で一つの完成形に達したと言っていいだろう。
昨年のカンヌで監督賞を受賞したのも肯ける部分があるのは確かである。
本作のタイトルとなっている「バベル」とは、創世記第11章にある余りにも有名な「バベルの塔の説話」に由来しているわけだが、
注意すべきは本作には象徴としても、モティーフとしても「バベルの塔=高慢、傲り」は一切描かれていないということだ。
ブルューゲルの傑作の一つである「バベルの塔」を用いて宣伝されているせいで誤解している向きも多いように思うが、
本作はバベルの塔の建設を目指したがゆえに、神によってお互いの言葉を分からないようにされてしまったという説話の「結末」を引き継ぐ形で、
それを現代の人類が陥っている状況として重ね合わせている。つまり、「バベルの直系子孫」
としてコミュニケーションが断絶されたままの人間状況を照ら出した作品なのである。
本作がモロッコ・アメリカ・メキシコ・日本の四ヶ国の人々を「バベルの直系子孫」のモデルとして抽出しているのも、
そのような人間状況が貧富や文化を越えた人類全体の普遍的なものであることを明示する意図がこめられているのは間違いない。
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border="0" /> この四地域を舞台にした四つの人間模様を緩やかな結びつけているのが、
モロッコの少年が出来心で放った一発の銃弾である、という発想はなかなかユニークだ。少年が放った一発の銃弾は、
冷め切った夫婦関係を打開するためにたまたまモロッコを訪れていたアメリカ人夫婦(ブラッド・ピット&ケイト・
ブランシェット)の妻に当たってしまい、彼らの運命を急転させる。
このアメリカ人夫婦の子供達を預かっていたメキシコ人乳母(アドリアナ・バラッザ)は、銃撃事件によって夫婦が現地に足止めされたせいで、
自身の息子の結婚式に出席するための休暇を取り消されてしまう。どうしても出席する必要があった乳母は子供達を連れてメキシコに帰郷するが、
それが彼女の人生を大きく揺さぶる。
そして、この銃撃に使用されたライフルの名義上の所有者が、日本人会社員(役所広司)であったことから、彼の元に刑事が現れる事態となる。
その少し前にある事件で彼が警察沙汰になっていたことで彼の娘(菊地凛子)は、再び現れた刑事に戸惑いを隠せないが、
その容姿に好意を感じもする。しかし、聾唖である彼女はその思いをどう表現したらよいのかわからないでいた――。
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border="0" /> 遠く離れた場所で起こった出来事が、
その出来事と直接関係のない人々に様々な形で波紋を投げかけていく本作の流れは、
バタフライ効果さながらの"複雑な"様相を呈しており、連続性を拒絶した細切れの編集と相俟って、
個々のエピソードの因果関係も不明瞭に見えるかもしれない。しかし、より重要なのはこの四つの物語が全て、
登場人物の思い込みによる「誤解」に根ざしているという点で通底していることにある。
これは各人がそれぞれの(自分勝手で一方的な)思いに捕らわれ、自身の価値観に依存した判断と行動をとってしまいがちであることが、
目の前の相手とのコミュニケーションの断絶の遠因となっていることを示唆したものだろう。
こうした人間が不可避的に抱える他者との断絶を、
より象徴的でより切実な形で浮かび上がらせているのが菊池凛子扮する聾唖の女子高生・チエコである。
手話というコミュニケーションツールを持ってはいても、
健常者との意思疎通には不可避的な困難が伴うことに自覚的であらざるを得ないチエコの姿からは、
他者と断絶される人間の苛立ちと孤独が透けて見える。
特にクラブ内に渦巻く熱狂の中で、
その音を感じられないがゆえに場に溶け込めず心を醒めさせていくチエコの空虚を描いた一連のシークエンスは、
演出にやや過剰な面がないではないが、誰もが感じたことであるであろう群衆の中の孤独感が掬い取られていたように思う。
alt="バベル4"
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border="0" /> ただ、本作の各エピソードからコミュニケーションの断絶や相互理解の困難さに対する問題意識が汲み取れる一方で、そのような問題意識を提起するだけに留まった中途半端な作品になっていることも否定できないだろう。
何より不可解なのは、本作はコミュニケーションの断絶と困難を人間存在の前提条件として大上段に構えてみせておきながら、そこからいかにして脱却すべきかという問題の核心について全く掘り下げようとしていないことだ。
一体、あの夫婦は、あの親子はお互いの何を理解し合ったのか、何を確認し合うことができたのか。それまでの断絶された関係を乗り越えていくほどの何があったというのだろうか。そこ辿り着くまでに当然あるはずの葛藤を見据えることなしに、単に銃撃事件の収束に合わせて各エピソードの因果が示されても空疎なだけだろう。だから、本作が描き出す和解も救済も薄っぺらいキレイ事にしか見えないし、転落も現実的というよりも悲劇のための悲劇にしか見えない。
尤も本作の腰の砕けた幕切れに予感がなかったわけではない。思い返せば、各国パートには首を傾げたくなるような描写が散見されていたし、作品そのものがリアリティよりも作為を重視した作りになっていたようにも思う。筆者個人は、「寓意性」を免罪符にすればどのような表現や描写も許されるとは思えないのだが、せめて本作のように「大風呂敷」を広げたからには、それに見合った幕引きがあって然るべきだったのではないか。
監督の意欲や意図が割とよく見える明快な構図の作品であっただけに、逆に掲げていたテーマが矮小化して尻すぼみに終わってしまっているのがつくづく惜しまれる。
(2007.5.7)
バベル 2007年 アメリカ
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:ギジェルモ・アリアガ
撮影監督:ロドリゴ・プリエト
美術:ブリジット・ブロシュ
出演:ブラッド・ピット,ケイト・ブランシェット,ガエル・ガルシア・ベルナル
役所広司,アドリアナ・バレッザ,菊地凛子 他
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