もう十年くらい前のことになるだろうか、今でも筆者の心の一角を占め続けている
「映像体験」がある。それは、当時泥沼の内戦状態に陥っていたアフガニスタンの状況をレポートした比較的短いドキュメンタリーで、
彼の地の風景と共に現地の人々のインタビューを収めたものだった。具体的なことは他に何も思い出せないが、その中に一人の女性がいた。
当時のカブール上空を飛び交っていた迫撃砲の流れ弾に晒され、その爆撃で全家族と両足を失って病院に収容されていた女性だった。
インタビュアーが彼女にどんな質問をしたのかすらも今となってはわからないが、
ただ彼女は泣きながらこう訴えていたことだけははっきりと覚えている。「私は夫を失い、子供達も失い、両足まで失った。
自分には何一つとして残されたものはない。だから、どうか殺して欲しい」泣きながら彼女は確かにそう懇願していた。否……
そう全身で叫んでいたのだった。その後、彼女がどのような人生を辿ったのかは知る術もないが、当時――そして今も――筆者が感じたのは、
その悲痛な絶望の叫びは、ある個人のものであると同時に世界の叫びでもあった、ということなのだった。
それ程までに世界は血と涙に濡れており、今もって乾く気配がないのだ……。
埒もない話を敢えて書き綴ったのは、テオ・アンゲロプロスの新作「エレニの旅」の幕切れで慟哭する主人公の姿から、
筆者は上述の女性のことを想起せずにはいられなかったからである。監督の亡き母に捧げられたこの途方もない映画を見届ければ、
本作が描き出すエレニの半生は、単にギリシャ現代史の奔流に晒され続けた女性というだけでなく、
そのまま二十世紀という激動の時代に翻弄された女達――母であり、妻であり、娘であり、
恋人であった女達が辿った足跡であることがたちどころに了解されるだろう。エレニが流す涙も、嘆きも、歓びも、
全てが彼女個人のものであると同時に、二十世紀という時代に生きた女達のものなのである。
だが果たして本作は、エレニという女性の個人史を通じて二十世紀という時代を照射しただけの作品なのだろうか。勿論「だけ」
というのは随分と語弊のある言い方であるし、上述のようにそうした面があるのは間違いないのだが、それだけの映画でしかないということが、
アンゲロプロスに限ってあり得るのかどうか。恐らく本作は、それだけに留まるような単純な作品ではなかろう。
そもそも上述のようなエレニの個人史を中心に据えた作品にしては、彼女の個人史を彩ったであろう諸々のエピソードを、
余りにも大胆に省きすぎであると断じざるを得ないのである。それは一切の無駄を省いたというよりは、
物語が単純に個人史をなぞる事態を避けているかのようにすら見受けられる。
寧ろ本作の物語は、エレニの個人史とギリシャ現代史の間を縫うようにして進んでおり、そのようにして両者のバランスを緊密に保ちながら、
物語から「日常」或いは「生活」を捨象すること――村の映像からは信じがたいほどの生活感が滲み出しているので、
こう言うと疑問に感じる人もいるかもしれないが、エレニとアレクシスの生活風景が殆どまともに描かれていないことは注目されていい――で、
アンゲロプロスが浮かび上がらせようとしているのは、「幻想」の存在そのものに他なるまい。
例えば、エレニに執着する義父スピロスはその肥大した対幻想によって破滅するし、アメリカへと旅立っていくアレクシスは、
ある意味で自己幻想によって身を滅ぼしたと言えよう。
度々挿入されるギリシャ史に因んだ風景は共同幻想の暴力的な発露を示唆していることは言うまでもなく、
エレニ自身もアレクシスへの愛に縋り続けるという点で、作中一貫して幻想の虜であった。
エレニの半生を寸断して繋ぎ合わせるが如き物語構成をとっている本作であるが、その接合面に必ず幻想に捕らわれた人の姿が見え隠れするのは、
決して偶然ではない。そして、本作の到るところに鏤められたこれら「幻想」の存在が示唆するのは、
二十世紀中葉までは幻想を疑いなく信じられた(ある意味で)素朴な時代であり、人々が自覚もないまま様々な幻想に溺れ、
熱狂することで歴史が作られていた、ということなのではなかっただろうか。エレニが辿る旅とは、いわば彼女が「幻想の王国」
を築き上げる過程であり、そこは難民である彼女が唯一身を寄せられる安息の場所でもあったはずだ。しかし、
幻想からはいつかは覚めなければならない。哀れなエレニの幻想は、夫と息子達の死という厳粛な事実によって無惨にも砕け散る。
「愛する者がいなくなってしまった」というその慟哭は、単に息子を失った母親のものというばかりでなく、
文字通り一切を奪われたことに対する絶望の嘆きとして、我々の胸を打たずにはおかない。
こうして愛する対象を全て失ったエレニは、自らの「幻想の王国」から追放されて再び難民として生きることを余儀なくされる。
しかし逆に言えば、この慟哭なしでは何も始まらないとも言えるのではないだろうか。
絶望のみを深く抉り出した本作は救いようのない悲劇であるが、そうした中で唯一の救いと言えるのは本作がトリロジーをなす最初の一本である、
ということだ。「二十世紀」を総括することを目指したトリロジーということは、
以降の作品でこの慟哭の中から生み出されるものの姿が描かれるに違いないからである。それはまた、
本作では描かれることのないその後のエレニの姿と言っても差し支えないだろう。それが如何なるものなのか、
今から期待を膨らませずにはおかないが、
今はただこの映画史に残るであろう偉大なるトリロジーが無事に完結されることだけをひたすら願うのみである。
(2005.5.2)
主なキャスト / スタッフ
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