レビュー

愛のゆくえ(仮)

( 2012 / 日本 / 木村文洋 )
2012年12月1日(土)より、ポレポレ東中野にて上映中
大阪、名古屋、京都にて公開決定
躓きの石としての新たまねぎ

後河大貴

『愛のゆくえ(仮)』ネタバレあり! 木村文洋監督の四年ぶりの新作長編『愛のゆくえ(仮)』は、麻原彰晃に代表されるオウム真理教が惹起した一連のテロ事件の被疑者として特別指名手配され、十七年もの長きに渡り逃亡生活を送ったのち昨年末に出頭した平田信と、彼を匿い続けたすえ、自らも相次ぐかたちで出頭した女性信者をモデルにしている。こうしたセンセーショナルかつ進行中の実事件に主題を仰いだ場合、道義的立場から芸術制作上の倫理を問われることは避けがたいだろう。この問いに対して、作り手は対象を告発も断罪もしていない。あるいは政治性を括弧いれすることもしていない。だが、それは事件に対する判断の留保や責任回避といった消極性をいささかも意味しない。作り手は、これらの事柄を考え抜いたうえで、説話構造それ自体による回答を試みている。むろん映画は映画でしかありえず、わずかでも人為が介在している以上、虚構の物語にすぎない。だがそのかぎりで、この試みはオウムの心臓を射抜くと同時に、近代主権国家が成立過程で括弧の外に括りださざるをえなかった領域をも射程に収める。これは容易いことではない。

『愛のゆくえ(仮)』は、沈思する疎らな乗客たち捉えた電車内の固定ショットで開巻する。そのなかに、差込む斜光を背に受けるひとりの女(前川麻子)が座っている。日々の労働による疲労からか、眼鏡をかけたまま眠気に誘われるいくぶん無防備な彼女は、しかしスタンションポールによって周囲からその身を隔絶している。あたかも自らを「部屋」に監禁するかのように。だが、その外貌から内面を忖度しはじめるとき、突如暴力的に挿入される黒味の反復によって、観客の想像的な同一化は彼女から即物的に「分離」されてしまう。

木村監督自らが「部屋の映画」だと断じる本作にあって、作り手の掛け金は密室に同居する男女が自他を完全に「分離」することの一点に賭けられている。なぜか。それが来るべき「結合」の主体的条件であるからだ。台所付き六畳間という限定的な舞台装置において、男(寺十吾)は居室の本棚に縛り付けられたかのごとく床に胡坐し、女は台所に立ってまめまめしく家事をこなす。この縦に続く二間の往来を軸に、二者の関係性の力学は主に「座る」「立つ」という上下の運動で視覚化される。このとき、「部屋」の最深部に位置するベッドは、「横たわる」ことの可能な中間領域として機能する。ここに至ったとき、観客はタイトルに冠せられた「愛」が二人に何をもたらすのかを知ることになる。また、上昇と下降の運動は、それぞれが白か黒かという「罪」の認知を巡る視覚的表現と緊密に結びつくが、それは本作が根本において明と暗という「光」を巡る劇として構築されているゆえだ。モノクロ画面は決して美学的選択などではない。

そして、これら作品の構造を規定する説話上の工夫の一切は、ひどく厄介なひとつの問いに収斂する。「人間は死ぬ、必ず死ぬ、絶対に死ぬ」。十七年もの長きに渡り、自らを「部屋」に監禁してきた男がぽつりと呟くこの言葉こそ、麻原が説法に好んで用いた現世の「真理」であり、オウムの教義における心臓なのだ。『オウム真理教の精神史』において、オウムとキリスト教原理主義の相同性を看破した宗教学者の大田俊寛氏は、「オウムとは何であったのか」という問いに対し、以下のように自身の考えを概括している。すなわち「ロマン主義的で全体主義的で原理主義的なカルト」であると。「そのような思想的潮流が発生し、社会に対して大きな影響力を振るうようになった」事由を、氏は「国家が此岸の世界における主権性を獲得し、宗教や信仰に関わる事柄が「個人の内面」という私的な領域に追いやられるという構造そのものに起因している」とする。どういうことか。

「虚構の人格」としての近代主権国家は、教皇権が世俗国家へ棚上げされること=政教分離から出発した。だが、「その身体からは、個々人の「死」に関する事柄が原則的に排除されて」おり、「「あの世」についての事柄に関知しないことを前提としているため、国民一人一人の「死」について、これをうまく扱うことができない」。ゆえに「他者=死者との「つながり」のなかで生きるということは、人間にとってもっとも重要かつ公的とされるべき事柄でありながら、近代の社会ではそれがスムースに行われない」。つまるところ「ロマン主義、全体主義、原理主義という思想潮流は、そのすべてが、何とかして死を超えた「つながり」を取り戻したいという切実な願望に基づくものであると同時に、それにまつわる空虚な幻想」なのだ、と。大田氏は、麻原が最初に受けた『トワイライトゾーン』のインタビューを引きながら本文をこう結んでいる。「(麻原は)二〇〇六年には核戦争の第一段階が終わっており、その頃には日本も死の灰に包まれているだろうという予言を語っている。天皇に代わって自分が日本の主権者となり、次の「最終戦争」では必ず勝利を収め、核戦争を生き延びて、日本を世界に冠たる国にまで高めてみせる――このことが、麻原とオウムがその根幹において抱え込んだ幻想だったのである」。

『愛のゆくえ(仮)』場面1恣意的かつ乱暴な引用をお断りせねばならないが、大田氏の論述は明快で強い説得力がある。むろん氏のテキストに頼らずとも、オウムによって惹起された一連のテロ事件を事後の立場から反省的に回顧することはできる。あるいは、その独善的な終末論や救済思想をお粗末な「幻想」だと嘲笑することは容易い。ただ一方で、イワン・カラマーゾフが劇詩「大審問官」に仮託してアリョーシャに披瀝したように、「自由に耐えられない」ことが人間の条件であるかぎり、麻原が執拗に反復した「人間は死ぬ、必ず死ぬ、絶対に死ぬ、死は避けられない――」という言葉の絶対性を前にして、果たして人はカリスマへの想像的な同一化の誘惑や、来世での浄福=不死の希求を、自分には無関係な「幻想」にすぎないと取り澄ましていられるだろうか。「《邪悪で不正な人々が安逸を貪っているすぐ傍らで、善良で正しく生きようとしている人に災厄が降りかかるというような不公平がこの世に存在するのはなぜなのか》という、この問い以外はすべて神学的なおしゃべりにすぎなくなってしまうような人生の難問」(山城むつみ『ドストエフスキー』)に躓いたとき、人はパンだけでは生きられない。だが、そこからオウムまでは数歩の距離だ。「死を超えた「つながり」」を求める「切実な願望」が人間存在の根源にかかわっており、かつそれを近代社会が構造的に担保しえない以上、この「幻想」はことあるごと、反復強迫的に回帰してくるのではないか。

では、「死」の絶対性という現世の「真理」は、いかにしたら揺るがせられるのか。『愛のゆくえ(仮)』は、不可避的にこの問いを抱え込まざるをえない。このとき、男が自らを監禁する「部屋」は、「死」という「真理」の絶対性から逃れるべく、オウムの教義に縋るほかない彼の精神のアレゴリーとして二重化される。男は既に自らの罪を認知しようと苦しみ、「部屋」から脱するべくもがいている。彼は自己に対して一心にそれを問うただろう。「自首しようか?しよう?」と。幾度も幾度も。いっそ死にたい、なぜ自分は生きているのかとすら考えたかもしれない。だが、どれほど真摯に自責しても、男はそれをなしえなかった。ここに人間精神の「カラクリ」(椎名麟三)がある。なぜなら、「自己に対する問い一般は結局において「否定的な答」しか出てこない」(椎名麟三「私の小説体験」)から。ゆえに、この安全地帯たる「部屋」に蟄居して自己対話に終始し、自らを本棚に縛りつけるかぎり、男は括弧付きの(男)なのであり、自他を「分離」することができないまま絶望するほかないのだ。

躓きの石は思わぬところから転がり込む。男は薄暗い部屋で一心不乱にスケッチしている。頬杖をつき、目を瞑っている女の絵だ。傍らには劇中でちょうど一年前の今日、東日本を見舞った震災の災禍を報じる週刊誌が置かれている。そこへ女が帰宅する。男は慌てて絵を本棚の奥へとしまいこむ。女はコートを脱ぎ、眼鏡をはずす。男は女の手にした買い物袋を見咎め、訝って問いただす。いつもは自分のメモに従って買い物をするのに、と。それに対して女は「新たまねぎ」を取り出し、カレーの仕度にかかりながらこう応じる。「なんか呼ばれた気がした」。この「新たまねぎ」こそが躓きの石となり、導きの糸たる「いっぽんの葱」となるのだ。二人はカレーを拵える過程で、「食べること」にまつわる記憶を巡る「答え合わせ」をはじめる。それは男の「五年前までは覚えているのに、六年前の今日何をしていたか思い出せない」という問いに触発される。

十七年間の逃亡生活のあいだ、男と女は日本全国の津々浦々を経巡った。女は「徳島にいた」と答え、こう続ける。「わたしは駅弁が食べたいって言ったのに、あなたはラーメンが食べたいからってどんどんひとりで歩いていってしまった」。これに対し男は「俺はラーメンが食べたかったのに、お前がどうしても駅弁が食べたいと言うから、夜更けに探し回るはめになった」と真逆の記憶を語る。事実の相対性を主張して「答え合わせ」を切り上げようとする女に対し、納得できない男は執拗に食い下がる。彼にとって解釈は主観の数だけ存在するが、事実はあくまでひとつしかないからだ。ここにおいて両者は決定的に喰い違う。記憶を巡ってではない。「答え合わせ」それ自体の解釈を巡ってだ。女にとり、ひとつの事実に対して解釈が人の数だけ存在するということが「答え合わせ」の答えなのだ。だが、男は事実がひとつであることに拘泥し続ける。それが彼にとっての「真理」に他ならないからだ。ここで重要なのは、「答え合わせ」が男のほうから促されているという事実だ。繰り返すが、彼は既に幾度も自責している。また、自分が何かを忘却していたことも直覚していたはずだ。だが、それは自己対話であるかぎり「否定的」にしか把握されえない。彼が本棚に隠した女の絵さながらに「部屋」の奥深くにしまいこまれており、「思い出せない」ことしか思い出せないのだ。男の内的葛藤などには一切関知せず、決まって春先に旬を迎える「新たまねぎ」と偶然的に遭遇することなくしては。

カレーを食べ終えると、女は洗濯に取りかかるべく男にパンツを脱ぐことを促し、自身も服を脱いで裸になる。男は素肌を晒した女の背中にしばし見入ったあと、ゆっくりと手をのばし、そっとこれに触れる。この「見る」ことから「触れる」ことへの移行が、何かを迂回するように引き伸ばされた「答え合わせ」で過去を検証する男女間に亀裂を走らせる。留意すべきは、ここまで主に部屋の最深部に位置するベッド側から台所に向けられていたカメラが間逆に切り返され、ベット上方に垂れ下がった重たげなカーテンが明示されることだ。このときカメラの背後には何があるか。扉だ。男は出口を意識しはじめている。彼は林檎を剥きはじめる(この林檎もカレーをつくることでもたらされている)。女は襖を開け、男物のTシャツを取り出し着用する。男は剥いた林檎を女に差し出し、食べるよう促す。この、一見ごく平凡でありながら驚くべき光景は、男と女の非対称な関係が転回し、両者の視野が切り返されたことを意味している。「食べさせる」側と、「食べさせられる」側との。

『愛のゆくえ(仮)』場面2この十七年間、部屋に蟄居し続ける男を、女は外に働きに出ることで支え続けた。人はパンだけでは生きられないが、パンがなければ死ぬだけだ。男が絶望しながらもこの日まで生きえたのは、女が賃労働の対価で購めた「食べもの」を彼に「食べさせ」てきたゆえだ。ようは彼は女によって生かされていたのだ。出頭した平田信は「震災で『おれ、なにやっているんだろう』と自分の逃亡生活が情けなくなった」と供述している。彼が何を思ってこうした発言に及んだのか、その底意はわからない。推断してみるほかない。震災の災禍は無辜なるひとびとを確率的な偶然によって奪い去った。この事実はただただ痛ましい。ではなぜ、罪を犯した自分が絶望に喘ぎながら死ぬことができず、生き永らえているのか。それは何ものか、他なるものによって生かされているにすぎないからだ。おそらく、劇中の男もこの問いに憑かれたのではないか。あるいは、彼は自分が生かされているにすぎないことも既に直覚していただろう。だが、現世の「真理」という絶対性に囚われ、自らを「部屋」に監禁した男は、こんなあたりまえの事実に躓けなかったのだ。自分を支え続けてくれた卑近な他者との「食べること」を介した役割の転回なくしては。

このとき、男は女が背負ってきた眩暈がするほど重い運命が、「あるもの」として彼女の肩越しに顕現するのを認知しただろう。「あるもの」は、彼がこの「部屋」に住みはじめたときから、もうずっと目の前に存在していた。だが、『へばの』において、台所に立つ西山真来が背負う「あるもの」を炬燵を挟んで対面する擬制としての父と息子が看過したように、それを認知できなかったのだ。男はぬらぬらと鈍い光を放つ包丁の切っ先を事もなげに向けたまま、林檎を食べる女を見つめる。ここにおいてすでに「死」の絶対性はなかば突き崩されている。だが、それは同時に男の「死」をも意味している。それゆえか、彼の内なる欲動は女への攻撃性として外向しはじめる。猜疑心に駆られた男は、女がかつて小料理屋に勤めていたさい、じつは同僚に情が移っていたのではないかと難詰しだす。また、こんな自分と生活を共にするのも情が移ったからにすぎないのでは、と。それを聞くや、女は男の疑念を否定しつつ傍らから離れ、台所に立つ。カメラは女の移動をフォローしてパンし、男に向き直った彼女の左側方に設置された鏡に反映した現象たる男とのツー・ショットとなる。このとき両者は空間的に完全に「分離」されているが、視線は等方向を向いている。これこそが、「答えあわせ」の答えであり、タイトルに冠せられた「愛のゆくえ」から括弧が外れた瞬間なのではないか。だが、これら一切が男女の関係性の無意識を追いかけている以上、二人がこの経験を認知するのはもう少し先だ。それは言葉によってもたらされる。

女はベッドにあがり、カーテンをあけ窓をひらく。ひえびえとした夜気が部屋に流れ込む。彼女が窓を閉めると、男は何かを吐き出すように、自らの胸のうちを語りだす。彼は女が常日頃安眠していることを揶揄し、自身の眠りが浅いことを訴える。自分は夢のなかにいて、覚める前に既に夢だとわかっている。でも、起きてからもずっと夢のなかにいるようなんだ、と。男にとって、この「部屋」での生活の一切は虚構にすぎず、「真理」の絶対性と罪責とに引き裂かれた終わりなき悪夢だった。また、そのかぎりで彼は括弧付きの(男)でしかありえず、絶望するほかなかった。男は「部屋」での逃亡生活がかりそめに過ぎなかったことを訴え、「辛かっただろう」と女を慰撫する。だが他方、女にとって事態はまったく逆なのだ。彼女は訴える。たしかに外の世界では常に周囲の目に怯え、来歴を嘘で塗り固め、偽の名前で他者と関係を築くことに心痛を禁じえなかった。また、男と普通の生活を送ることを切に願い、まっとうに就職して共に平凡だが幸福な家庭を築くことを夢想した。かくありえたかもしれない人生を。しかし、だからこそ「部屋」のなかでの男との生活だけが彼女にとって「ほんとう」だったのだ。ゆえに「抱き合って眠るときだけ、すべてを忘れて心から安らげた」。この女の静かな慟哭によって、男が囚われた「真理」の絶対性は完全に相対化される。また、それは彼女が自らを監禁する「部屋」を失うことを意味する。

たしかに女の平凡だがおそるべき「愛」は、男が囚われた「死」という「真理」のゆるがぬ絶対性を、彼に「食べること」を通じて「生かされているにすぎない」と認知させることで突き崩した。それは彼女が何の衒いもなく震災のカラーグラビアが掲載された雑誌を俎板代わりに使用したことからも明らかだ。だが、そのかぎりで彼女は男を「部屋」に幽閉し続け、自らを外の世界において「部屋」に監禁することになる。男に求められ「食べさせる」ことそれ自体が彼女の幸福なのだから。冒頭、電車のなかで女が眠りに誘われていたのはそのためだ。彼女にとって外の世界こそが悪夢なのだ。しかし、それは偽名で生き続けることを意味してしまう。互い胸のうちを披瀝し終えると、女はおもむろにベッドから降り、男を抱きとめる。だがこのとき、自他は截然と「分離」されている。

翌朝、開け放たれたカーテン越しに射す斜光のなか、女は男の肩越しに「あるもの」の顕現を認知するだろう。ここに至って、二人の過去を巡る「答え合わせ」は、かくありえたかもしれない未来が「こども」を介して想起されることで前向きに閉じられる。「答えあわせ」の答えはこうではないか。「真理」の絶対性それ自体は絶対的ではありえず、またそのかぎりでいかなる絶望もまた絶対ではない。異なる遠近法に生きる他者が存在する以上相対化されうる。「罪」とはこれを内部に保持しえず、喪失した状態にほかならない。「罰」は「罪」に対して与えられるのではないのだ。「部屋」から出ることを選択した男女にとって、それは互いの不在として強く意識される。

だが、「愛のゆくえ」はさらにその先の光景をへと漸進する。男が不在となった部屋に帰宅した女は、習慣的に眼鏡をはずしてコートを脱ぎ、しばし途方にくれて立ち尽くす。ややあって、彼女は男がずっと背にし続けていた書棚からスケッチブックを見つけだし、おもむろに頁を開いてなかを覗き、ふっと微苦笑する。聡明な作り手が決して直接的には見せることないその絵のなかで、女がどう描かれていたかを観客は既に知っている。そして、懸命にスケッチを試みる男の傍らに何が置かれていたかは、観客だけが知っている。これを「救済」と呼びうるか否かはわからない。おそらく主体に可能なのは、意識と存在の絶えざる葛藤に引き裂かれながら、自己自身であることの偶然を苦しむことができるだけなのだろう。それが期せずして、他者に偶然的に影響を及ぼしてしまうことがあるのかもしれない。そう感得した。『愛のゆくえ(仮)』は、こうした人間の業を小さな生活感情のなかに見つめる映画だ。これは容易いことではない。

ただ、以上の走り書きは筆者の独断的な妄想にすぎない。

(2012.12.17)

緊急トークイベント開催@ポレポレ東中野 12月21日(金)16:30の回上映後
森達也(映画監督・作家)×木村文洋(本作監督)
12月26日(水) 21:00の回上映後
上祐史浩(ひかりの輪 代表) × 木村文洋(本作監督)
愛のゆくえ(仮) 2012年/日本/カラー/HDV/16:9/86分
出演:前川麻子/寺十吾
プロデューサー:高橋和博 脚本:前川麻子/木村文洋 撮影:高橋和博 録音:丹下音響 助監督:遠藤晶 編集:上田茂
音楽制作:太陽肛門工房/丹下音響 宣伝美術:竹内幸生 宣伝協力:加瀬修一
監督:木村文洋
製作・配給:team judas2012
公式サイト 公式Facebook 公式twitter

2012年12月1日(土)より、ポレポレ東中野にて上映中
大阪、名古屋、京都にて公開決定

2012/12/18/19:13 | トラックバック (0)
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