木村 文洋(映画監督)
映画「へばの」について
佐藤洋笑による作品レビューはこちら。1月31日より
東京・ポレポレ東中野にて
レイトショー公開中
木村 文洋(映画監督/脚本)
1979年青森県生まれ。大学在学中より映画制作を開始、同時に京都国際学生映画祭運営に携わり、国内外の映画の上映を行う。2003年、『ラザロ-LAZARUS-』(井上紀州監督)の第一部「青ざめる馬」篇の企画を立ち上げ、スタッフとして参加。
2007年上京後、『ラザロ-LAZARUS-』上映スタッフとして活動する傍ら、初の長編監督作となる「へばの」の製作にかかる。
青森県六ヶ所村を舞台に、核燃料再処理工場での被曝事故によって、人生の岐路に立たされる男女の姿を描いた話題作『へばの』。木村文洋監督は、これが初めての劇場公開作品となる。東京上映の真っ最中で大忙しの木村監督にお話をうかがった。
――この作品の企画を思いつかれたのはいつ頃ですか?
木村 2006年ですから、ちょうど2年半くらいまえになります。
――僕が木村さんのお名前を初めて認識したのは、井土紀州監督の『ラザロ-LAZARUS-』ですが、大学在学中から自主映画を撮ってらしたんですよね?
木村 大学時代は映画サークルに入っていて、そこで2本くらい撮りましたね。並行して、京都国際学生映画祭のスタッフなんかもやってました。
――卒業後はシナリオを書いてらしたとか。
木村 大学を出て、24歳くらいから毎年1本書いていたんですが、それがなかなか形にならなかった。いま、映画をつくる理由がなかなか分からなかったんです。それがやっと、 「自分がいまどんな時代に生きているかを映し出すこと」じゃないか、と。それで自分にとってのテーマを調べたり考えたりしていたんですが、題材の紹介だけで終わってしまって、なかなか深まっていかない。だいいちシナリオの書き方すらロクにわかっていませんから。そんな感じで悶々としていた時期が3年くらいありました。
――ちなみに、どんな題材を書かれていたんですか?
木村 新興宗教、公務員の生活、個人と情報などについて考えていました。
――『へばの』は、2006年に青森県の六ヶ所村で起きた被曝事故がモティーフになっていますが、この事故が起きるまえから物語の発想はあったんですか?
木村 僕は大学は法学部だったんですが、入学したての頃、政治研究会の先輩にいろんなところに引っ張られていったことがありまして。昔の公害問題に関する本をいくつか読んだんです。そのなかの一冊に、嶋橋伸之さんという浜岡原発の被曝労働者で1991年に白血病で亡くなってしまった方の本があった。それがすごく頭に残っていて、原発の問題はもう終わったのかなあ、と思って調べていったら、六ヶ所村に再処理工場があることを知ったんです。
――木村さんは青森(弘前市)のお生まれですが、そうやって調べるまでは、六ヶ所村のことはほとんどご存知なかったということですか?
木村 小さい頃に親から、そういうものがきている、という話は聞いていたんですが、ほんとに記憶の片隅にある程度でした。25歳を過ぎたあたりから、自分のテーマとして、徐々に形を為していったという感じですね。自分の地元というよりは、いまのいろいろな若い人が、どうにしかしたい、と考えている問題である、ということが大きかった。
――なるほど。2006年に作品の構想を思いついて、それからは周りを説得する作業に入られたわけでしょう。反応はいかがでしたか?
木村 「こんな映画、やる必要あるのか」という反応がほとんどでした。
――六ヶ所村をとりあげた(ドキュメンタリー)映画としては、2006年に鎌仲ひとみ監督の『六ヶ所村ラプソディー』、2008年には是枝裕和監督の『大丈夫であるように』がありましたね。
木村 鎌仲さんの『六ヶ所村ラプソディー』を観ると、たとえばかつての「三里塚」のような一つの共同体を描くのではなく、個人に焦点を絞っていますよね。現在は、闘争の場所というのはどこかにあるのではなく、個人個人のなかにあるんだ、ということを強く感じた。そこから僕はどちらかといえばドキュメントという形で現状報告をするのではなく、フィクションという形で、自分たちがもしそういう状況に置かれたらどうするんだ、ということを考えてみたいと思ったんです。それが僕らなりの闘い方じゃないかなあ、と。
――企画の当初と完成した映画はかなり変わっているわけですか?
木村 変わってます。当初の草案では、もっとすごく長い話だったんですよ。で、周りにいる人たちに相談したら、みんなに「これは撮れないよ」と言われて。そこからシナリオを練り上げる段階で、プロデューサーの桑原(広考)と話し合い、全体をつくりなおしていったという感じですね。
――完成した映画では、最後のほうにすこしだけプルトニウム・テロの話が出てきますけど、ほとんど本筋には絡まずに終わってしまいますよね。それが逆に言い知れぬ不安感のようなものを増大させているわけですが。あれは当初の草案では、もうすこしボリュームが割かれていたんでしょうか?
木村 いや、全然。あれはやはり、青森でくすぶっていった何かがこっち(東京)に来るということを暗示して終わりたかったんで、シナリオをつくる最終段階で入れ込んだものですね。ただ、企画を考えているときから「東京の街を出したい」という気持ちは漠然とありました。
――この作品は、言ってみれば「出ていく者」の話ではなくて、「踏み留まる者」の話ですよね。主人公が突然いなくなって、「三年…経った」というナレーションが入り、そのあとはヒロインとその父親の話に重点が置かれていく。その描き方に、踏み留まりつづけることへの強い意志のようなものを感じたんですが。
木村 それはつまり、自分が生きていく場所を見つけた人間と、居場所を探し、移動しつづけている人間――どちらが強いんだろう、ということですよね。「私はここにいる」という言葉の「ここ」に当てはまる場所とはどこなのか。紀美(西山真来)の場合は、それが故郷の村だった。僕にとっては、いま自分が映画をつくっている場所であり、あらゆる人にそれぞれの「ここ」という場所があるんじゃないかと思います。
――僕(佐野)は東京生まれですけど、この作品を観ていると、青森という地方――という言い方は好きではありませんが――に生きる者のメンタリティというのは、なにか計り知れないものがあるな、と思う瞬間がある。もちろんいま木村さんが言われた「ここ」という場所が僕にとって東京である以上、それがただの言い訳にすぎないことはわかっているつもりですが……。木村さんは、青森という故郷を舞台にすることについて、なにか特別な思いはあったんでしょうか?
木村 いや、正直言うと、あまりこだわりはないんですよ。ただ、青森は僕の生まれた場所なので、風景はどうしたって記憶に残っている。今回の映画でいえば、鉛色の空、あれは意識的にたくさん撮ろうとしていました。
――この映画は非常に肉体性が豊かですね。冒頭、蔵の中で主人公の二人が裸でうずくまっているシーンから始まる。そのあと、治(吉岡睦雄)がいなくなるまえのシーンで、二人が廃屋で体を寄せ合うシーンがあり、車内でのセックスシーンがクライマックスにくる。つまり二人の関係性が変わる変わらないか、そのときの肉体の呼応をきちんと画にしているな、と。いまの日本映画は、台詞や状況を匂わせることでそういう感情を描こうとしている作品が多い――それはそれできっちりできている場合もありますけれど――と思うのですが、そういった意味でも稀有な作品ではないでしょうか。
木村 そのように言っていただけると、とてもうれしいです。自分が映画を撮るにあたって、身体を撮る、体温まできっちり撮りたい、というのは重要なテーマでした。ジャック・ドワイヨンの映画や熊切和嘉監督の『アンテナ』の身体表現に触発されたところもあります。それから、影響を受けたとまでは言えないけれど、相米慎二監督の『魚影の群れ』のシナリオ(脚本は田中陽造)は自分でシナリオを書いているときに何度も読み返しましたね。あれも父親と娘と婿の話ですし。
――相米さんとは意味合いが異なりますが、長回しも非常に効果的でした。
木村 長回し……多いですよね。今後はもっとカットを割っていこうかなと思ってますけど。
――これはほんとに僕の勝手な感想なんですが、この作品はピンク映画になるなと思ったんですよ。逆説的な発想でもあるんだけど、いまの日本映画でこういう男と女の哀しさのようなものを表現しようとすると、これはもうピンク映画でしかできない。
木村 非常に大雑把な分け方をすると、いま日本映画で男と女を描こうとすると、いまおっしゃったように肉体性を前面に出して描くか、それとも表現主義で省略を重ねながら描くか、という2つの方法があると思うんです。自分が映画を撮るなら、きちんと肉体を重視して撮りたい、そういう欲求はありました。
――俳優もそうした要求にじつに適確に応えていたと思います。この西山真来さんという女優は、劇団の方ですか?
木村 京都で舞台・映像を中心に活動している女優さんです。2006年に僕は、大阪Planet+1で行なわれた「シネトライブ・ワークショップ」の運営スタッフをしていて、そこで出会ったんです。西山さんはとにかく顔がよくて、そして本当に映画のなかでもよく顔が変わるんですけど……。ただお互いこちらも向こうも、長年の演出・演技技術があってやっているわけじゃないから、こちらとしてもどれだけそのままの彼女を崩さないように撮るかというのが課題でした。
――あと非常に印象的だったのは、安全地帯の「恋の予感」の使い方です。劇中ではラジオから流れたり、紀美が自転車に乗りながら口ずさんだり、後半では丸々ワンコーラス流れますよね。「恋の予感」を使われたのはどうして?
木村 人の記憶を呼び覚ますもの、という意味合いで、歌謡曲を使いたいなとは早い段階から思っていたんですよ。それでテレサ・テンとかいくつか考えたんですが、ある日の撮影中に、プロデューサーの桑原がふと安全地帯の「恋の予感」をかけて、風景に合うねと。僕自身は、見慣れた風景だし、あまりピンとは来なかったんですが…。ただ、じつは僕が小さい頃、母親がこの曲を好きでよく聴いていた、ということもあって、僕自身の頭のなかに残っていたものを呼びさまされたという感じもあります。それで事後的なことですが、この曲が発表された1984年が、あの核燃料再処理工場の建設が始まりだした、という偶然もあって……、あの時期だったのか、と。
――そうでしたか。今日は上映直後のお忙しいなか、お時間をつくっていただいて、ありがとうございました。今後の各地での上映、それから次回作、応援しています。
木村 どうもありがとうございます。
(2009.2.12 東中野にて)
取材/文:佐野 亨
監督・脚本:木村文洋 出演:西山真来、長谷川等、工藤佳子、吉岡睦雄
カラー/DVCAM/81分
佐藤洋笑による作品レビューはこちら。
2009年1月31日より東京・ポレポレ東中野にてレイトショー公開
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