ポーランドの巨匠クシシュトフ・キェシロフスキが、 惜しまれつつ世を去ってから今年で丁度十年になる。それに合わせたのか単なる偶然か、後に残された「天国」「地獄」「煉獄」 三部作の遺稿の一つが現在公開されている。キェシロフスキの遺稿が映画化されるのは、トム・ティクヴァの「ヘヴン」 ('02)に続いて二本目。今回は「地獄」を元に「ノー・マンズ・ランド」('02)のダニス・タノヴィッチが、エマニュエル・ ベアール、カリン・ヴィアール、マリー・ジラン、キャロル・ブーケというフランス映画界が誇る4人のミューズを結集させて、 今は亡き巨匠に挑んでいる。
本作が描くのは三姉妹とその母親の物語だが、個々の物語は至ってシンプルである。 夫の浮気に悩む長女(エマニュエル・ベアール)、老母(キャロル・ブーケ)の世話を一身に担う孤独な次女(カリン・ヴィアール)、 そして自分の父ほど年の離れた大学教授との不倫関係が破綻しそうな三女(マリー・ジラン)の姿が同時に綴られていく。 このある種ありふれた物語に22年前に死んだ父親の死の真相を絡ませることで、 物語の緩急を自在に操りながら観る者を飽きさせないタノヴィッチ監督の手腕は鮮やかだ。
彼女達の抱える問題が過去のある出来事を遠因にしているという本作の構図は、「トラウマ」
という言葉の定着と共に、とりたてて珍しいものではなくなった感がある。近いところでは、
性格が正反対の姉妹の葛藤と再生を描いた「イン・ハー・シューズ」('05)もそうした構図の物語だったし、
「トラウマからの脱却」を描いた物語はそれこそ数え切れないほど再生産され続けているように思う。
だからなのか、本作はそうした「トラウマ」という要素に目配せしながらも、「トラウマからの脱却」
という形に物語を収斂させることを注意深く拒んでいるようなところがある。と言うのも、トラウマを扱った物語では常道とも言える
「トラウマとの対峙」やそれによってもたらされる「気づき」が、本作ではすっぽりと抜け落ちているのだ。
父親の死が彼女達の人生と精神にどれほどの影響を及ぼしたか、或いは現在の問題とどのように結びついているのか、
といった父親との関係性を謎解きのように描く代わりに、
本作では各人が現在直面している問題と彼女達が陥っている状況を執拗に描き出すのである。
嫉妬に狂って常軌を逸していくエマニュエル・ベアール、孤独に沈むだけのカリン・ヴィアール、
不倫相手に執着せずにはいられないマリー・ジラン、そして夫に対する怒りを消せないままのキャロル・ブーケ――
その四者四様の佇まいは、地獄の業火に焼かれる者そのものと言うほかなく、それを体現してみせる四女優の姿は圧倒的だ。
この般若と化した女達に、
真実を知ることでトラウマから脱却するというようなありがちな行動を取らせなかったのは成功と言えるだろう。
そうした展開を見せていたなら、本作は却って物語の虚構性を露わにしてしまったに違いない。
その点、真実を知りはしても、各人の抱える現実的な諸問題が解決されるどころか山積みのまま突き放される本作の展開は、
感動とは程遠いかもしれないが、生々しいだけでなくどうしようもなくリアルだ。否、実を言えば、
姉妹達が真実を知る場面は直接描かれないだけで、
その後の三人の穏やかな表情からは彼女達がそれによって再生への一歩を既に踏み出しているのが伝わってくる。
そこで終われば或いは多少なりとも「感動作」として幕を降ろすことが出来たかもしれないが、タノヴィッチ監督はキャロル・
ブーケが最後に示す一言によって、全てを暗転させてしまうのである。「地獄」が何に由来し、いかなる状態であるかを端的に物語るその一言は、
一見とりとめがないように見えた冒頭シーンが、実は作品そのものの解題となっていたことをも同時に浮き上がらせて、
人間存在の卑小さを冷然と我々に突き付ける。癒しといったものとは無縁だが、本作の幕切れは安っぽい「感動作」とは一線を画した、
ズシリと重い余韻を深々と残すことだろう。
(2006.4.10)
主なキャスト / スタッフ
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