レビュー

なにもこわいことはない

( 2013 / 日本 / 斎藤久志 )
あたらしい愛のかたち

鈴木 並木

『なにもこわいことはない』 『なにもこわいことはない』場面1 『なにもこわいことはない』場面2なにもあたらしいものはない。まずそう思う。長回しを基調にして丁寧に切り取られた夫婦の日常のあれこれも、そこに立つささやかな波風も、ごくありふれた物事ばかりに見える。それでもなお、まだ画面が暗いうちに携帯の目覚ましが鳴り響いて一日が始まる最初のカットから、目を離せないほどの力がみなぎっていて、身じろぎするのもためらわれる。

珍しいものはなにも映っていない。朝の寝室、裸のままで男と女が眠っている。アラームで目を覚ました男は服を着て室外へと消える。女はしばらくしていったん上体を起こし、携帯をちらっと確認してまたベッドに戻る。窓の外からは遠く電車の音、近くの鳥の声も響いてくる。続く朝食の場面。先に起き出していた男が、キッチンでコーヒーを淹れている。女はそれをおいしそうに飲む。スクリーンのこちら側にも薫りが届いてくる。男は焼き上がったトーストにレタスとハムを乗せ、そこにマヨネーズをかけ、ふたつに折る。するとめりめりっと音がするのが聞こえる。

見慣れぬもの、聞いたことのない音はここにはひとつもない。かといって、あるある、わかるわかる、の手っ取り早い共感もない。そのかわり、そうそう、わたしたちも普段、こうしたものを見聞きし、こういうふうに毎日をうすのろく生活しているんだった、とイチから全部、半強制的に気付き直させてくれる。それがこんなにもこわいことだなんて、思いもよらなかった。

おそらく30代、いっしょに暮らすふたりに子供はいない。つくらないことに決めたのだ、と女は自分の母に言う。生まれてくる誰かの父と母になるのではなく、お互いの夫として妻として生きるのだ、と。

とは言っても、お互いの生活は平等には描かれてはいない。女はミニシアターで働いている。チラシを折り込み、パソコンに向かい、机でささやかな弁当を広げ、愚痴を聞き、労働のあとに仲間とともに酒を飲み、家では宮沢賢治を音読する。激することも、記号化されることもなく日々を生きる、ひとつの崇高な立体としての女がそこに立ち上がる。

男は堅実な勤めに出ているようだが、どこでなにをしているのかは具体的には示されない。その内面はすぐにはあきらかにならない。夜のベッドで、女は人間関係の小さな悩みを訴える。それに対して男は、まるで他人事みたいに言葉を返す。ちょっと空っぽで、とても優しい。その優しさが、わたしたちを安心させる。

男と女の過去は描かれない。ふたりは結婚式を挙げたのか、それはわからない。男は買ってきたスイカに包丁を入れる。丸ごとの形が半分に、また半分に、それからさらに小さく切り分けられていく。ふたりはスイカにかぶりつく。おそらくふたりはウェディング・ケーキにナイフを入れたことはなかっただろう、とわたしたちはここで確信する。でもそのことは、いまここでの生活や幸不幸とはなんの関係もない。そしてふたりが真っ赤にスイカを食べる様子に、男と女の現在はたしかにとらえられている。

『なにもこわいことはない』場面3 『なにもこわいことはない』場面4 『なにもこわいことはない』場面5映画であるから、平穏は永久には続かない。まず女の同僚のひとりに、あるできごとが不意に起きる。ここで、同僚に向けられる言葉と、その発せられかたを、聞き逃してはいけない。その事件と関係はあるのかないのか知らされぬまま、女の中ではひとつの秘密がふくらんでゆく。ふとした拍子に、男はそれを知る。買い物に出た男は、道の真ん中の部分が階段になった坂道をぽつねんと下っていく。ここでほぼ初めて、男は画面を占領する。

男はそのまま、夜になるまで戻ってこない。帰宅した男は、「なんで言ってくれなかったの?」と女に詰め寄る。ぶつけたからといってどうにもならない言葉を、それでも口にするときの、痛いほどの切実さとどうしようもない無力さとが、一体になっている。そんなセリフ、そんな発声。

もしかしたら、二度と元には戻れないかもしれない。それでも、ふさがらない傷口はない。癒えない痛みはない。広々とした公園に犬を連れ出して、ふたりと一匹が家族のようにボールと戯れること。プランターで植物を育てること。ベランダに立つ男の脇に、静かに女が佇むこと。そうしたことの小さな積み重ねによって、男と女は少しずつ回復していく。ずっと男と女の現在を見つめ続けたカメラは、最後の最後に至って、ついに一歩前進して、ふたりの未来を静かに指し示す。映画において、カメラはこんなにもつつましやかに仕事をすることができる。

奇をてらう必要はない。全員が的確なやりかたで目の前をきちんと見つめ、足元の地面をしっかと踏みしめれば、映画は不意に、そして決定的にあたらしくなれる。『なにもこわいことはない』はそう教えてくれるし、あたらしい視点と言葉とで生活を語り直し、生き直すことを、わたしたちに願っているのだとも思う。

ただし言うまでもなく、誰もが同じようにこの映画を見るわけではない。だから安心して、わたしが試写室で遭遇した出来事について最後に書いておく。ファースト・ショット、男がフレームから出ていってから少しして、画面の隅に、まったく予想もしない方向から、人間の頭が現れた。数秒後、それは遅れて試写室に入ってきた誰かの影だと気付いたのだけど、わたしの心臓はほとんど止まりかかっていた。なにが起きているわけでもない冒頭のほんの数分で、そこまで引き込まれている自分に驚いた。そのときまだ、なにもかもが始まったばかりだったのに。

(2013.10.19)

なにもこわいことはない 2013年|日本|110分|HD|ステレオ
出演:高尾祥子,吉岡睦雄,
岡部尚,山田キヌヲ,谷川昭一朗,柏原寛司,角替和枝,森岡龍,猫田直,鈴木元,長田青海,大島まり菜,柄本明
製作・監督:斎藤久志 脚本:加瀬仁美 撮影:石井勲 照明:大坂章夫 録音:小川武
衣装:江頭三絵,田口慧 ヘアメイク:宮本真奈美 助監督:田山雅也,石井晋一,古畑耕平
音楽:小川洋 編集:鹿子木直美 協力プロデューサー:小林勝彦 鈴木ゆたか 制作アシスタント:明里麻美
協力:柄本佳子,日本映画学校.APEXⅡ イマジカ アンフィニー サンズ スタンス 制作協力:ノックアウト リクリ
公式

2013年11月16日(土)よりユーロスペースにてレイトショー公開
12月14日(土)より新宿K’s cinemaにて公開、他順次公開!

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  • 監督:斎藤久志
  • 出演:ともさと衣, 川瀬陽太
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  • おすすめ度:おすすめ度2.0
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2013/10/23/14:01 | トラックバック (0)
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