漫画『北斗の拳』のクライマックスの1つ、かつもっとも人気のある章の1つに「対ラオウ編」がある。
この章では、主人公ケンシロウ以外にも、「打倒ラオウ」の志同じくする「南斗六星」の拳士たちが続々と登場する。
その南斗六星には、「海のリハク」なる長老格の人物がいる。
彼はある意味、劇中のナレーター的存在でもあり、その時々で起こっている出来事を、遠くにいながらして察知する役割を担っている。
たとえば、気まぐれな男「雲のジュウザ」が、いよいよ打倒ラオウに動きだすと、「雲が動いた」。
山のフドウがラオウに戦いを挑むと「山が動いた」
ラオウがケンシロウとの闘いに敗れれば「巨星堕つ」。
リハクは気象予報士よろしく、遠くの空を見つめながら拳士たちの身辺状況を察知するのだ。
「なんと荒唐無稽な。お前は気象予報士を兼ねた占い師か?」
そう感じた方も多かろう。
私もその一人だった。
しかし、これはストーリーを効果的に語るうえでの、もっともオーソドックス、かつ伝統的な手法でもあるのだ。
登場人物の心象風景、あるいは身の回りの出来事と天候をリンクさせて物語ることは、たとえば、靴の紐が切れることが何かイヤなことの前兆として描かれることと同じぐらいによく使われ、かつ典型的な手法でもある。
良いことがあれば虹が出る。
天啓を受けたときは雷が落ちる。
このような一見荒唐無稽な天候との結びつけは、受け手には意外とシックリとくる手法でもあり、物語中の出来事に深い彩りと輪郭を与える効果がある。
『北斗の拳」においてのリハクの描写は、いたってマンガチックではあるが(だってマンガですから)、ストーリーテリングにおいては、きわめてオーソドックスな手法に則っていると言えよう。
『奈緒子』の原作コミックもこの手法がふんだんに盛り込まれている。
主人公の奈緒子と雄介を結びつける物理的な接触要素はじつはそれほど多くない。
駅伝選手と、それを見守る者との関係だからだ。
雄介は走る。奈緒子は走らない。
走ることで移動を続ける雄介と、一箇所にとどまり雄介を案じる奈緒子。
この二人が物理的に接触する時間は、特に試合中においては一瞬でしかない。
奈緒子は応援者であり傍観者。たとえ(原作では)陸上の選手とはいえ、試合中に、いちいち雄介の走る姿を追いかけて応援するわけにはいかない(映画では追いかけるが)。
だから、二人をつなげる要素は、
気象、
ということになる。
空。天気。風。
これら自然現象が奈緒子と雄介をつなぐ重要な手段となる。
私は『奈緒子』の原作は、『スピリッツ』誌上でリアルタイムに追いかけていた。
1週間単位で読んでいたこともあり、当然、長編の話も細切れ状態で接することになる。ゆえに、話の展開が遅く感じ、多少じれったく感じたものだ。
奈緒子の「少し風が強くなってきました」といった独白で締めくくられることが多く、「また“お天気お姉さん”かよ」と少々辟易したこともあった。
奈緒子は空を見て、あるいは風を感じて、別の場所で走る、あるいはタスキを待つ雄介に思いを馳せ、雄介は、幼いころの亡き父親との思い出に浸る。
雄介の内面や、試合の模様が天候となり奈緒子に伝わる。
この空と天候を用いた描写こそが『奈緒子』のストーリーを進行させるうえでの重要な要素となっているのだ。
この、少し青臭い文学チックな描写が、コミック『奈緒子』の通奏低音となり独特の佇まいを作品にもたらしていた。この要素が除外されてしまえば、それは単なる駅伝スポーツ漫画になってしまっていたことだろう。
逆にいえば、この奈緒子と雄介をつなぐ天候の要素があるからこそ、『奈緒子』という作品は好き嫌いがあるにせよ、単なるスポーツ漫画に終わらない、独特の雰囲気をたたえた作品となっていた。
しかし、それを映画で描くとどうなるのか?
私の興味はそこに集中した。
つまり、二人の登場人物(奈緒子と雄介)の思いのほか少ない接点を、映像ではどう描くのか?
まさか、奈緒子の独白だらけのポエム・ライクな内容にするわけにもいくまい(もちろんそのような切り口はアリだが)。
いや、その手もないわけではないが、せっかくの映画というメディア。やはり製作者としては、汗の飛び散る駅伝の要素、フィジカルな要素も活写したいというのも当然の欲望。
しかし、そちらばかりに偏ってしまうと?
単なる駅伝ムーヴィに終わってしまう可能性が高く、なにより奈緒子が存在する意味がボヤけてしまう。
では、監督の古厩智之はどうしたか?
バッサリと「天候による心象風景」の描写を放棄した。
いや、バッサリ切り捨ててしまったのかな?
とにかく、通常の駅伝よりもきわめて速い巡航速度で爆走する駅伝の模様を活写することに力点を置いた。
つまり、映画版の『奈緒子』は、正しく駅伝ムーヴィといえば、そのとおりな映画。
しかし、駅伝の描写ばかりに比重を割いてしまえば、肝心な主人公・奈緒子の存在理由が薄れてしまう。
さらに、先述したとおり、奈緒子と雄介との接点がボヤけてしまう。
だから、どうしたか。
駅伝に新しいルールを作った。
「給水」というルールを作った。
通常、高校駅伝では給水ポイントを置くことはほとんどない。
「全国高等学校駅伝競走大会」では、過去に1度も給水ポイントを設置したことはないという。
しかし、それを承知で、あえて「給水」というルールを設けたことによって、劇中、きわめて重要な「走る雄介・水を渡す奈緒子」という試合中における2人の接触シーンを作り出している。
実際の駅伝の慣習を破ってまで、「給水」という物理的接触の場を設けたことによって、雄介の奈緒子に抱く「父が死んだのはお前のせいだ」「自分はお前のことを許していない」という気持ちを、水を受け取ることを拒否することによって示すことが出来た。
これはこれで、映画ならでの語り口ではあるので、私は、原作とは違うじゃんとか、ルールにないじゃん、なんて野暮なことは言わない。
そして、2人のぎこちない交流を上手く映画ならではの処理をほどこしたな、と思わせるのが、合宿初日のゴミ捨て場のシーンだ。
複雑な関係の二人をつなぐ媒介者としての西浦監督(笑福亭鶴瓶)が「二人の止まっていた時間を動かす」ために、奈緒子を駅伝の合宿に参加させる。
合宿初日にゴミ捨て場で雄介と奈緒子が鉢合わせするが、この長回しのシーンこそが、心に微妙なモヤモヤを抱えながらも、それをうまく表現できない2人の気持ちを描いた秀逸なシーンといえる。
監督は、『まぶだち』の冒頭のシーンのようなイメージで撮りたいと上野樹里にディレクションしたという。
とりとめもないシーンではあるが、私はこのシーンが一番好きだ。ちょっと気まずく、微妙な空気と間が交錯する風景は、まるで自分が高校生に戻ったかのような錯覚に陥る。
給水、合宿、ゴミ捨て場。
気象での描写を排し、かわりに上記3つの要素を描くことによって、奈緒子と雄介の関係を映画というフォーマットで書き変えようという試みは非常によく分かるし、監督なりに漫画での雄介・奈緒子の関係を映画ならではの映像表現で再構築しようという意気込みは伝わってくる。
でもねー、やっぱり奈緒子と雄介の心の関わりのようなものを、映像に落とし込むことは難しいのかなぁ、どうしても、『奈緒子』というよりは『雄介』というタイトルにしたほうがいいんじゃない? な、汗飛び散り、手に汗握る駅伝スポーツムーヴィになっちゃっているんだよね。どうしても、奈緒子の比重が軽い。
ま、それはそれでいいんだけどね。
試合は、それはそれで手に汗握る瞬間もあるし、優勝して「やったー!」なところは、スポ根的文脈においては、正しく「涙・涙!」だし(努力→勝利!)。
原作のテイストを離れ、純粋なる駅伝スポーツさわやかムーヴィとしてはそれなりに観れ
る内容なんじゃないかな。
監督の目指すところも、おそらくは、そちらの方向にあると思われるし。
中学や高校の映画学級(まだあるのか?)では、先生がたも安心してセレクト出来る内容ではあります。
しかし、原作のテイスト、すなわち、文学チックな天候・気象を用いた奈緒子と雄介のつながりの要素は皆無になってしまっていることは賛否両論分かれるところだろう。
上野樹里の存在は、空しく傍観者として空回りしているキライのあるこの作品、さてあなたは、原作に則った文学的文脈で観る? それとも、換骨奪胎の体育会的文脈で観る?(2008.2.15)
監督:古厩智之 脚本:林民夫,古厩智之,長尾洋平
出演:上野樹里,三浦春馬,笑福亭鶴瓶,宮崎親,佐津川愛美,柄本時生,綾野剛,宮川一人,タモト清嵐,
結城洋平,五十嵐山人,佐藤タケシ,兼子舜,光石研,山下容莉枝,嶋尾康史,奥貫薫,藤本七海,境大輝
(C)2008坂田信弘・中原裕/「奈緒子」製作委員会
2008年2月16日(土)シネ・リーブル池袋、
渋谷アミューズCQN、シネマート新宿ほか全国ロードショー
奈緒子映画セレクト 1
新装版 (1)
著者:坂田 信弘 中原 裕
出版社:小学館
出版日:2007-11
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上野樹里PHOTO BOOK
「A PIACERE」
出版社:ワニブックス
出版日:2006-12-05
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主なキャスト / スタッフ
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