おそらくイメルダ・マルコス元大統領夫人がこの映画に出演し、インタビューを受けたのは、過去の行いの弁明をするためだったのだろう。「3000足の靴が注目されたのは、私にはほかに見られて困るようなものがなかったからよ」「心にやましいことはない」「私たちの周りには悪人がいて、それで物事がいつも複雑なことになってしまう」まあ、よくべらべらとしゃべるものだ。監督のラモーラ・ディアスの興味は、社会派ドキュメンタリーを目指すというよりは、イメルダ夫人の人間性に向かっている。人に向かっているからこそ、彼女の虚栄心をくすぐらせ気を許すことに成功したのではないかと思う。ドキュメンタリーとしては、意外とオーソドックスな作りだ。少女時代のイメルダから始まって現在まで、貴重な写真や当時のニュース映画で辿り、途中関係者の証言を挿入しつつ、彼女に自分の人生を語らせる。しかし、イメルダがどうして「マルコス大統領夫人イメルダ」になったのか……その人間性の部分が画面から滲みだしてくるところが、この映画の秀逸なところだ。
イメルダは、学生時代よりその美貌と才能から周りに持てはやされていた。マッカーサー上陸の際には、同行していたアービング・バーリンの前で彼の曲を歌ったという。自分は特別だという思いを抱くことは無理からぬことであろう。唯一自分の思い通りにならなかったことは、ミス・マニラコンテストで落選してしまったことである。しかし、彼女はそれに納得せず、市長に抗議に行き、結果ミス・マニラ以上の称号を得る。彼女の異常なまでの虚栄心がすでにこのとき芽生えていたことが感じられる。また、この出来事を新聞で見たマルコスは、このとき彼女に魅了され、妻にしたいと願うようになるのである。人生にはあの時こうしなければというようなことがあるが、もしイメルダがこんな行動に出ていなければ人気歌手になるなど、別の方法で自分自身の虚栄心を満たすことになっていただろう。それなら少なくとも大きな罪にはなりえなかったはずだ。歴史の皮肉をここに感じる。
1986年の「人民革命」でマルコス大統領が失脚、マラカニアン宮殿を追われていく様子は、当時私自身テレビのニュースを見ていてよく覚えている。黄色いティーシャツを着て選挙運動をしていたアキノ夫人一家の爽やかさと比較し、不正選挙をしてまで権力に固執していたマルコス大統領とイメルダ夫人の最後の姿は醜悪そのものだった。いや、醜悪を通り越して滑稽でさえあった。宮殿の中に群衆が押し入り、机やいす絵画や置物を手当たり次第にぶち壊し、溜まったうっぷんをはらす様子が連日テレビに映し出されたものだ。そんな記憶しかない私にとって、マルコス大統領夫妻の就任前後のフィルムは大きな驚きだった。1565年スペインによる植民地化以来、アメリカによる統治、日本による統治と独立を果たせず苦しみ続けたフィリピン。第二次大戦後ようやく独立を果たしたものの、アメリカとは相変わらず対等の関係にはなかった自国が、彼らの登場で初めて変わった……大統領夫妻のアメリカ訪問は、そんなことを感じさせる堂々たるものだったのだ。白いドレスに身を包んだイメルダ夫人も確かに若くて美しい。当初ふたりがケネディ大統領夫妻と並べられたというのも理解できる。フィリピンを一流国にしたいという彼らの理想は間違いではないし、国民にはそれがさぞ魅力的に映ったであろうと想像させられる。その甘美な記憶がフィリピンという国全体の道を誤らせたのかもしれない。
イメルダは、この映画の完成後「真実を語ったのに、悪意に解釈されたわ」と上映中止を訴えたという。自分の虚栄心を満たすため、自分の中の正義を人に伝えるため、おそらく精一杯自身を魅力的に見せようと努力していたに違いない。しかしながら、映像というものは怖いものである。彼女の言動、行動のそこかしこに彼女自身の内面がきっちりと映し出されている。作り手の意図の部分を除いてもだ。
例えば神父を訪問したイメルダは自分自身のことを4時間も話しつづけ、途中休憩している時には、自分のビデオを観ていたという証言がある。実際映画の中でも自分のビデオをご機嫌で眺めているシーンが何回も挿入されている。人はこんなにもナルシストになれるものなのだろうかと妙なところに感心してしまうくらいに……。さらに言えば、イメルダがインタビューの途中、鏡を見るシーンが何度も出てくるのも自己愛の強さの表出に他ならない。
「私は汚いものが大嫌いなの。美こそ善よ。だから私は汚いものが部屋に転がっていたりすると、そこを避けて通るの」何気ないこのひとことにも重大な意味が隠されている。まだ若く政権もそんなに腐敗してはいなかった頃、イメルダは貧しい人々を勇気づけるには、フィリピンの文化を向上させなくてはならないと考えた。そこで現地を視察した彼女が「あそこの家は汚いわねぇ。あそこは取り壊してちょうだい」とゴミでもどかすかのように、お付きのものたちに指で指図しているシーンがある。「私は人生において美しいものと良いものしか目に入らないの」の言葉どおり、彼女の頭の中にはそこでの暮らしというものが、見事に抜け落ちてしまっている。彼ら貧しい人たちの家をなんとかしようというのではなくて、街を美しくすれば世の中がよくなるという思い込みは、後に語る「自分が美しく着飾れば、貧しい人たちのお手本になる、彼らも自分が頑張ろうという気になる」という考え方と見事に符合している。こんなことを本気で思うのも、異常なまでの自己愛と、見たくない現実を見ていないというところからきているのだろう。
それにしても、彼女がひそかにスイスの隠し口座に公金を送ったり、ニューヨークの不動産を買いあさったり、私腹を肥やし続けていたことは事実である。国家から奪った不正蓄財は800億を超えると言われている。そんなことをしておいて、「美」=「愛」それに忠実であることのどこがいけないのと言い切れるほどの自信は一体どこからきているのだろうか。見たくないものを見ていないということだけでは割り切れない気がする。
イメルダのドレスを作り続けていたメーカーの社長は「当時彼らの何がひどいのかよくわからなかった」という。彼にとっては彼らが大統領でいる限りは、お金がどんどん入ってくるからだ。自分に利益がある限り、彼らがマルコス支持者になるのはありうることだ。また、彼女が車に乗って出かければ、まるでハリウッド・スターでも現れたかのようにそこに群がる人たちがいる。イメルダから直接もらったサイン付きの写真を額にいれ、後生大切にしている人がいる。彼女の周りに群がり一緒に写真に写りたがる人たちもいる。あるいは、「アメリカのせいでマラカニアン宮殿を追い出された」と信じている彼女の子供たち。自分の首大切さに、彼女が何を言いだしても、いかにも素晴らしいことのように褒めたたえることしかしなかった側近たち。これらの人々がイメルダを作り上げていったのではなかろうか。
亡命先のハワイからフィリピンに帰国したイメルダを大衆は熱狂的に向い入れた。そしてまた、彼女の子供たちが選挙に当選した。自分のやっていたことは間違っていない。私は自分を犠牲にして貧しい人たちを助けたのだ。美のために少しくらいお金を着服したって、そのくらい当然の報酬だ。いやそれどころか「美しくあることは国民への使命」なのだから「私にやましいことはひとつもない」指の隙間から見たくない現実が見事にこぼれおちていき、甘美な群衆の熱狂だけが心に残る。こうして彼女の中で奇妙な哲学ができあがっていったのではなかろうか。映画の中で奇妙な方程式を描きながら、この世の哲学のようなものを永遠しゃべり続けるシーンがあるのだが、常人にはまったく理解できない世界である。
自己愛、虚栄心が人一倍強い女性がモンスターになるまで、そこには周りの人間たち、フィリピンの国民自身が関与していることは間違いない。それゆえ、映画のラストは、選挙に出た子どもたちと、それに熱狂する国民たち、それを満足そうに見つめるイメルダで終わる。監督がフィリピン系アメリカ人だったからこそ、またなぜ彼女がこのような人間になったかという人間探求の姿勢があったからこそ、導き出された結論だろう。それにしてもイメルダはすでに80歳というのだが、とてもそんな年には見えない元気さである。悪事をし、失脚したかつての為政者が自分自身について語るということ自体が、ある意味珍しい。そういう意味でこの映画は、どこにでも現れうる横暴な為政者たちの貴重なサンプルにもなっている。
(2009.10.12)
イメルダ 2004 フィリピン・アメリカ
監督:ラモーナ・ディアス 撮影:フェルネ・パールステイン 編集:リア・マリノ 音楽:グレース・ノノ&ボブ・アベス
出演:イメルダ・マルコス,レティー・ロクシン,ロレート・ラモス,コンラッド・デ・キロス,キャサリン・エリソン,フェルディナンド・ボンボン・マルコス・ジュニア,バーニス・オカンポ 他
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2009年9月12日より、全国ロードショー中
主なキャスト / スタッフ
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