井土 紀州(映画監督)
映画『行旅死亡人』について
11月7日(土)より、シネマート新宿にてロードショー
「行旅死亡人」公開記念オールナイト
-井土紀州監督作品集-
11月14日(土)23:30~ シネマート新宿
「行旅死亡人」レビュー:「のけぞる映画」 / 佐野 亨
日本ジャーナリスト専門学校が初めて製作・配給を手がける映画『行旅死亡人』。同校で講師をつとめる井土紀州監督による本作は、傑作『ラザロ-LAZARUS-』につづいて、エンタテインメント映画の本質を追求した驚くべき作品に仕上がっている。さらなる新作も待機中という井土監督にお話をうかがった。 (取材/文:佐野 亨)
1968年三重県出身。94年よりピンク映画を出発点としてシナリオを書き始める。その一方で、映画製作集団スピリチュアル・ムービーズを結成し、自主製作映画をつくりつづけている。おもな脚本作品に『雷魚』(97)『MOON CHILD』(03)『刺青』(07/以上、瀬々敬久監督)『YUMENO ユメノ』(05/鎌田義孝監督)『ニセ札』(09/木村祐一監督)など。監督作品に『第一アパート』(92)『百年の絶唱』(98)『ヴェンダースの友人』(00)『LEFT ALONE』(05)『ラザロ-LAZARUS-』三部作(07)などがある
――日本ジャーナリスト専門学校(以下、ジャナ専)で映画をつくることになったきっかけを教えてください。
井土 僕は2003年からジャナ専で教えているんですが、放送科主任の沼口直人さんが「せっかく井土さんが来ているんだから、ジャナ専で映画を一本つくれないか」という話を飲みの席で言いだしたんです。2006年の暮れのことでした。最初は酒の上の話だと思って本気にしていなかったんですが、結構しぶとくおっしゃるので(笑)、上野昂志さんや僕も「これは本当につくったら、面白いかもしれないなあ」と思い始め、2007年に入ってから本格的に動きだしました。
――井土さんは、ジャナ専ではシナリオ指導をされているんですか?
井土 そうです。ジャナ専は映像の学校ではなくて、文字通りジャーナリストを育成するための学校ですから、出版系がメインなんですよ。そのなかに小さく放送科という学科があるにすぎない。僕はそこでフィクションを通じたドラマの構築、シナリオを書いたり、あるいはそのシナリオをもとにデジタルビデオで映像作品をつくったり、といったことを学生と一緒にやっています。
――『行旅死亡人』にも、ジャナ専の学生がスタッフとして参加しているわけですね。
井土 ええ。おもに美術や装飾などの準備パート、演出面では劇中の雑誌や記事づくりなどで活躍してくれました。あるいは制作的な仕事でも、はじめは指示を受けないとわからなかったのが、だんだん自分で考えて動くようになってくれて頼もしかった。 『ラザロ-LAZARUS-』のときも、京大や日大の学生が中心になって撮影をしましたが、あそこで培われたチームがその後、インディペンデントで映画製作をつづけていくうえでのチームになっている。そういうふうに育っていく若者の姿を見るのは励みになりますね。
――本作はミステリー映画と言っていいと思いますが、たしか『ラザロ-LAZARUS-』の上映が始まった頃に、「つぎは真相究明の映画をつくりたい」というようなことをおっしゃっていましたね。
井土 ええ。特にこれという題材があったわけではないのですが、作劇の形式として真相究明の物語をやりたいという思いはありました。『ラザロ-LAZARUS-』でいえば、2本目の「複製の廃墟」がそのフォーマットに近い。これはむずかしいけれど面白いんですよ。だから、もう一回チャレンジしたいという気持ちが強かった。そこに今回の企画が持ち上がり、「ジャーナリスト志望の女の子を主人公にしてほしい」という要請があったので、じゃあ真相究明の話でいけるんじゃないか、と。 瀬々(敬久)監督らといろいろ企画を考えていた時期から、こういう事件の資料を集めたスクラップブックをつくっているんですよ。それを紐解いていくうちに、この記事(1998年4月6日付の朝日新聞に掲載された身元不明の死亡者に関する記事)に行き当たりました。
――僕は今回の映画を観るまで、「行旅死亡人」という言葉すら知らなかったんですが……。
井土 僕も知りませんでした。この記事を読み返したときも、こういう事件があったなあ、となんとなく思い出しただけで。最初に書いたシナリオは、「愛のように獣のように」というタイトルを付けていたんです。ただ、これだと直接的すぎるし、宣伝の吉川(正文)くんからも「もっといいタイトルはないですか?」と言われて、もういちど記事を読み返したら、この端に「行旅死亡人」という言葉があるのを見つけた。耳慣れない言葉だけど、妙にインパクトがあるから、よし、これでいこう、と。
――脚本はどれくらいの期間で書かれたんですか?
井土 じつはプロットの段階で、ある設定をボツにしていて……。発端は同じなんです。もうひとりの私が死んだ――そこからある女性の人生を探っていく。ただ、そのモティーフとなる場所の撮影許可が下りなかった。ある山奥の廃鉱にひとつの町が完全なゴーストタウンとなって残っているんですよ。そこを使うのを前提で、ある女の人生と集落の滅亡をかけあわせた話を考えていたんだけど、管理している会社から「撮影は危ないから、やめてくれ」と言われてしまった。僕のシナリオは、土地の記憶とかそういうものを映画の力として取り込んできたところがあるので、そこが使えないなら、じゃあそのアイデアは全部捨てよう、と。 それで今度こそ確実な場所を探そうということになり、元ジャナ専の先生で長野の小諸に別荘を持っている方がいたので、沼口さんに交渉してもらった。あとはロケハンをしながら、そこの風土、戦後史などを調べ、シナリオのアイデアを膨らませていきました。ちょうど構想の期間と『ラザロ-LAZARUS-』の公開が重なっていたので、シナリオにかけることのできた期間は2、3ヶ月でしょうか。
――これは『ラザロ-LAZARUS-』でも感じたことですが、今回の作品は、ご自身も書かれているように、1950年代、60年代のエンタテインメント映画をより意識した作劇になっていますね。
井土 僕は映画学校に通った経験もなく、本当に無手勝流でシナリオを書いて、いままでやってきた。だから、自分が学校で教えるにあたって、ベーシックなドラマづくりというものをもういちど見つめ直さなければいけないな、と思うようになったんです。その延長線上で真相究明の映画をつくろうと考えたとき、まず参照したのが橋本忍の作劇。橋本さんのやってきたことにはもともと興味があったんですが、つまり、ある事件やそれに関わる人間たちのドラマを掘り下げることで、社会を描こうとしている映画。『飢餓海峡』であったり、『砂の器』であったり、要するに僕が子どもの頃、観た映画なんですよ。なんかそういうところに戻っていくような、不思議な感覚がありました。 僕はいま41歳ですが、20代で映画の世界に足を踏み入れるまで、いろんなことを考えたり経験した結果、映画そのものについては考えてこなかったんじゃないか、という反省がある。文学や音楽といった他ジャンルからの影響をそのまま映画という表現に持ち込むことで、映画の肥やしにしてきたと思うんです。だから、自分の映画には雑がもたらす力もあったと思う。ただ、それを経て35、6歳になったときに、じゃあなぜ俺は映画が好きで、ましてや自分で映画という表現を選んだのかを突き詰めると、単純に映画を観てワクワクしたいということなんですよ。少年時代の僕は、観ていて気持ちいいもの、ハラハラドキドキするものに惹かれていた。やっぱりそこを追求しなきゃいけないんじゃないか、と。
――橋本忍が脚本を手がけた作品はまさに象徴的ですが、ある時期までのエンタテインメント映画は、ともすれば作品全体を破綻させかねないほどのブレや非統一性をも魅力のひとつとしていたと思います。そういう意味では、『行旅死亡人』もまさしく破綻の映画と呼べるのではないでしょうか。
井土 今回は結果として、破綻してしまったという感じですけどね。昔、『百年の絶唱』をつくったときには、わりと意識的に映画そのものを破綻させようとしていましたが、今回はシナリオとしてはある程度計算して組み立てていったつもりなんです。ただ、撮影も後半に入ってくると、自分の精神状態も高揚しているし、前半で結構きっちりつくっていたはずの芝居のリズムもどこか崩れてくる。演出家としてはもっと冷静にやらなければ駄目なのかもしれないけれど、そういうエモーションが理性を凌駕する瞬間って、僕の場合、映画をつくっていると必ずあるんです。
――主人公はルポライター志望の女の子ですが、若者によくいるタイプというか、自分は何者かになりたいんだけど、まだ何者でもなくて、ジャーナリストとして真摯に追いかけたいテーマも見つからない。この人物は、ジャナ専の学生を参考にされた点も多いのでしょうか?
井土 いや、もうまんまですよ(笑)。僕が教えるようになった2003年頃は、特にああいう感じの子が多かった。いまは学生の質もすこし変わって、大学を出てから入学してきたり、社会人を経験してからカルチャースクールのような感覚で入ってくる人も増えましたが、やっぱり高校を出てすぐ入ってきたような連中、特に女の子は面白い子が多かったですね。僕は進学校に行って、大学に進むというつまらない道を歩んだ人間なので、なんか久しぶりに会った面白い連中だな、という感じで。こいつらかわいいなあ、と。
――ジャナ専の先生方の反応はいかがでしたか?
井土 主人公のミサキもさることながら、彼女と行動を共にするアスカという友達、あの子はリアルだったねえ、という声が非常に多かったですね。ミサキはもうちょっと知的なキャラクターにしてもよかったかな、とは思いますけれど。
――主役を演じた2人はそれぞれ個性的で面白かったです。
井土 『ラザロ-LAZARUS-』の上映のとき、映画館にオーディションの告知を出したんですが、2人ともそれを見て応募してきた子なんですよ。ミサキ役の藤堂海は、ちょっと面白い顔立ちをしているし、パッと見た感じのたたずまいにもパンチがある。それで選びました。阿久沢麗加は演技をするのは今回が初めてで、ほとんど素のキャラクターでやってもらいました。最初に会ったときに、ああこの子はアスカにぴったりだな、とスタッフ全員の意見が一致しましたからね。
――それから、本作の破綻のきっかけをつくる役柄とでも言いますか、保険調査員を演じたたなかがんさんの存在感が凄いですね。
井土 ハイハイ(笑)。
――この方が中盤を過ぎたあたりで登場してから、急激に物語が加速していく。いわばエンタテインメント映画として、ほとんど笑ってしまうくらいの飛躍を見せるわけです。先ほどの橋本忍に関連づけて言えば、つまりこの役は『砂の器』の丹波哲郎であり、『八つ墓村』の渥美清ではないかと思うのですが。
井土 そうですね。この役はとにかく力のある役者さんでないと演じられない。演劇の世界でなら、ある程度いると思いますが、いま自主映画の世界でこれだけの説得力ある演技をされる方ってすくないじゃないですか。それで探しに探した末、スーパーの店長役で出演している小田篤さんの紹介で、たなかさんにお会いしたんですよ。直感的に「この人でいける」と判断して、ホン読みをしたらみごとにハマった。あの台詞のリズム、フィクションが立ち上がってくるような語り口。先ほど喩えを出されましたが、僕がホンを書いているときには『飢餓海峡』の伴淳三郎をイメージしていました。あのシーンは、いろんな角度から回想が入るという意味では『ゼロの焦点』だったり、サイレントで音楽にあわせて描くという点では『砂の器』だったり。まさしく橋本さんの作劇を意識して書いたシーンです。もっともいざ撮影したものを見ると、つながりが思うようにいかないところもあって、編集でかなり変えましたけどね。
――そうして後半はミステリーとしての作劇が際立ってくるわけですが、長宗我部陽子さんが素晴らしい表情を見せていますね。
井土 長宗我部さんは90年代半ばにデビューして、ほとんど僕と同期なんですよ。その頃、ピンク四天王とかヌーヴェルヴァーグの上映で一緒になる機会も多かったし、僕のなかでは同窓生みたいな感覚がある。でも、ホンを書いた時点では、彼女に演じてもらうことはまったく想定していませんでした。 それで『ラザロ-LAZARUS-』が2007年の7月に上映されたとき、彼女が観にきてくれたんですよ。街にポスターが貼ってあったのを見て、「あ、井土さん、映画撮ったんだ」と思って観に来てくれたらしいんですけど。久しぶりに会って、飲みながら「まだやってるの?」「やってますよ」なんて、互いに言いあっているうちに、ああ、長宗我部はいけるんじゃないか、と思ったんです。それで彼女にホンを渡して読んでもらったら「ぜひやりたい」ということで彼女に決めました。奇妙な縁だけど、吹いた風は逃しちゃいけないと思って。
――今回も『ラザロ-LAZARUS-』とおなじくデジタルビデオで撮影されていますが、夜の駐車場や橋のシーンなど、デジタルとは思えないくらい影の質感が強調されていました。
井土 そこはもう撮影と証明を担当した伊藤(学)くんの力だと思います。彼のセンスと力量ですね。最近、デジタルで撮られた若い人の映画を観ていると、陰影やトーンの問題とは違うかもしれませんが、演出をあまり感じないんですよ。その場でナチュラルになにかをやってもらって、それを全通しで撮っておく。その素材を編集でつないでいく、というやり方が主流に見えます。それはデジタルだからできることなんだけれど、僕は貧乏性だから、どうしてもフィルム的な撮り方をしてしまうんです。きちんとカット割りを考えて、その分しか尺をまわさない。そういう意味では、非常に保守的な映画づくりをしていると思います。
――史郎(本村聡)を追いつめていく部屋のシーンなんか、役者の芝居にしてもキャメラの動きにしても、きちんと演出がなされていなければ、ああいう緊張感は生まれないですからね。
井土 それはまだまだ課題を残しているところだと思いますけどね。すべてのスタッフワークを僕がきちんと把握して、適確に指示できているのか、という反省も多々あります。役者のリズムの違いをどう合わせていくのかとか、そういうことをいま本当に考えていますね。
――映画の後半は、事件とその裏に隠された男女の悲劇にウェイトがおかれて、主人公の存在はある意味で後退していきますよね。ただし、スタッフロールが流れたあと、もうワンシーンあって、ここで主人公たちの日常が戻ってくる。
井土 あの子たちで始まった映画なんだから、やっぱりあの子たちで終わらせたほうがいいだろう、ということです。たしかに後半でシリアスに突き詰めていったものがあのシーンが入ることによって台無しになるという意見もたくさんいただきました。僕自身、ノイローゼになりそうなくらい考えたところだったんですが、結果的には、賛否両論あろうがそれは俺が引き受ければいいんだ、と腹をくくって入れました。 最初に考えていたのは、この子たちがサイレント映画の『第七天国』のような信じられない愛のかたちを目の当たりにして、その感想を語り合う、みたいなイメージだったんです。ただ、愛の謎だけは彼女たちのなかにも残っている。それを考えることが、ミサキがなにかを書き出すきっかけになるんじゃないかな、と。 『ラザロ-LAZARUS-』のときに、作家の角田光代さんが「悪や憎しみといったものを主題化しているけれども、結果として愛が滲んでいる」というようなことをおっしゃったんですよ。その言葉がすごく頭に残っていて、今回は愛そのものを描いてみようじゃないか、と。そして、愛や幸福にしがみつこうとするために悪が生まれる、ということを追求してみたいと思ったんです。『ラザロ-LAZARUS-』のマユミが「状況が生み出した怪物」だったとすれば、今回は「愛が生み出す怪物」を描きたかったということですね。
――今年は日本映画学校の学生と一緒につくられた『犀の角』もあり、また最新作として『土竜の祭』という作品が控えているそうですが。
井土 ええ。『土竜の祭』は、ちょうどいま整音作業をしているところです。3人の女たちの物語ですが、ヘビィな状況の中でも女たちはカラッとしていて、朗らかに事態に対処していくというテイストの映画ですね。あまりシリアスになりすぎないように気をつけました。『犀の角』はメロドラマ、『土竜の祭』はユーモラスな活劇、この二本の中編には今後自分が掘り下げ、チャレンジしていく映画の原型があると思っています。それから、やはり真相究明の作劇はもっと探求してみたいですね。低予算であることが傷に見えないような映画を成立させてみたい。『犀の角』と『土竜の祭』の2本は、『行旅死亡人』の公開記念オールナイトで先行上映する予定です。
――そうですか。楽しみにしています。
井土 ありがとうございます。
監督・脚本:井土紀州
企画:上野昂志、柳沢均 プロデューサー:沼口直人、吉岡文平 撮影・照明:伊藤学 録音:小林徹哉
音楽:安川午朗 出演:藤堂海,阿久沢麗加,たなかがん,小田篤,本村聡,長宗我部陽子
製作協力:スピリチュアル・ムービーズ 製作:日本ジャーナリスト専門学校
11月7日(土)より、シネマート新宿にてロードショー
「行旅死亡人」公開記念オールナイト -井土紀州監督作品集-
Variant Heroines All Night Long ―異形のヒロインたちの歴史を紡ぐ一晩の饗宴―
11月14日(土)23:30~ シネマート新宿
井土紀州新作2本プレミア上映!監督+女優総出演の真夜中トーク!!
そして300席の最大級スクリーンで「百年の絶唱」遂に上映決行!!!
上映作品:「土竜の祭」「犀の角」「百年の絶唱」
企画:スピリチュアル・ムービーズ 協力:日本ジャーナリスト専門学校、日本映画学校、映画美学校、マジックアワー
主なキャスト / スタッフ
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