特集

映画「掌の小説」公開に寄せて:
天然の美とマニエラへの憧憬/坪川拓史映画の序章

鎌田 絢也

『掌の小説/第3話「日本人アンナ」』
『掌の小説/第3話「日本人アンナ」』(C)「掌の小説」製作委員会
2010年、渋谷ユーロスペースにて公開となった『掌の小説』は、川端康成が若き日から四十余年にわたって書き続けたとされる掌編小説集を原作としたオムニバス映画である。ここで取り上げられた掌編には、川端文学の長編小説とはまた一味違う珠玉の詩精神が息づいている。「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による、叙述の卓越さに対して」という評価を得てノーベル賞受賞となった文豪の小宇宙は、千金の豊饒を誇っている。
物語の時代背景は大正末期から昭和初期にかかる頃、都市部では「カフェ」や「レストラン」などの洋食も拡がり、映画が「活動写真」と呼ばれ大衆の娯楽を牽引し、近代的な文化が急速に普及し始めた時代である。映画『掌の小説』は、そうした時代の空気が決して広角なランドスケープで切り取られることはないが、実に豊かな懐古調として立ち現われている。単純に川端文学の筋書きを映像化するというだけではない取り組みは、舞台設定や意匠、装束において再現する美術志向にも見受けられる。その意味で本作は、ある一時代の様式美の再現を堪能する確度の高い時代劇としての格調も備えている。
昨今、巷を賑わせもする映画で観られるものは現代劇ばかりではなかったろうか。また、低予算映画や若手作家の渾身の作品ならば現代劇に材を得ることが真っ当な選択と思える。しかし、いま何故、川端康成か。そして決して潤沢とはいえない予算と向き合った若手作家が何故、時代劇なのか。この相反する存在が惹き合った事実こそが、現代日本映画に風穴を開ける事件なのではないだろうかと思わずにはいられない。
本作『掌の小説』は、映画が文学と格闘するオルタナティヴな潮流である。それは、川端康成自身が自作『掌の小説』を「詩精神の現れ」と語る観想にインスパイアされた闊達な創造性が許されているためである。先行する文学に映像を寄せるのではなく、私性の映画として企てられる時、そこに文学を凌駕した新たな芸術が生まれくるのだ。

「美式天然」1
「美式天然」(c) 2010 LaValse Film. inc
映画『掌の小説』は、122編ある原作の内から、特に叙景に魅力を置いた作品に材を得ている。本作が確かな日本情緒の趣を湛えて、なおかつ自由闊達な作品として成立しているのは、独特の様式美へのこだわりを見せている坪川拓史監督の天性のシネマツルギーによるものだ。
あるインタビューで坪川監督は「無人島に一冊だけ持って行くなら『掌の小説』。」と発言し、原作への思い入れのほどを伺わせて、さらに川端文学との邂逅が「雪国」や「古都」などの代表作ではなく、関東大震災後の浅草の風俗を紹介した「浅草紅団」であったと答えている。原作『掌の小説』には、浅草物といわれる作品グループがあるが、坪川監督が担当した『日本人アンナ』もまた浅草を舞台にした作品であった。この系譜から、ある時代の空気や風俗意匠といった原風景に対する愛着という点に、映画『掌の小説』の本懐、ひいてはキーパーソンとなる坪川監督の芸術嗜好、様式美の端緒が伺い知れよう。

第3話『日本人アンナ』は、この映画『掌の小説』プロデューサーとして、生みの親でもある坪川拓史監督による一編である。この第3話は他の挿話に比べて、原作世界の時代背景への憧憬、映像イメージの様式美への極私性が現れており、実にフェティッシュな味わいが豊かな作品である。これは坪川監督の映画という枠を超えた芸術的才気による結晶であると同時に、監督の文化リテラシーの高さが伺える優れた美の寓意となっている。
物語は、浅草のとある映画館で、革命に追われたさすらいのロシア貴族孤児という触れ込みでロシアの子守唄を歌う少女アンナと、その可憐なアンナに魅せられた主人公との不思議な出会いを描く。主人公は楽屋口から出てきたアンナを追いかけて、チンドン屋が演奏する物見の雑踏に紛れ込むが、その時、主人公はアンナに見事なまでに財布を掏られてしまう。主人公はアンナが身を置く木賃宿を突き止め隣の部屋へと通い始め、夜な夜な襖の奥からアンナの姿を覗き見ていたが、そんな夜が幾日か続いたある朝、アンナは町から忽然と姿を消してしまう。幾月か経った春の宵に、主人公は満開の桜の下でアンナと偶然にもすれ違い、彼女に声を掛けるのだったが、その少女は「アンナじゃないよ、日本人だよ」とはっきり言って、風のように去っていく。

「美式天然」2
「美式天然」(c) 2010 LaValse Film. inc
原作は、淡々と日常を語る調子でありながら、なんとも不思議な風情を漂わせる幻想譚とも呼べそうな雰囲気が印象的である。映画においてもそうした空気が滲み出ており、安易な作品解釈を遠ざける周到な仕上がりであるが、ここで目を惹くのはやはり、坪川監督の様式美への憧憬が現前する画面の魅力である。
『日本人アンナ』において特に印象的なのは、一見して線的な物語を語る上では必要とは思われない映像イメージの創造である。物語中、アンナを追いかけて主人公が訪れる映画館のシーンで、画面は突然にモノクロとなり無声映画を演じるのだ。その画面の粗い質感といい、台詞が字幕となって現れるタイポグラフィといい、そこに映画的記憶の郷愁と映画デザインへの美術的愛着が一気に立ち現われ、その画面の肌理の麗しさに感動せずにはいられない。
一般的に様式美への過度な意識は耽美派という烙印を押されがちだが、その技巧や手法が高度に達成されていれば、そこに優雅な調和が生まれ完結した作品としての強度が生まれる。本編『日本人アンナ』では、坪川監督が描く表層の美に浮遊する陶酔感が滲み出ており魅力が深い。しかし、そこに至っても、本作『日本人アンナ』においては監督の深い芸術的教養が片鱗程度にしか垣間見られないのである。
その全貌に近付くためには、現段階でも日本未公開として幻の作品となっている坪川監督の初長編作品『美式天然』と2作目『アリア』に遡らなければならないだろう。

初長編作品『美式天然』は、第23回トリノ国際映画祭長編コンペティション部門グランプリ、最優秀観客賞のW受賞を成し遂げた作品である。昭和のはじめ頃、とある映画館で人々は無声映画「美式天然」のフィルムが到着するのを待っていた。しかし、そのフィルムを届けるはずの少年は大好きな女優が出演する映画の結末が哀しいものだと知り、フィルムを砂浜に埋めて失踪してしまう。時は流れて現代。夫の死後、部屋で花の絵を描き続ける女とそれを見守る娘。そんなふたりのもとに突然、祖父が居候をはじめる。やがて二つの時代、過去と現在が交錯し、物語が夢想の綾を紡ぎ出す。
この一作目からしてすでに、坪川監督の優雅な様式美は画面を揺るぎなく支配しており、懐古調に抒情を醸す装飾は郷愁にあふれた悦楽に満ちている。もしこの映画が装飾への耽溺のみに終始していたとすれば、昨今ありがちなディレッタンティズム映画に堕しているところであるが、物語の「時間」や「空間」、そして人物の「記憶」や「意識」を横断する重層的な映画構造は、陶酔的かつ高尚な感慨を生み出すことに成功している。坪川監督のまなざしの先にある世界が、官能的にほのめく灯火のごとき美しさとして映えて琴線に触れる。

「アリア」1
「アリア」(c) 2010 LaValse Film. inc
長編二作目『アリア』は、前作とは違ってリニア構造の現代劇とロードムービーという体裁を取りながら、坪川作品を決定づける滅びゆくものへの視線の存在が目を惹く。主人公は、妻を亡くし、今は古美術店に居候しているピアノ調律師である。彼は店の客である人形遣いに、質流れとなったピアノを探すよう頼まれてしまう。しかし折しも人形遣いは病を得て亡くなってしまう。今や遺言となってしまった人形遣いのピアノであるが、その弟子である男、そして人形遣いの娘を名乗る謎の若い女の懇願により、主人公は旅に出ることを決意する。そして旅の中で、主人公も妻の遺言である砂浜を探すのであった。
滅びゆくものへの視線。その静謐な映画空間には、神性の立ち現われともいうべき、「予感」を感じさせる「気」が宿っている。また、映画に切り取られるランドスケープには、現代人が喪失した精神風土のイメージが浮かび上がり、そこにある種の懐かしさを呼び起こす暖かさが生まれている。通常「老い」や「古さ」というものは「衰退」のイメージで捉えられ、そこには悲観的なニュアンスで追いやられる価値を喪失した「残骸」という見方がある。しかし、そうしたものの中にこそ存在する価値を見出そうとする坪川監督のクリエイティブサルベージに、現代の新たな価値観を開く端緒が伺えるのである。
『美式天然』、そしてこの二作目『アリア』を通して、坪川監督の人生へのまなざしが包容力のある映画として滋味深い感動を生み出していることは、マニエラ(様式・手法)だけではない、丹念な物語表現への矜持が可能とさせているのである。

人為的な技巧や文化的な記号操作に高度な達成を追及するマニエリスム映画は、難解とまではいかなくとも、鑑賞者に集中力を要求する深さがある。その意味では坪川映画(『掌の小説』を含む)は、芸術的教養が試される秘教のごとき陶酔がある。言い換えれば、歌舞伎や能、西洋でいえばオペラやバレエのような古典観賞のことわりに近く、その作品で描かれている世界観を堪能するためには、暗黙の了解事項というコード、あえて挿入される創造的なクリシェに通暁していなければ味わえないものなのだ。坪川監督の美学によって融解する「記憶」「意識」「時間」「空間」は、一瞬のイマージュの強度によって立ち現われる。それゆえにマニエラへ向かう映像美は静的なビジョンを獲得し、そこに永遠の美に対する憧憬が照射されるのだ。

「アリア」2
「アリア」(c) 2010 LaValse Film. inc
映画『掌の小説』は、第22回東京国際映画祭「日本映画・ある視点部門」正式出品作品として紹介され、この春、劇場公開となった。しかし、前述の坪川映画二作品は、いまだ日本未公開として幻の作品となっているのだ。それでも見識の高いヨーロッパでは一定の評価が生まれており、いち早くチェコでは『美式天然』が劇場公開を通して陽の目を浴び、近々ポーランドでも『アリア』が公開されるという。
こうした遠く彼の地で発見される日本映画とはいったいどういう図式で生まれるものなのだろう。『美式天然』や『アリア』には、日本の懐かしき風景の美しさや「わび」「さび」に通ずる日本の心が息づいており、実に「日本的なるもの」の色彩が豊かな芸術となっている。もはや海外での評価が単純なオリエンタリズムのみでないことは、映画祭での坪川映画に対する芸術的賛辞と劇場公開という産業的な側面で展開されていることから明らかであろう。
しかし、そうした価値ある映画、不世出の才能に対する日本での待遇はあまりにもお粗末といえる。監督自身が孤軍奮闘を通して世界を駆けずり回るにも限界があるというものだ。とはいえ、映画が常に産業体であることもまた然り、然れども来るべき映画と才能を擁護することもまた、産業体の発展のために必要不可欠であろう。日本映画の国際性、ひいては「日本的なるもの」の国際性は、まず自国の自覚に根差す未来でありたい。坪川拓史監督の独特の様式美が、国内劇場公開を通して陽の目を浴びる時、日本映画文化の希望がそこにある。

(2010.4.7)

美式天然 ( 2005年 / 日本 / 坪川拓史 )
アリア ( 2007年 / 日本 / 坪川拓史 )
掌の小説 ( 2010年 / 日本 / 岸本司,三宅伸行,坪川拓史,高橋雄弥 ) 

『掌の小説』は3月27日より、ユーロスペースにてモーニング&レイトショー
他全国順次公開!/期間中の毎週金曜最終上映後にトークショーを開催!
4月16日(金)は坪川監督が第3話「日本人アンナ」の撮影秘話を語ります。
また、川端康成の命日にあたる4月16日(金)は特別料金1000円です。

2010/04/09/15:46 | トラックバック (1)
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