『ロックアウト』( 2008 / 日本 / 高橋康進 )
特集『世界が愛した才能・北米編』(『Lost&Found』『ロックアウト』)
『Lost&Found』――この世界そのものであるような映画
映画は観られなければ話にならない。その意味では、映画は観客のため、誰かのためにあると言えるだろう。しかしスペクタル化で作成にかかる予算は他芸術とはかけ離れてしまい、結果、その映画を作った作家やスタッフの魂の結晶というよりは、興行成績=ペイするかどうかどうかというビジネスの部分が最重要事項になってしまっているという現実がある。その結果、「アラフォー女性向けの恋愛もの」だの「草食系男子向けの恋愛指南」だのターゲットがはっきりしていて、そのターゲット以外は楽しめないような映画が普通になっている。マーケティング主導の映画作り、そして「老若男女、一体誰のための映画なのか」をはっきりさせるためのレビュー、そんなものはもう日常であり、そうでないものが一体何であるのかむしろそちらの方を思い起こすのに苦労する。
リュミエール兄弟が列車の到着をカフェで観客の目の前に現前させた時、その列車が自らの方に走ってくるのではないかと観客が恐れおののいた時から、既に115年が経っているが、その原初の映画は観客を選ばない、「老若男女楽しめる映画」ではなかったか。現在、多くの映画が作られるが、その中で「老若男女楽しめる映画」は一体割合にしたらどのくらいになるだろう。シネフィルや映画評論家は通好みの映画を探し出し、いかにそれが「映画」であるかということを主張し、そして同時にその映画の良さを見抜いた自身の見る目の高さを誇示しているとの意地の悪い見方もできる。高度化され、細分化された現在の映画の形態は、隣に住む人がどんな人かも知らないまま、SNSで自分の趣味の合う人と「繋がり」合う現代社会そのものの縮図である。
ターゲット設定がされた映画、観客を選ぶ映画は、私たちが男も女も関係なく、まず人間であること、生きていることそのものを、実感させてくれるような映画であるだろうか。自分がかつては無垢な子供であり、青年、中年、そしていつかは老年の時を迎えるであろうこと、過去も未来をも内包するような映画、現在は平和で健康体であっても、戦下であった過去、障害を負う可能性、何か自分にとって大事なものを失い途方に暮れる疑似体験をさせてくれる映画が豊かな映画なのではないのだろうか。あらゆる世代を、階層を、この社会のありとあらゆる可能性を感じさせてくれること、それこそが「人間を描く」ということではないのだろうか。若者向けに若者を、中高年向けに中高年を描くことは、世代間、人種間、階層間の分断を、ディスコミュニケーションを、助長させているだけではないのだろうか。そこに、知らないことや見知らぬ他人への排除の気持ちが、萌芽だけでもないと言い切れるだろうか。
最近の優れた映画の中に群像劇のスタイルを取るものが多いことは、そのことと関係がなくもないのかもしれない。『ジェリーフィッシュ』(2007年,エドガー・ケレット、シーラ・ゲフェン)では、結婚式を挙げ新婚旅行に行った夫婦、その結婚式場でウエイトレスをしているバティアとバティアの目の前に現れた小さな女の子、の話が主に描かれるが、両者が出会うことはない。厳密に言えば結婚式で会っているのだがストーリー上で接点がないという意味だ。にも関わらず、両者のエピソードは死と隣り合わせだからこその生の喜びや一瞬の煌きを、邂逅や希望を、幻想的かつ重層的に描き出すことに成功している。
『ダルフールのために歌え』(2007,ヨハン・クレイマー)では、登場人物の関わりのなさはもっと進んでいる。交差点ですれ違うだけ、路道でぶつかったりするだけ、でカメラはAからBへと撮る対象を移動する。性別も職業も世代もバラバラで無作為に選んだように見える人々の内面の玉石混淆ぶりを描きながら、ダルフールに対して、そして他人に対しても無関心な世相を写し取っている。そして当夜バルセロナで行われるダルフールのために行われるチャリティーコンサートに話は収束していき、最後はささやかだけれども心温まる人々の交流と祈りの歌、つまり希望を観客に提示している。
違う人種や世代を並行して描くことによって「人間」が生きる姿そのものを、その間の境界線や葛藤を、にも関わらず存在する希望や一瞬の煌きを、両作品とも提示していると言えるのであるが、そろそろ本題に入ろう。東北のローカル駅の「落し物預かり所」を舞台にした『Lost&Found』も群像劇である。主人公である「落し物預かり所」を仕切る初老の男、富樫(菅田俊)に、そこに吸い寄せられるように来てしまう同じく初老のサラリーマン、相馬(坂田雅彦)。他にも盲目の女性、駅員の掛け声を真似する電車オタクの青年など、共通点を挙げるとすればみな、社会の中心で活躍しているというよりは、片隅でひっそりと生きているような人々が多い。責任を与えられ若さも持つ駅員の荻野(畑中智行)ですら、駅員という仕事に満足せず勤務中に目を盗んでは公務員試験の勉強をしているような、「ここではないどこか」を夢見る若者である。
彼らが、落し物によって出逢ったり、繋がっていく過程を映画は描くのであるが、あえて言ってしまえば彼ら自身が世間からの落し物・忘れ物であると見ることもできる。そんな彼らの内面にまで、映画は丁寧に、愛をもって、入り込んでいく。彼らの夢や、失くしてしまったものに対する思いや喪失感、そしてそれを取り戻せるかどうかを、観客はいつの間にか固唾を呑んで見守ることとなる。その一貫した反時代的ともいえる映画の姿勢は、はからずも富樫のこんな台詞に現れている。落し物を保管する棚にあった薄汚れたピエロのキーホルダーに対して、荻野が「これは落し物じゃなくてゴミでしょ」と言うと、富樫はこう諭すのであった。「ごみか落し物かの判断は、君のすることじゃないよ。ごみでも、ここに届けてくれたひとがいる限り、それは誰かの落し物だ」。
一人ひとりの内面を丁寧に追う映画の足取りは一貫して誠実きわまりなく、富樫が主人公らしいヒロイックさに欠け、むしろ狂言回しのような役割を果たすので必然的に登場人物それぞれの扱いは平等なものになる。そこには『ダルフールのために歌え』のような「コンサート」という事象を利用したアクロバティックな収束もなく、『ジェリーフィッシュ』のようなシナリオの錬金術による幻想的な結末はない。『Lost&Found』の登場人物一人ひとりは、映画によって何かのレッテルを貼られたり、操作されることがないように見える。映画はただゆっくりと、彼らの内面に降りていき、寄り添い、その夢と喪失を愚直に照らし出す。そして結果はというと、失くしたものに吸い寄せられてしまった人、失くしたものを見つけた人、失くしたもののおかげで大切な人に出会えた人、と結果はそれぞれなのであるが、それは実際に劇場で確認してほしい。
女性のためでも、男性のためでも、若者のためでも、老人のためでも、健常者のためでも、障害者のためでもない、誰のためでもない、そう、あなたがそれら全てになれるような映画、まるで多種多様な、各々が限られた時間と固有の輝きを持った人々が生きる、この世界そのものであるような映画が、そこに開かれている。
『ロックアウト』――観客を宙吊りにする映画
この映画について語る時、ジャンルについて語らないわけにはいかないであろう。とても面白いスリラーであり、迷子になった子供や突然解雇される工事現場で働く主人公など弱者への優しい視線が感動を生むロードムービーでもあるが、もちろん一部の観客にではあろうが、映画にとってジャンルが一体何であろうかという根本的な問いを抱かせる。
映画にとってジャンルとは一体何であろうか。
「映画研究者の多くは、ジャンルは祭日の祭典に似て儀式化したドラマだと考えている。(中略)ちょうど祭典が世界の煩わしさを参加者に忘れさせる手助けになっていると考えられるように、ジャンルの慣れ親しまれた人物描写やプロットもまた観客が実際の社会問題から目を背けることに役立っていると言えるかもしれない。」(フィルム・アート -映画芸術学入門- 」/デヴィッド・ボードウェル、クリスティン・トンプソン著/名古屋大学出版会刊)
例えばウィークデーが終わって刺激が欲しい時、スカッとしたい時にはスリラー映画やアクション映画を、デートの時にはロマンチックなラブロマンスを、など私たちは映画を選ぶ時にジャンルを参照することが多い。ジャンルは、映画が与えてくれるものをある程度予想できる根拠となり、映画を観た後の「ごっつあんでした!」感の大きな要素にもなっている。
『ロックアウト』は、車を運転する若い男・広(園部貴一)の不機嫌そうなブツブツと呟く声で始まる。広がふと立ち寄ったラーメン店で、店員の男のぞんざいさに腹を立てた広は、その店員をボコボコにするもう一人の自分を幻視する。その広の分身は、広が窮地に追い込まれたり、腹を立てる度に出没し広の内なる欲望を体現する。偶然立ち寄ったスーパーで迷子の子供を拾い、その子とともに過ごすことになる広だが、並行して時折挟まれるフラッシュバックで広のバックグラウンドが徐々に分かってくる。広は突然働いている工事現場を首になり、自棄になってあてのないドライブに出ていたのだ。そして、広が出奔することになった本当の理由について、ある疑いを観客は徐々に持つようになる。
その疑いにより、ちょっとした子供との諍いも、終盤での警官との対峙も、サスペンスに満ちたものになっていて、その意味ではこの映画は紛れもなくスリラーであろう。しかしこの映画は終盤になって急にその「スリラー」というジャンルから逸脱する。その突き抜け方は今までに見たことがないようなもので、哄笑と感動など、普段あまり関係のない感情が次々に沸き起こる怒涛のクライマックスとなる。サスペンスによって宙吊りにされた観客は、通常であれば犯人が分かり、逮捕されほっと胸を撫で下ろすのであろうが、この映画ではさらに別の意味で宙吊りにされるのだ。
この映画での音楽のセンスの良さと映像感覚の斬新さは特筆すべきものであろうが、しかしその優越性がジャンル映画としての整合性を高める方向には向かわない。ラストシーンにかかる音楽はマカロニ・ウエスタンにおけるエンリオ・モリコーネのようには機能しないのである。ジャンル映画を観て定型を味わい尽くした満足感、「おなかいっぱい」な終息感を得た観客は、映画館を出たらそれを忘れてしまうであろうが、この映画ではそうはならない。広が陥ることになった状況は、多くの非正規雇用の人々が味わっているものであり、その日本の現状を映し出しながらも仄かな希望を与えてくれるラストは、普通ならば収束に向かうものが未来に向かって拡散していくようである。映画が終わらないような、終わってほしくないような、ワクワクとした気持ちが続くのだ。ラストシーンは広が運転する車がこちらに向かって走ってくるシーンなのであるが、まるでその車が映画から現実に飛び出ていくような錯覚を覚えた。ジャンルを飛び越えた、新しい映画の可能性を垣間見せてくれる稀有な作品といえよう。
『Lost&Found』と『ロックアウト』、この2作品が上映されるのは、「世界が愛した才能」という企画でである。両者とも海外の映画祭で好評を博した作品であるからなのだが、ここで使われている「世界」というのはもちろん「日本」と対になった「世界」であろう。両監督ともに留学経験があり、国際的な活躍も期待できるためその図式は当然のことだが、ここではもっと重要だと思われる図式を可視化したい。「私たちの住む世界」対「自閉的な映画内虚構」である。
誰かのため、と当て込まれた映画。前もって予想され、見終わってその通りであったことに満足させられる、ほんのひと時現実を忘れるための映画。そんな映画を見慣れている私たちは、115年前に人々がリュミエール兄弟によって現前した列車の動く姿そのものに魅了されたように、『Lost&Found』の各登場人物たちがただそこに居る姿に魅いられ、そしてその列車がこちらに向かってくるのではないかと慄いたように、『ロックアウト』のラストシーンで広が運転する車が、スクリーンを突き破って私たちの方に向かってくるのではないかという錯覚に陥るに違いない。
(2010.2.24)
主なキャスト / スタッフ
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