小口容子プレゼンツ
「変態まつり」第4弾
追悼オットー・ミュール!
最近、ぬるい映画ばっかりで面白くなくない?
映画って、人生踏み外しちゃうような勢いがなきゃ意味なくない?
2014年11月1日(土)・2日(日)、
渋谷アップリンクファクトリーにて開催
追悼上映!オットー・ミュール!
伝説のウィーン・アクショニズム!身体・行為・饗宴〜オットー・ミュール、ギュンター・ブルス、クルト・クレン〜
「エンドレス・ラブ」で1988年のPFFアワードに入選、その後、「ワタシの王子」でイメージフォーラム・フェスティバル2006の大賞を受賞するなど、自主映画界や実験映像界で存在感を示す映像作家・小口容子監督が、自らの趣味・趣向を炸裂させた上映イベント「変態まつり」の第四弾が開催される。
今回は、昨年2013年に亡くなった前衛芸術家オットー・ミュールの追悼として、1960年代のウィーンで彼が仲間と共に余りにもヤバイパフォーマンスを行ってみせた「ウィーン・アクショニズム」の一端に触れられる記録映画『Action Films』を中心に、小口監督自身の琴線に触れる作品がセレクト上映される。今回のイベントに合わせて映画評論家の柳下毅一郎氏が「すべてが許され、なんでも見られるようになった現代においても、いまだショッキングでありつづける映画がある」とのコメントを寄せている通り、サムネイル画像を一瞥するだけでもその過激さやグロテスクさが伝わってくる劇薬注意の作品ばかりなので、これまでの映画観を壊してみたい人、フツウの映画には飽き足らない人は足を運んでみるといいだろう。もしかしたら新しい世界が開かれるかもしれない。
『Action Films』( 1964-1967年、16mm→デジタル )
’60年代で最も過激なアートムーブメント“ウィーン・アクショニズム”。その代表格であるオットー・ミュールとギュンター・ブルスの戦慄的パフォーマンスの数々を実験映画作家クルト・クレンが記録した貴重な短編集。曝され、汚され、陵辱される肉体。嘔吐、自傷行為…。タブーに踏み込む身体表現が、クレンのミニマルで高速なカッティングにより、詩的な美しさに昇華される。松本俊夫『映画の変革』で紹介された『20.STPTEMBER』やミュールのパフォーマンス記録の参考上映付き。アートファン垂涎のプログラム!
ライブ:C-1プログラム クルト・クレン
『Action Films』Portralによるライブ付き上映(39分)+参考上映(9分)
ブルース・ラ・ブルース『L.A.ZOMBIE』( 2010年/DV/62分 )
今年のトロント国際映画祭でレトロスペクティブも行われる、カナダの映画監督/ブルース・ラ・ブルースによる、日本では一般公開されなかったゲイ・ポルノ・ゾンビ・トンデモ・ムービー!!メルボルン映画祭では、正式招待されたにも関わらず、内容に差し障りがある、とオーストラリア政府により上映が禁止された。ガチムチ系ゾンビが、なぜか事故や殺人現場にしょっちゅう出くわして、死体を巨大なペニスでファックすると…。
中村智道『天使モドキ』( 2014年/Blu-ray/13分 )
第2弾でも2作品を上映した中村智道氏の新作。冒頭から、手持ちの主観カメラのような画面移動の微妙な揺れに、平衡感覚を失うようなまばたきの描写に、驚かされる。しかし、それは実写に近づけるための映像ではない。手描きの動画処理を積み重ねることにより、この世のものではない動きができ上がった、という不思議な感触であり、たいへんに希有なアニメーション作品だと思う。鳥と人がくるくると踊る動き、鳥が飛び立つ動き、すべてが心地よくクラクラするが、この世のものではない暗く深い世界がうらはらに垣間見える、それが美しくも恐ろしい。
中村雅信『句読点』( 1975年/8mm/17分 )
『記念写真』( 1978年/16mm→DV/3分 )
『奇病1』( 1977年/16mm→DV/3分 ) 『奇病2』( 1977年/16mm→DV/5分 )
なんと40年程も前に撮られた中村雅信の作品群は、「少女はエロティックな存在」という先鋭的な概念を炸裂させており、いまだによくある「少女は聖なる存在」という感傷的な幻想と真っ向から対立し、今なお、私達を圧倒する!ホットパンツの少女が逆立ちするだけで、ミニスカートの少女が高いところに立っているだけで、私がこんなにも興奮するのは、気のせいなんかではない。フィルムには確かに、撮影者の震える心が反映されてしまっているからなのだ!
玉野真一『こうそく坊主』( 2002年/8mm/11分 ) 『純情スケコマShe』( 2002年/8mm/15分 )
この過激さをなんに例えればいいのだろう?と、玉野真一の映画を初めて観たとき、驚いた。ポストダイレクトシネマの『精神(トラウマ)と肉体(裸)をさらけ出す過激手法』には慣れてしまっていた私の目にも、ただただ肉体を酷使することでしかなし得ない動きや音の面白さを表現し、そこのみで勝負している玉野氏の作品は、新鮮であった。だって、理由がないのだ。こんなことをしなければならない理由が。トラウマ映画には必要である理由を、玉野映画は必要としない。だから過激なんだ、と思った。その証しに、玉野映画の後続者とか真似映画とか、私の知る限りでは皆無である。誰もこんなの真似できないよ。常連で出演している、怒り顔の女の子がいい。彼女の顔が、映画を風通し良くしている、と思う。
工藤義洋『家族ケチャップ』( 1992年/16mm→DV/37分 )
冒頭の衝撃シーンがあまりに有名だが、そのシーンのみで語られるべき作品ではない。『自分晒しドキュメンタリー』はこの作品以後多く作られているが、ここまで人間の生の感情がフィルムに写しとられてしまった作品を、私は知らない。ほとんど理不尽とも言える母親への追求がひどくて目を背けたくなるのに、同時に、フィクションではないほんものの人間の表情や動きが写っているのが面白くて、目が離せなってしまうのだ!そんなドキュメンタリー部分もすごいが、ラスト近くの、家族三人をリングにあげて歌謡曲を歌わせるシーンが好きだ。家族が各々バラバラの思惑であることが見えてしまうのに、敢えてこのシーンを撮り、そしてフィルムが途中でなくなり、歌声だけが記録される。まさに、これが映画だ!というシーンだった。
猿山典宏『強制送還』( 1995年/8mm→DV/3分 )『牢獄ノ祭典』( 1996-2006年/8mm→DV/4分 )
8ミリフィルムで撮影されているが、編集がコマ単位でなされているためフィルム上映が危険でできない、という「強制送還」。今は“CGでなんでもできます”と学校でも教えるらしいが、その真逆をいく究極のアナログ手法を今、まのあたりにする快感たるや!「牢獄ノ祭典」は原爆投下から 90年代半ばの同人ゲームまでを背景にし、長崎での調査を経て10年がかりで完成した力作。猿山氏の頭の中にあるその関連は何度聞いても不明だが、そんなことはどうでもいい!江戸前アナゴが男のアナルでビュンビュンと振られ、キーボードを叩く指に黒い雨が浴びせられる、この洪水に飲み込まれたかのような、竜巻にさらわれたかのような感覚に、ただ身を委ねるべし。
三ツ星レストランの残飯『びくてぃむ』( 2012年/DV/7分 )
メルヘン絵柄のめめむちゃんがお散歩するシーンから始まるが、その過剰なメルヘンぶりに、最初から『この後何かが』という不穏な空気が流れる。そして期待通り、メルヘン絵柄をぶち壊す異形キャラ“かんぼつさん”の突然の登場により、めめむに危機が!…結構、不謹慎だ。しかし、不謹慎さに対する不快の感情を、表現の力強さのあまり快感に逆転させてしまう力が、この作品にはある。性的嫌がらせの反復画面への嫌悪が、実験映画を鑑賞する快感に凌駕されてしまう瞬間!作者本人はこの作品を、計算ではなく無意識で作ったのではないかと思う。その無意識な純粋さは、鑑賞直後の夜中、私に悪夢まで見させた。今回の出品作家の中で唯一 20代で、いちばん若いこの作者の天然ぶりが、今後どういう作品に転ぶのか、楽しみだ。
小林紘子『序破急』( 1996年/8mm/12分 )
露出狂に一目惚れしたり、さらに積極的行動に出て拉致してみたり、『序・破・急』どころではない展開を見せるこのエグい作品は、しかし関西人らしいサービス精神にあふれていて、ユーモアに満ちているところが、特徴だ。よくあるひとりよがりのイタい世界ではない。「でも本当にこれでよかったのだろうか」と、暴走させた妄想の先に、さらなる自虐世界が広がる。「急」までの展開を、さらに発展させるために撮られたであろうこのシーンは、それまでの暗いシーンとの比較で、目の前が開けたように視界が広がり気持ちよく、うまく積み上げたそれまでの構成を破壊していて、心地よい。
小口容子『堀之内の路地の子』( 1998年/Hi-8→DV/22分 )
帯谷有理氏の企画『路地の子』シリーズに参加し、作られた作品。男性監督が女を撮る、のが多数であったこの企画で、私が男を撮るならこう、という試みで、受動的な若い男を言いなりにさせて脱がす、というシナリオを書いた。ほぼ時間の経過どおりに撮られた、ビデオでの記録としての作品。スタッフなしの二人きりの撮影空間が、シナリオと関係なく歪んでいくのが面白かった。
2014年11月1日(土)・2日(日)、
渋谷アップリンクファクトリーにて開催
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