
誰がぼくをここに遣わしたのか分からない
声をあげて祈るように――
この豊かな国(ランド・オブ・プレンティ)の光がいつの日か
真実を照らし出すように
(レナード・コーエン/ザ・ランド・オブ・
プレンティ)
9.11事件の衝撃の大きさは今更言うまでもないことだろう。それ以前と以降とで、人々の意識そのものを根底から―そして、殆ど強制的に―
変革してしまうような歴史的な事件であったことは疑いようのないところである。
被害を被った当事国たるアメリカ国民にもたらした影響は計り知れないが、マイケル・ムーアの名を引くまでもなく、
事件以降のアメリカ映画の多くに9.11事件の影を見出すことは容易い。だが、
本作ほど9.11事件とそれ以降のアメリカの現状を真っ正面から見据えた作品は、これまで撮られたことはなかったのではないだろうか。
異邦人であるヴェンダースゆえに撮り得た、彼の真摯さと誠実さが溢れた傑作である。
物語は、アメリカで生まれながら、アフリカとイスラエル育ちの少女ラナが、10年ぶりに帰国するところから始まる。
彼女の目的は亡き母の手紙を伯父ポールに届けることだ。
本作はロサンジェルスで再会した伯父と姪がニューヨークを目指すロードムービーであるが、実は物語の殆どは大陸横断旅行そのものではなく、
ロサンジェルスのダウンタウンとその近郊を舞台に進んでいく。
ラナの伯父ポールは、このロサンジェルスの街で唯一人「私設アメリカ警備員」として、
監視カメラと無線機を積んだオンボロ改造ワゴン車を駆り、日々怪しい動きがないかパトロールしている"変人"である。
ヴェトナム帰りの彼は、9.11事件を契機に祖国の危機を誰よりも強く自覚し、その危機意識は二年を経てなお衰えることがない。…
…否、寧ろその思いは彼の中で一人歩きしており、今や「人をみたら泥棒と思え」を地で行く自己完結型の妄想に変わっている。
自らの正義を頑なに信じる彼だけが、日々街角を監視し続ける自らの行動の異常さに気がついていないのである。
一方、ロサンジェルスの伝道所に身を寄せることとなったラナは、
そこでダウンタウンに溢れかえっているホームレス達の姿を目の当たりにして驚きを隠せない。その予想もしなかった光景は、
彼女がやってきたアフリカやイスラエルで目撃してきた光景と変わらないものだったからだ。
ラナはごく自然な気持ちで伝道所のホームレス支援活動を手伝いながら、伯父の消息を探し始める。
ここで我々はラナの眼差しを通じてアメリカの貧困層の悲惨な現実を目の当たりにすることになるが、
彼らの存在は先日のカテリーナの被災によって俄に脚光が集まったこともあり、記憶に新しいとはいえやはり衝撃的だ。
アメリカに限ったことではないにせよ、「世界の窮乏を救う」為に巨額の資金が第三世界に注ぎ込まれる一方で、
自国の窮乏が蔑ろにされているという現実を突いて見せるヴェンダースの眼差しは容赦がない。
やがて二人は再会し、
ダウンタウンで発生したアラブ系ホームレス殺害事件被害者の遺体を家族の元に送り返すために旅に出ることになる。
出発の際にポールがオンボロワゴン車に手ずから星条旗を掲げるシーンが雄弁に物語っているように、
二人がアメリカの二つの相貌を端的に体現していることは言うまでもあるまい。即ちポールはアメリカの狂気と独善、
排他性そのものであり、対するラナはアメリカの良心と善意、寛容性そのものであり、この二つの眼差しを通して、
本作は現在のアメリカの姿を浮き彫りにしているのである。
本作はその大部分を「警備活動」に勤しむポールの妄執的行動を軸に描いているために、
ともすると荒唐無稽さばかりが鼻についてしまうかもしれない。しかし、ここで見逃してはならないのはポールの人物造形であろう。
オンボロワゴン車を駆り、自らの正義を疑うことなく見えない敵を日々索敵し続けているポールの姿は、
痩せ馬ロシナンテに跨って自身の妄想的世界で冒険を求めて一人疲れ果てるドン・キホーテを完璧に踏襲したものとなっているのである。
ポールにはヴェトナム以来、彼に従い続けるジミーという忠実善良な「部下」―そう、彼はドン・キホーテの従者サンチョ・パンサに他ならない―
がいることからも明らかなように、この脚本はセルバンテスの風刺小説「ドン・キホーテ」に基づいたものなのである。
この脚本の仕掛けに気がつけば、本作のクライマックスの一つであるポールの「アジトへの強襲作戦」が、水車を怪物と見誤って突進したドン・
キホーテの有名すぎるエピソードを踏まえたものであることがわかるはずだ。余りにも見事に「ドン・キホーテ」を現代的にアレンジせしめた、
脚本のマイケル・メレディスの手腕にはただただ脱帽と言う他ない。
暗視装置を装備して「アジト」に突入したポールは、そこで寝たきりの老婆を目撃することになるが、
この場面に溢れる滑稽さと白けた空気、もの悲しさは筆舌に尽くしがたい。だが、
果たして独り相撲を取っていたポールを笑える者がいるだろうか。このポールの「痛さ」は、
イラク戦争を推進し続けるアメリカの(ブッシュの)「痛さ」に通じるものと言えるのだから。それを我々は、
世界は今もって止めることが出来ないでいるではないか。少なくとも筆者はポールを笑うことはできない。
かくして信じていた自分の世界が無惨に崩壊し、ポールは漸く現実に対して目を開く。
現実の痛みを乗り越えることなしには決して真実には辿り着けないものだが、現実は必ずしも痛みばかりではない。
そのことを再認させてくれるのが、ポールがラナと共にニューヨークに向かう旅路である。レナード・コーエンの「ザ・ランド・オブ・
プレンティ」をバックに流れる旅程の映像群は、健全で美しい世界の存在を垣間見せて観る者の心に沁み入らずにはおかない。
この映像群によって浄化されればこそ、旅の終着地であるグランド・ゼロでラナが言う「犠牲者の声に耳を澄ませよう」
という祈りにも似た訴えに、誰もが素直な気持ちで同意することができるのではないだろうか。
身内を不条理に奪われれば誰もが怒り、相手を憎むのは自然なことだろう。しかし、
テロの無限連鎖を断ち切るために、我々がなすべきは憎しみより怒りよりも、まずは犠牲者の死を衷心から悼むこと――。
綺麗事に過ぎるかもしれないが、しかし、そこから始めなければ世界の痛みと嘆きは決して止められないに違いない。
(2005.10.31)


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