本作は、アフガニスタンから父親と共にアメリカに亡命したカーレド・ホセイニのベストセラー小説「The Kite Runner」を映画化したものである。著者が幼少期を過ごしたソ連侵攻以前のアフガンの記憶をちりばめた原作は、移民文学として高い評価と人気を獲得、今回の映画化に繋がったという。
物語は2000年のサンフランシスコで、念願の作家デビューを果たしたアミールが、アフガン時代の恩人であるラヒム・ハーンから一本の電話を受けるところから始まる。「もう一度やり直す道がある」そう言われて帰郷を哀願されたアミールは、それまで固く封印してきた少年時代に犯した”過ち”を思い返し、タリバン独裁政権下の故郷へと向かうことにする。こうして物語はアミールの回想という形で少年時代を描いた後、現代のカブールに戻ったアミールが、ラヒム・ハーンから伝えられた「やり直す道」を進んでいく姿を追いかけていくことになる。
本作において観るべき価値があるのは、やはりアミールの少年時代の追憶を瑞々しく描き出した過去編だろう。ソ連侵攻前に「中央アジアの真珠」と呼ばれていたという往時のカブールの街並みを再現した風景の数々は、とにかく新鮮な驚きの連続だ。と言うのも、アフガンの首都カブールと言えば、空爆と砲撃で全壊半壊した建築物が並ぶ荒廃した街、というイメージが余りに強すぎるせいか、本作で描かれるているような長閑な日常がそこで営まれていたということが俄に信じられず、途方もない感慨を観る者に与えずにはおかないからだ。
そんなアフガンがアフガンらしさを保っていた黄金時代を背景に、アミールと兄弟同然に育った召使いの少年ハッサンとの、主従関係を超えた友情とその思いがけない終焉が丁寧に語られる。そして、ハッサンとの友情を放棄するに至った一連の仕打ちこそが、アミールの心の奥深くに燻り続ける”過ち”となるのである。
このアミールの少年らしい愚かさと残酷さに満ちた行動は、純粋さや潔癖さに起因するのではなく、自身の鏡像であるハッサンを直視できないアミールの弱さの発露と言えるだろう。自分の誕生と引き替えに母が死んだことに負い目を感じ、厳格な父に疎まれているのでは、という不安に悩むアミールの姿を描いたエピソードは、アミールの突飛とも言えるハッサンに対する行動に上手く説得力を添えている。
また、アミールの罪悪感を押し潰すようにソ連軍の侵攻という展開が続くが、これを劇的な転換としてだけでなく、アミールの行動とリンクさせている点も見逃せない。アミールの行動によって、召使いのハッサン父子は屋敷から出ていくことになるのだが、ソ連軍の侵攻によって、アミール父子もまたアフガンから出て行くことを余儀なくされる。こうして黄金時代のカブールでの記憶はアミールにとって苦い記憶として固定され、その後荒廃することになるカブールの街並は、アミールのハッサンに対する罪悪感という深層心理が投影されたものとして映し出されることとなるのである。
一方、後半は現実離れしたヒロイックな展開以前に、杜撰としか言いようのない作劇に大きな疑問符をつけざるをえず、観るべき箇所は殆どない。これは例えばアメリカでの生活と愛する妻との出会いを描くなど、単にエピソードを詰め込みすぎているという面も大きいが、何より過去編を受けた後半で中心に描かれるべきアミールの贖罪という面が極めて分かりにくいことに起因している。
特に問題なのが、後半が始まってすぐに明かされる「父親の秘密」である。恐らくこの秘密を暴露することで、後に続くアミールの行動に説得力を与えようとしたのかもしれないが、これは全くの逆効果になっていると言わざるをえない。なぜなら、その秘密は前半で描かれていた「厳格な父親像」を全否定するものだからである。前半において「嘘は相手から真実を盗む行為だから罪なのだ」と父親から教わっていたアミールが、父親が嘘を吐き続けていたという事実に接して何の反応を示すことなく、あっさりと受け容れてしまうのはどう考えても不自然すぎる。ここで描かれるべき父親に対する失望を無視するのであれば、前半でも父親に対する心理的な葛藤など盛り込まない方がまだ納得できただろう。
また、父親が罪を犯していたという事実の暴露によって、アミールの罪の重さが相対化されてしまっているのも作劇的に問題だ。結果的に、アミールによる決死行がアミール自身のハッサンに対する贖罪として行われているのか、或いは父親の罪に対する代理贖罪として行われているのかが酷く曖昧になっており、一連の流れにかなり強引な印象を与えることになってしまっているのは否定できまい。
だが、そうした作劇以上にこの現代編でどうしても気になってしまったのが、アミール=アメリカというスタンスが濃厚に漂っていることである。アミールは後半では一貫して「アメリカ人」として振る舞い続ける。そこに透けて見えるのは、アメリカを絶対視する素朴な意識だ。
勿論、タリバン制圧下のアフガンでの貧しい生活よりも、アメリカでの生活がより望ましいものであることは間違いないし、亡命移民としてアメリカで成功を掴んだ原作者にとっては、アメリカが楽園そのものであることは想像するに難くない。物語世界において、アメリカをそうした自由で安全で可能性に満ちた豊かな世界の絶対的な象徴として配置するのも、ある意味で当然のことなのかもしれない。
そうしたアメリカ移民的な感情が、物語に自然な形で反映されているは理解できなくはないのだが、ことアフガンに関した物語で、アメリカが正義の擁護者のようなニュアンスで描かれることに違和感を与えられるのも事実だろう。筆者がこの物語の美談的な面に素直に酔えないのは、本作がアメリカの闇に一切触れぬまま、アメリカに保護されれば幸福なのだというようなスタンスで幕が降ろされるからに他ならない。
作品内でも描かれているが、確かにカブール制圧時のタリバンが行った厳格すぎるイスラム教義の適用は凄惨で非人道的なものだったのは事実であるとはいえ、そこだけを取り出してタリバンのような「非アメリカ的価値」を単純な悪役に仕立てる姿勢は、余りにも安直すぎないだろうか。そもそもタリバンにそこまでの力を与える端緒を与えたのは、誰あろうアメリカなのだし、タリバンに向けられる批難の矛先は、嘗て支援者であったアメリカ自身にも向けられて当然ではないのか?
何よりアミールが無事アメリカに帰還した翌年の2001年、アメリカがアフガンをミサイルで攻撃したことについては一切触れようとしない。いくらフィクションとはいえ、これを欺瞞と言わずに何を欺瞞というのだろうか。
本作はアフガンの過去と現在を描いた作品ではあるが、話が進むごとに前半に顕著だったアフガン人の視点がどんどん薄まっていく。後半で描かれているのは、もはやアメリカ人の視線で見たアフガンの姿だけであり、幕切れ近くに至っては、アフガン人の義父が口にしたアフガン人的価値観に基づいた差別発言を、帰還したアミールがたしなめるシーンすらある。
勿論、差別発言を許容すべきだと言う気はさらさらないが、アメリカにも根強い差別の存在を棚上げして、アフガン人の伝統的な差別意識を否定してみせるこのシーンによって、本作がアミール=アメリカ的価値観を絶対的に肯定し、アフガン的な価値を否定する作品になってしまっていると指摘することはそれほど穿ちすぎとは言えないだろう。
失われた「アフガン的なるもの」を描き出そうとしていたにも関わらず、「アフガン的なるもの」を否定する形で幕を降ろしているという意味で、悲しすぎるほどありがちな「アメリカ人映画」になってしまっているのが惜しまれる。
(2008.2.12)
君のためなら千回でも 2007年 アメリカ
監督:マーク・フォースター 脚本:デヴィッド・ベニオフ 撮影:ロベルト・シェイファー
出演:ハリド・アブダラ,ホマユン・エルシャディ,ショーン・トーブ,アトッサ・レオーニ,アーマド・カーン・マーミジャダ,ゼキリア・イブラヒミ
2月9日より恵比寿ガーデンシネマ、
シネスイッチ銀座ほか全国ロードショー
君のためなら千回でも(上巻) (ハヤカワepi文庫 ホ 1-1)
早川書房
カーレド・ホッセイニ(著)佐藤耕士(翻訳)
発売日:2007-12-19
おすすめ度:
胸を締めつける名作です
民族問題と宗教問題
おすすめです。
原作はとてもよいが、翻訳が・・・
すごく「いい」小説です。
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主なキャスト / スタッフ
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Tracked on 2008/02/17(日)01:33:10
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