(2006 / アメリカ / マーク・フォスター)
文学的な、あまりに文学的な

仙道 勇人


Text By 仙道 勇人


(ネタバレの可能性あり!)主人公は僕だった1

 創作の秘訣を問われた作家が「キャラが動き出すのを待つ」と答えるのを耳にしたことがある人は多いのではないだろうか。新人脚本家のザック・ヘルムのオリジナル脚本を映画化した本作は、まさに「動き出したキャラ」という創作者ならではの着想を元にした、ユニークでテクニカルなメタフィクション映画である。


 物語は、ある朝突然、自身の行動を正確に文学的に描写する女性の声が聞こえてくるようになってしまったハロルド・クリック(ウィル・フェレル)の姿を縦軸に、ハロルド・クリックを主人公にした小説を執筆中の作家カレン・アイフル(エマ・トンプソン)の執筆風景を横軸にして展開していく。とにかくこの「作家が創作した人物と小説世界が現実世界にリンクしていた」というアイディアが滅法面白い。設定の荒唐無稽さで言えば「マルコビッチの穴」(99)に匹敵する不条理さではなかろうか。

 また、自分が小説の登場人物らしいと自覚したハロルドが、作家によって課せられた「運命」を回避すべく作家を探そうと悪戦苦闘するプロットは「トゥルーマン・ショー」(98)を髣髴させるものがあり、彼が作家との対面を果たす頃にはこの奇抜な作品世界にずっぽりとはまってしまう観客は少なくあるまい。


主人公は僕だった2 これはやはりアイディア以上に、脚本の構造が非常に良くできているからだ。物語と語りの問題に焦点を当てたメタフィクション性ばかりが強く印象に残るが、ハロルドが脳内に響く作家の声に振り回されれば振り回されるほど、当人の置かれた悲劇的状況の滑稽さが際立つに仕掛けになっている。その一方で、書き悩む作家の姿を楔のように打ち込むことで、単なるコメディ化を避けながら全編に絶妙な悲喜劇感を醸し出すことに成功してもおり、小気味よいハンドリングとメリハリの利いた演出で自然な形で観客を作品世界に引き込んでいく。

 描き出される人物像も一筋縄でいかない。腕時計に象徴された時間と数字に支配されたハロルドの姿は、機械的な生活やパターン化された日常を送る現代人に対する風刺になっているし、キャラクターを如何に殺すかで憔悴する作家の姿は、ハロルドとは逆に創作という無限の自由を与えられた者の葛藤が透けて見える。この作家が同じパターンの物語しか紡ぎ出せないのは、悲劇に対するアンチテーゼ――と言うよりも、登場人物の死をダシにしてカタルシスを稼ぐ安易な風潮に対する皮肉が込められていると同時に、自由を恐れ自由の重圧に耐えられない現代人の脆弱な一面を取り込んだ結果と言えるだろう。


主人公は僕だった3 しかし、こと魅力という点では、ダスティン・ホフマン扮する文学理論の教授ほど魅力的なキャラはいないだろう。この飄々とした人物はハロルドと作家を繋ぐ橋渡し役になるのだが、ハロルドの身に起こった現象を「文学的に」説き明かそうと試みる。その台詞には(イタロ・)カルヴィーノの名前がさり気なく挙げられており、そのソフトな衒学趣味は文学ヲタの心を否が応でもくすぐるに違いない。

 特にこの教授の存在は、ハロルドが恋をすることになるパン屋の女性(マギー・ギレンホール)と共に、ハロルドや作家のような「屍のように生きている人間」とは対極にある存在、人生を享受するある種の理想的な存在として描き出されている点も見逃すべきではないだろう。結果として、ハロルドと教授の間に芽生えるビルドゥングス・ロマン的な関係性をも切り抜いてみせることに繋がっている。


 ただ、全体的によく練り上げられた脚本であるのは間違いないのだが、本作を傑作かと問われれば、かなり躊躇われる部分があるのも事実だろう。と言うのも、本作には登場人物を支配していた個人的規範が転回される瞬間が映像として表現されておらず、なし崩し的に幕切れに突入してしまうからだ。

主人公は僕だった4 全ての映画の幕切れにはカタルシスが必要である、などという暴論を述べるつもりはさらさらないが、この作品にはせめて幕切れの前にでも「劇的な転回によるカタルシス」は必要だったのではなかっただろうか。何よりそうしたカタルシスというものは、物語の落とし所の目安になるものだし、劇中で「10年の沈黙を破るに相応しい最高傑作」と評された作家の作品の全容が全く明かされない以上、その結末がどのように書き換えられようとも肩透かしされた感覚しか残らないのは当然だろう。着想、構造、装置など、全般的にセンスの良さが感じられる脚本なのだが、文学的な手法から脱却し得ていないために、映画として着地させることに失敗してしまった面がかなり大きいのではないか。

 脚本家としてザック・ヘルムが本作で犯した唯一の失敗は、恐らくこの脚本を映画として発表してしまったこと、この一事に尽きるだろう。或いは小説として完成発表されていれば、押しも押されぬ傑作となったに違いない。


(2007.5.22)


主人公は僕だった 2007年 アメリカ

監督:マーク・フォスター

脚本:ザック・ヘルム

撮影:ロベルト・シェイファー

出演:ウィル・フェレル,マギー・ギレンホール,ダスティン・ホフマン,

クイーン・ラティファ,エマ・トンプソン,トニー・ヘイル,クリスティン・チェノウェス 他

公式

2007/05/23/00:04 | トラックバック (2)
仙道勇人 ,「し」行作品 ,今週の一本
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