(ネタバレの可能性あり!)
デビッド・フィンチャー監督としては、『セブン』以来の快作ではなかろうか。60年代後半から70年代末期にかけてアメリカで起きた連続殺人事件をモチーフにしている。タイトルロールの"ゾディアック"は、映画ファンにとって『ダーティハリー』の悪役"さそり"のモデルとして有名だろう。
はっきり言って映画としてのインパクトには乏しいし、派手な見せ場はない。いくつか出てくる殺人場面も、ショック効果は(フィンチャー監督にしては)控えめだ。実際にあった未解決事件の映画化なので、カタルシスの乏しさは最初から決まっているようなもの。にもかかわらず、この映画が終始魅力的な鈍い光を放っているのは、アメリカ映画界を代表するすばらしい俳優たちの熱演と、「仕事を忘れて事件にのめりこむ男たちのクロニクル」というドラマ構造にある。ジャンルとしては"事件モノ"だが、周密に書かれた脚本、アンサンブルの妙が楽しめる演技、透徹した映像美、センスのいい音楽と、総じて非常に丁寧に作られており、繰り返しの鑑賞に堪え得る硬質な作品に仕上がっている。
ノンフィクション作品を基にしているだけあって、筋の運びにケレンはない。1969年7月4日から無差別に開始される殺人。犯人から新聞社あてに送られてくる暗号を含む手紙。「劇場型犯罪」の嚆矢となったシリアルキラー、ゾディアックは、マスメディアを嘲弄することに深い喜びを見出しているらしい。担当刑事も事件記者も、繰り返される殺人、膨大な数にのぼる容疑者、状況証拠、有象無象の証言といった無限のデータに翻弄されるばかり。歳月は10年、20年と瞬く間に過ぎてゆく。
刑事も記者も仮定を立てては突き崩され、新たな証言に食いついてはまたまた新しい仮定を組み立てる。しかしそれも別の証言によって覆される。全編にわたって描かれるのは、ひたすらその熱意と失意の繰り返しである。終わりなき捜査の末に、刑事たちはしだいに疲れていく。ゾディアック事件以外にも、街ではありとあらゆる殺人事件が起きており、この特異な連続殺人事件にばかり固執できないのだ。手がかりや証拠品は磨耗し、当のゾディアック自身ですら人々の記憶から消えていく。こう着状態が続く中で、事件に新しい光を当てるのが、それまで傍観者に過ぎなかったイラストレーター、ロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)である。
事件当初から、ゾディアックの暗号文などがパズル好きのポールの心をくすぐってはいた。だが事件が風化しようとしているさなか、なぜ彼がそこまで肩入れをするかの具体的な理由はない。殺人犯は逮捕されねばならないから、などと嘯くが、要はゾディアック事件が織り成す複雑怪奇なパズルに心底魅せられてしまったのである。日本でも江戸時代の謎の浮世絵師・写楽の正体を探るあまり身を持ち崩す人が後を絶たないが、同じ穴の狢だろう。フィンチャー監督がその一人であることは言うまでもない。
刑事たちの蓄積してきた情報と自分の推理が合致したのを目にしたとき、彼はそれまで以上に猛然と動き始める。「猟奇島」という小説がからんでくる。その映画版がからんでくる。上映する前の映画のフィルムに付帯する丸十文字のマークがからんでくる。彼は誤った標的を追ったりしながらも、ぐいぐいと核心に迫ってゆく。物語の前半部分で活躍していた人物たちが、はじめは気乗りしない様子で力を貸す。しかし、ロバートの調査結果を見て、再び往時の熱意を取り戻してゆく。刑事たちは捜査にのめりこむあまり、「点」と「点」を結ぶ「線」を見落としていたのだ。
一方、ロバートは事件の調査にのめりこむあまり、家庭生活を疎かにしてしまう。正直に言うと、そうした描写はこれといって面白くはない。どこかで見たことがあるような「奥さんの不満」を描く場面は家庭生活第一主義のアメリカ人に向けて義務感で付け加えたようなものだと思うし、こちらもそれに付き合うほかない。また、ロバートが探偵役となる後半のパートには、不要にサスペンスを盛り上げる場面もなくはないが、それが彼の実感である以上、無碍に"無駄な描写"と退けることはできない。
ともかく、試行錯誤の末、ロバートはとうとう一人の容疑者に辿り着く。しかもそれは、我々観客にとって初めて目にする人物ではないのである。
深夜のコーヒーショップで、ロバートは自分でかき集めた証拠を、ゾディアック事件担当のデイブ・トースキー刑事(マーク・ラファロ)に突きつける。素人目にはその容疑者が真犯人であることは明白に映るが、トースキーは物証が揃っていないからと話に乗ってこない。業を煮やしたロバートは、「こいつが真犯人だと思うかどうかを心で見てくれ」と迫る。しかしトースキーは「おれは警官だからな」とやんわり拒否する。立場の違い、職業意識の違い、生き方の違いが鮮明に浮き彫りにされると同時に、刑事捜査の限界が露呈する場面だ。そこからは深く心のこもった場面の連続である。観客は黙って"真実の行方"を見守るほかない。
ここには筋骨隆々のブラッド・ビットもいないし、映画史上に残るような異常者演技を披露したケビン・スペイシーもいない。そのかわり、人間臭さと生活感とを漂わせた、アメリカ映画界を支える俳優たちがずらりと顔を揃えている。
中心となるのは、原作を書いたロバート・グレイスミスを演じるジェイク・ギレンホールだ。華はないが、彼がいるだけでなんとなく映画自体を信頼することができる。平凡さと誠実さと多少のマニアックな雰囲気。ベストのキャスティングだろう。トースキー刑事を演じるのはマーク・ラファロ。事件からどんなに歳月が過ぎても、彼は幾度となく初めてゾディアック事件に接したタクシー運転手殺害の現場に舞い戻る。何をするわけでもない。愛嬌のある丸顔でそこに佇むだけだ。それなのに事件に寄せる思い入れの強さがひしひし伝ってくる。『コラテラル』のハードな末路をたどる刑事役も良かったが、ここでの地道な捜査に取り組む普通の刑事像も味わいがある。
功名心からスタンドプレーに走るポール・エイブリー記者は、ロバート・ダウニーJrが演じている。顔を覆う髭と身軽なファッションは、『大統領の陰謀』のダスティン・ホフマンや、『セルピコ』のアル・パチーノをいやでも想起する。彼はやがて表舞台から去るハメになるのだが、そんな花形記者の凋落も、ことさらドラマティックに描いてはいない。酒や薬に溺れた私生活を重ね合わせたような役柄でリアルな好演を見せている。事件が起きた所轄の巡査部長、エリアス・コーティアスもいい。ある人物から事情聴取するうちに、部下の失策が犯人を取り逃がす結果になっていたことを悟る場面や、服務違反と知りながらもそっとロバートに資料閲覧を許す場面の細やかな演技など、さりげないけれど、うまい。ふやけた二枚目だったダーモット・マローニーが、刑事たちの上司を演じているのも時代の変遷を思わせ感慨深い。
おそらく映画の中で最大の目玉となる役どころを演じるのがジョン・キャロル・リンチだ。名前だけ見てもぱっとは思い浮かばないけれど、顔を見ればすぐに「この人か」とわかる典型的な脇役タイプ。個人的には『ファーゴ』のしがない絵描き役が大好きだ。彼がある人物とじっと見詰め合うシーン。その表情には、確かに深い闇が垣間見えている。他にも、フィリップ・ベイカー・ホール、アンソニー・エドワーズ、クロエ・セヴィニー、ブライアン・コックス、クレア・デュバルといった、それぞれ名前のある俳優が、小さいけれど重要な役で登場し、作品を重厚に彩っている。
映画はエピローグにいたり、大きく円を描いて1969年7月4日に始まる冒頭場面を観客の心に呼び戻す。真犯人探しに躍起になった多くの男たちの狂騒から、ひっそりと取り残された男がそこに姿を現す。人生そのものに敗れ去ったような無残すぎる姿が、誰よりも雄弁に犯罪者・ゾディアックへの怒りを告発する。謎解きに夢中になった男たちではなく、人生を真の意味で狂わされた彼をラストシーンに置いたことで、映画に品格と節度が与えられた。
見ごたえ充分、大変な力作である。
(2007.6.17)
ゾディアック 2007年 アメリカ
監督:デビッド・フィンチャー
脚本:ジェイムズ・バンダービルト
撮影:ハリス・サビデス
美術:ドナルド・グレイアム・バート
出演:ジェイク・ギレンホール,マーク・ラファロ,アンソニー・エドワーズ,ロバート・ダウニーJr,
ブライアン・コックス,ジョン・キャロルリンチ,クロエ・セヴィニー,イライアス・コーティーズ,
ドナル・ローグ,ダーモット・マーローニー











