10数年前に夫を亡くした90歳の老女が、長年住みなれた家を取り壊して三世代住宅を新築することになる。 思い出の残る家での最後の日々は緩やかに過ぎていき、ついに取り壊しが始まる。 そのひと夏の様子を慎ましく綴ったドキュメンタリー作品である。老女は監督自身の祖母であり、登場人物もほとんどが監督の家族だ。 したがって本作は"セルフドキュメンタリー"と呼ぶべきスタイルを持つが、監督は「私」性を可能な限り抑制し、客観的な描写に徹している。
老女は90歳にしては驚嘆すべき若々しさを誇るが、それでも老いは日常生活のところどころに綻びを生じさせている。耳が遠いため、 「ええ?」と相手の言葉を聞き返すことがしょっちゅうだし、スーパーではお釣りを貰い損ねそうになり、 餃子店で餃子を一パック購入するのにも一苦労。しかし彼女が老いを苦にしている様子はない。家を取り壊される感傷に浸るような気配も無い。 「長く住んだ家だから寂しいでしょ?」と息子に問われ、あっさり「そーでもないよ」と答える。強がりではなく、心底そうなのだろう。 劇的な変化をあっけらかんと受容することで、この老女は今日までの日々をしたたかに生き抜いてきたのだ。 「孫に自分のドキュメンタリーを撮ってもらっている」という、人生におけるささやかなイベント、 その嬉しさ楽しさを身にまとわせて周遊する彼女の姿は明朗そのもので、微笑を誘う。「終の棲家」という、 人生の終焉を匂わせるタイトルとは裏腹に、ヒロインは思いのほか明るいパーソナリティの持ち主なのだ。
家を取り壊すにあたって、思い出の品々の処分が始まる。彼女は息子と二人してその選別を開始するのだが、 ここでのやり取りが可笑しい。彼女は小さな木桶を捨てようとする息子を懸命に制する。それは彼女が一人でご飯を食べるときに使ってきた、 愛着のある品なのだ。一方で、老女が捨てようとする古い落し蓋を、息子は「これは大切だから」と言い張って捨てようとしない。 どちらの拘りも第三者には今ひとつ根拠がわからない。だがそのわからなさゆえに、各々の個人史と個性が見え隠れし、 何ともユーモラスで味わい深い場面になっている。
総じて良心的に作られた作品であり、心安らかなひと時を過ごすことが出来たが、 あまりにも上品すぎるという印象は最後まで拭えなかった。自ら被写体となり、祖母の台詞を巧みに引き出す、 一種の"インタビュアー"の役割をしっかり演じ切る監督の父親。16ミリキャメラによる、ショットごとの揺るぎのない構図。 明かりの消えた雑貨店の階段を登る老女を捉えた、きわめて映画的なショット。 クライマックスに賑やかな夏祭りの風景を挿入するあたりのバランスの取れた構成。これらの要素が相俟って、 作品のどっしりとした安定感に繋がっているのだが、すべてがきれいに収まりすぎたことで、逆に 「本当はもっとシビアな現実が隠されているのでは?」といった、余計な詮索をしてしまうのだ。
嫁、つまり監督の母親と祖母のあいだに不穏な空気が流れ、三世代同居生活の先行きを暗示する場面がある。しかし、 それ以上彼女たちの関係性に顔を突っ込むことを監督はしない。それが演出家としての限界といったものではなく、監督の狙いであり、 生来持つ品性であることはそれとなく理解できる。できるのだが、 セルフドキュメンタリーの特権である被写体との親和性を封殺したタッチの中で、こうしたなまなましい場面は却って浮いて見える。 もっと率直に言うと、作品主題の暗部に触れるには、監督の傷つき方が少し足りないのではないかなどと、少し生意気なことを思ったりした。
とは言え、ヒロインの山本マツが放つ類稀なる楽天性は、誰の頬をも緩ませることが可能だ。 老いることはそれほど怖くないのかもしれない――。ひょいひょいと階段を駆け下りる彼女の姿を見て、そんなことをふっと思わされた。
(2006.9.25)
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