(ネタバレの可能性あり!
)
映画を観続けていると、余りにも辛くなりすぎてスクリーンを直視したくない、しかし、
スクリーンから目が離せない――そんな作品に出会うことがある。勿論それは、鑑賞者側の個人的な感受性による部分が大きいので、
必ずしも万人から支持にされる感覚ではないかもしれない。しかし、筆者にとって本作「素粒子」はまさにそういった、
作中人物に対して過剰な感情移入を"強いられた"作品であった。ある意味で、この作品は危険だと思う。
本作は、フランスの作家ミシェル・ウエルベックの同名小説を原作にしているが、完全な映画化というわけではなく、 映画用にかなり脚色が施されているという。具体的には、原作に含まれていたSF的要素の徹底的な排除と映画独自のエンディングとのことで、 これが原作ファンからどのような評価を受けるのか、原作未読の筆者としては何とも言いようがない。しかし、 作品を観る限り大きな破綻や祖語は見当たらず、映画化としては成功と言っていいのではないだろうか。
物語は幼い頃に両親から養育放棄された異父兄弟のブルーノ(モーリッツ・ ブライプトロイ)とミヒャエル(クリスティアン・ウルメン)、それぞれが辿る愛の彷徨と遍歴を描いている。 二人の対照的なキャラクターを対比的に描く、という物語の骨格そのものは驚くほどオーソドックスでシンプルであるが、 本作のポイントは彼らの人格形成に母親の存在が強く影響している、という設定を組み込んだことにある。 それも物語の表層を繕うための設定としてだけでなく、作品テーマの根幹に密接に関わる存在として組み込まれており、 本作に刻印されたこの三角関係が物語を一層深遠なものにせしめたと言っていいだろう。
その母親はと言えば、ヒッピー・コミューンに出入りしてフリーセックス・フリードラッグを謳歌する女性として描かれており、
なかなかブッ飛んでいる。この「母親」と呼ぶには余りにも若作りで、自由奔放過ぎる(勿論、性的な意味でだ)彼女から、
思春期の微妙な時期に強烈な影響を受けてしまうのがブルーノで、彼は長じて作家崩れの高校教師になるも、
強すぎるリビドーを小説という形で昇華することが許されず、鬱屈した情念を常に募らせ続けることになる。
妻に欲情することができなくなって久しいブルーノは、思い余って女学生の一人にその欲情を受け止めてもらおうと試みるが、
当然の如く拒否されて、彼の人生は転落し始める。
一方、そんな"ふしだらな"母親とは距離を置き続けた結果、女性よりも数式に興味を持つようになってしまったのがミヒャエルで、
彼は分子生物学の分野で天才的な評価を受けながらも孤独な毎日を送っている。しかし、
祖母の墓石の移動に立ち会うために久しぶりに戻った故郷で幼馴染のアナベル(フランカ・ポテンテ)と再会し、
彼女から幼時からの思いを告げられて初めて彼は、自分の秘めていた思いを容認することができるのである。
一見すると、転落と上昇という相反する人生劇を兄弟を通じて描き分けているだけのように見えるが、 二人の状況はその後も不安定に揺れ続ける。妻に離婚を申し渡されて人生どん底のブルーノは、 休暇で訪れたヒッピー集団のキャンプ場で最良のパートナー・クリスティアーネ(マルティナ・ゲデック)と巡り逢い、 束の間の充足した日々を送る。対するミヒャエルは、アナベルという伴侶を得て我が世の春を送っているかに見えたが、 アナベルの流産と子宮摘出という知らせが二人の未来に影を落とすようになるのだ。
こうしてブルーノとミヒャエル、双方の人生における幸福と不幸の形が浮き彫りにされていくわけだが、 注目すべきはその全てがセックスを基盤にしている点だろう。実は、本作には「思いあう男女のセックスを通じてのみ本当の愛が生まれる」 というような、妙に古臭い観念が意図的に織り込まれている。フリーセックスを謳歌していた母親に対する反動として当然ではあるのだが、 兄弟それぞれが幸福感を味わうのは、まさにそうしたセックスを通じてであるし、 アナベルやクリスティアーネが揃って奔放なセックスがもたらす空虚感を訴えるのも偶然ではないだろう。これは兄弟の母親の死が、 忌まわしい存在の終焉であるかのように極めて即物的に描き出されていることからも窺える。
勿論、ブルーノとクリスティアーネの関係性においては現代の性と愛の不毛を、 ミヒャエルとアナベルの関係性においては素朴な生の賞揚を、それぞれ見出すこともできるだろう。だが、 後半においてブルーノが自らの弱さからクリスティアーネを劇的な形で失う、という事態を迎えることによって、 もっと別の意図が明らかにされる。つまりは、彼らが支配されているそうした観念は、全て幻想に過ぎないという仮借ない指摘である。そして、 そうした条件付けに縛られている限り、愛などというものはどこまでいっても個人的な幻想を越えることはできはしないのだ、ということなのだ。
かくして、余りにも悲惨すぎて観ていられないブルーノのラスト・エピソードをくぐり抜けて、
本作は怖ろしく穏やかな、静謐としか言いようのない幕切れを迎える。そこには「幸福」と呼ばれるべきものの本質――極めて
「個人的な」意味での――が確かに映し出されている。映し出されているのだが、果たしてこれを「幸福」
と呼ぶべきなのか些か躊躇われるのも事実だろう。
もしもこれが「幸福」であるならば、ブルーノが蛇蝎の如く忌み嫌った母親もまた、社会通念という共同幻想に縛られない「幸福な人生」
を送った者として肯定されなければなるまい。結局のところ、人が幸福に生きていくためにはどのような形であれ、幻想というものが必要なのか―
―最後の最後に立ち現れるこの問いかけが、本作の鑑賞後感を一層複雑なものにしているのは確かだろう。なんとも奇妙な味わいの作品である。
(2007.3.7)
主なキャスト / スタッフ
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