喜ばしいことに、ここ数年、土本典昭の仕事に再びスポットが当たり始めた。
ドキュメンタリー映画ブームといわれて久しいけれど、全体を俯瞰して見てみると、実態はそうポジティブに考えられることばかりではない。
最近になって、実作者や批評家による優れた論考が相次いで発表され、ようやく全体像が整理されたことで、諸々の問題点も明らかになってきた。
それらを考える立脚点として、土本典昭の仕事を見直すことは、非常に有効ではないかと思う。
例えば、次のような言葉について、いまドキュメンタリー製作に関わっている、あるいはこれから関わろうとする人には、じっくりと考えてもらいたい。
「記録映画は、私の場合、殆ど人と出遭う事業である」
「それとともに、カメラをもつことから始めて見えはじめる人間に投企するものであり、『被写体』という妙な言葉でいわれる対象者との関係から、真の人との出遭い、新しい人との出遭いを重ね、それを記録していくものだ」
あるいは、
「私が職業として映画を択んでいることは、私は素手素面の人間でなく、それの機能を付着させつつ、更に人間としていかに裸身にいたるかの自覚を深めることを自分に課する」
(『映画は生きものの仕事である』1974年未来社刊)
といった言葉について。
カメラその他の機材といった武器をまとい、時間を切り刻む編集権を持った映画作家が、映画作家という「生きもの」として、いかに他者との関係性を築いていくか。
この土本の投げかけは、ドキュメンタリーを営む者にとって(「すべての映画はドキュメンタリーである」というゴダールの言葉になぞらえれば、映画を営むすべての者にとって)、あまりに根源的であるがゆえに、あまりに尊い。
本作は、詳細なインタビューと土本の映画からの抜粋、さらに、ライフワークの舞台である水俣を再訪した土本が、映画に協力してくれた水俣病患者の人々と交流する姿を映し出し、前述のような命題を抱えながら、「生きものの仕事=映画製作」に従事する土本典昭その人の肖像を浮き彫りにしている。
監督の藤原敏史は、冒頭、まず自分が何者で、いかなる理由からこの映画を作るに至ったか、を観客に述べ、自分をはじめとするスタッフを(編集段階で、ある時点からは撮影段階で)意識的にフレーム内に入れ込んでいる。
映画製作のプロセスを明示し、日記的時間のなかで関係性がうつろいでいく過程を見せる(すなわち「生きものの記録」である)土本典昭の方法論が巧みに再現されているといって良いだろう。
さらに、本作は、土本が水俣と向き合うことで痛感してきた現実(ラスト近くの「水俣は隠蔽されている」という土本の言葉に象徴される)を受け止め、これからの時代に残し伝えようともしている。
藤原敏史が、土本から授かったであろう課題をもとに、「生きものの記録」たる映画を作り続けてくれることを期待してやまない。
(2007.6.1)
映画は生きものの記録である 土本典昭の仕事 2006年 日本
監督・編集:藤原敏史
企画・製作:伏屋博雄
撮影:加藤孝信
音響監督:久保田幸雄
監督補:今田哲史
インタビュー:石坂健治
出演:土本典昭
渋谷ユーロスペースにて、6月2日(土)よりモーニングショー(連日10:20am~)
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