特集
(2008 / アメリカ / スティーヴン・ダルドリー)
愛とは?罪とは?赦しとは?
――模範解答のない問いに挑んだ至高の作品

富田 優子

『愛を読むひと』1(結末に関する記述あり!)
この日を待っていた。世界的なベストセラーとなったベルンハルト・シュリンクの著書『朗読者』の映画化『愛を読むひと』が公開される日を。そして見終わった後に心の底からこう感じた。――待っていた甲斐があった!そして、この映画に携わったスタッフ、キャストに「(映画をつくってくれて)ありがとうございました」と心のなかで深々と頭を下げた。それだけ心に響く、素晴らしい作品だ。本作は今年のアカデミー賞で作品賞をはじめ5部門にノミネート。残念ながら『スラムドッグ$ミリオネア』の破竹の勢いの前に主演女優賞(ケイト・ウィンスレット)以外は惜しくも受賞を逃したが、もし筆者がアカデミー会員だったら、間違いなく『愛を読むひと』に票を投じていただろう。

筆者は、『朗読者』を日本語版が発表された2000年に読んでいる。1958年のドイツを舞台に、15歳のマイケルと36歳のハンナの出会いと別れが描かれ、やがて彼らは思いがけない場所――ナチスの戦争犯罪者を裁く法廷で傍聴人と被告という立場で再会するが、戦争犯罪やかつて愛した人の過去や罪や秘密を知ったら自分はどうするのか?などと深く考えさせられ、心に残る小説となった。これを『イングリッシュ・ペイシェント』(96)のアンソニー・ミンゲラ監督がこの小説を映画化すると聞いてから、心躍らせて待っていた。この叙情的で美しく心を揺さぶるような小説を映画化できるのは、『イングリッシュ・ペイシェント』の完璧な出来映えを考えると、ミンゲラをおいて他にいない!と直感していたので、映画化への期待は高まるばかりだった。ベストセラーの小説が映画化されるのはもはや既定路線となっているし、好きな小説が映画化されて嬉しく思った作品は数多くあれど、『朗読者』の映画化ほど熱望して、待ち望んだ作品はない。ただ、ミンゲラが製作にまわり、スティーヴン・ダルドリーが監督を務めることになって少々驚いたが、『リトル・ダンサー』(00)、『めぐりあう時間たち』(02)で確かな手腕を見せていたダルドリーのこと、絶対に外すわけはないと思っていた。そして期待通り、いや、それ以上の出来を目の当たりにして、全くもって至福の2時間4分だった。

『愛を読むひと』2原作ファンとしては、まず、何と言っても誰が主人公を演じるのかが重要なポイントだ。
ヒロインのハンナ役は当初、ニコール・キッドマンが演じることが決まっていたが、ニコールが妊娠により降板。代役としてケイト・ウィンスレットに決まったが、このことを聞いた時、ニコールには悪いが、ヒロイン交替が吉と出ると思った。「たくましいが女らしい体つき」「豊満な体つき」という原作の表現からのハンナのイメージは、ニコールよりもはるかにケイトに近い。 そんな期待が確信に変わったのが、15歳のマイケル(デヴィッド・クロス)が36歳のハンナの家を初めて訪問し、原作のとおり、ハンナがきみどり色の下着姿でストッキングをはくシーンだ。ハンナを演じるケイトの体からは匂い立つような柔らかな官能とリアリティがあり、生と性を感じさせる。思わずマイケルと同じように息を殺して、惹きつけられるように見つめてしまう。本作は全編を通してとても美しい映像で綴られているのだが、このシーンはそのなかでもベストショットの1つに入るだろう。原作の光景がスクリーンで再現され、それが予想以上に心を捉えるものであったなら、もう映画に引き込まれずにいられない。

そのケイトは、本作でアカデミー賞主演女優賞を獲得。過去5回のノミネートがあったがいずれも受賞まで手が届かず、本人はもとより、ファンももどかしい思いがあっただろう。だが作品同様、これまで待った甲斐があったというもの。彼女は『日陰のふたり』(96)、『アイリス』(01)、『リトル・チルドレン』(06)などでも潔い脱ぎっぷりを見せていて、女優としてのあっぱれな覚悟に畏怖の念に近い感情を抱いていたが、本作で披露した彼女のヌードは、過去の作品とは違うと感じた。失礼な言い方になるかもしれないが、『リトル・チルドレン』などでは大胆さと迫力を武器にして、訴えかけていたような感があった。
『愛を読むひと』3しかし、本作では激しく生々しいセックス・シーンを演じるというような、凄みがあるわけではなく、むしろ今までに比べれば控えめな印象だ。だが、ハンナというキャラクターに魂を吹き込んだのは、ケイトの体から湧き上がる存在感だ。それはただ単に豊満な体だから存在感がある、ということではない。ハンナのセリフはさほど多くはないのだけれど、ケイトはそれを補ってなお余りあるくらい、複雑な感情や官能を全身で表現していた。まさに「物言う体」とでも言うべきか。この難役はまさにケイトのための役と言っても過言ではない。これまで受賞を逸していたのは、本作で栄冠に輝くための単なる過程にすぎなかったのだ。今まで『タイタニック』(97)のヒロインという枕詞で語られることの多かったケイトだが、彼女の新たな代表作と呼ぶのにふさわしい本作で見事にオスカーを射止めたのは、こうなるべき運命だったのだなと思うと、感慨深かった。

また、もう1人の主人公マイケルを演じた2人の俳優も素晴らしい。まず、少年時代のマイケル役のデヴィッド。ハンナと出会い、恋を知った喜びに浸る初々しさ、ハンナが忽然と姿を消してしまったときの喪失感、8年後に戦争犯罪者を裁く法廷でハンナと再会し、彼女の忌まわしい過去と秘密を知った時の苦悩を見事に演じ分けていて、特にハンナに判決が言い渡されるシーンでの双方の瞳からとめどなく流れる涙に、やるせなさが溢れていて心打たれた。
さらに、マイケルの中年時代を演じたレイフ・ファインズも、デヴィッドが表現した苦悩を引き継ぎ、人との深い関わりをできるだけ避けようと心にバリアを張っている様を好演。レイフはここ最近、『ある公爵夫人の生涯』(08)での妻に無関心な貴族役や、『ハリー・ポッター』シリーズのヴォルデモート卿など、どうも一癖ある役を演じることが多かったが、やはり彼は『イングリッシュ・ペイシェント』や『ことの終わり』(99)でもそうだったように、人知れず恋愛に苦しむ、どこか陰りのある男性の役がぴったり。レイフの存在そのもので、少年時代の運命的なハンナとの愛が、マイケルのその後の人生に愁いや陰りを落としていることが分かり、まさに彼の本領発揮というところ。本作でのエモーショナルな演技で、なぜアカデミー賞の候補に挙がらなかったのか、不思議なくらいだ。
そう言えば、筆者は原作を読んだときに、マイケルの容姿をきちんとイメージできなかった。それは原作がマイケルの一人称で語られ、「ぼく」が「ぼく」自身の風貌について触れることがなかったことが大きな原因だろう。だが、スクリーンでデヴィッドとレイフの佇まいを目にした時、不思議と「そうそう、こんな感じ」とすとんと腑に落ちた。原作ファンも納得のキャスティングだ。

『愛を読むひと』4小説の映画化は、どうしても自分がその小説に抱くイメージに引っ張られる傾向がある。イメージが違ったり、原作でお気に入りのシーンが映画ではカットされていると怒り狂ったり、失望感も大きくなるが、この『愛を読むひと』には原作の世界観と映画のそれにズレは感じず、それどころか満足のいく出来映え。主役に関しては前述のとおり、まさにパーフェクトだったが、原作ファンとして最も感激したのは、マイケルがハンナのために本を朗読するシーンとハンナの刑務所の様子を描いたシーンだ。
恋に落ちたハンナとマイケルは毎日のように彼女の家で逢瀬を重ねる。彼女はやがてマイケルに本を読んでくれるように頼む。なぜなら彼女は「聞くほうが好き」と言うからだ。原作では具体的にどういう本をマイケルが朗読しているのか明確な記述はされていないのだが(『オデュッセイア』は明記されているものの)、映画では『オデュッセイア』をはじめ『チャタレイ夫人の恋人』『犬を連れた奧さん』などの一部をマイケルが朗読していて、ハンナがうっとりと聞き入るシーンはまさに映像冥利。小説では読者の想像に委ねられていたシーンだが、本作では観客の視覚と聴覚に働きかけ、これこそ小説を映像化した醍醐味というもの。特に読書が好きな人なら、嬉しくなってしまうだろう。
また、時が流れてハンナが戦犯として刑務所に収監され、中年となったマイケルが彼女のために再び朗読し、それを吹き込んだテープをハンナが聞くシーンだ。マイケルの朗読する声が寄せては返す波のように重なり合い、ハンナを包み込むようにも見え、非識字者である彼女の内面からある決意が湧き上がる様子を見事に演出している。そして、ハンナがマイケルの声に合わせて『犬を連れた奧さん』の本を広げて、字を覚えようとする様子、書き順は間違っているし、ぎこちない文字だが、読み書きができるようになった様子に心打たれる。ここも視覚と聴覚に訴えた映像の勝利と言えよう。
原作では、刑務所で服役中のハンナの様子を「ぼく」が直接見ているわけではない。だから彼女の刑務所での来し方は、「ぼく」同様、読者も、ハンナが自殺した後の刑務所長の説明から想像するしかなかった。だが、本作では彼女の刑務所での姿をあえて描いたことで、マイケルの朗読がハンナにとっての唯一の生きるよすがであったことが苦しいほど伝わってきて、感動的に仕上がっている。

『愛を読むひと』5これだけでも充分に満足なのだけれど、映画という視覚と聴覚に訴えられるツールを通すと、本を読んで考えさせられたことが、さらに重みを持って胸に迫ってくる。
原作を読んだときは、主にハンナとマイケルの愛の行方に心奪われたが、映画を見ると、戦争犯罪にどう向き合うかという、もう1つの重い問いかけがのしかかってくる。非識字者ゆえに、それを隠すために職業の選択が限られ、ナチスのユダヤ人強制収容所の看守となったハンナ。そのために罪を重ねてしまうことになる。ナチスの犯罪は許されることではないし、当然、それに加担していたハンナは加害者であることは間違いない。ハンナの裁判中、マイケルはユダヤ人収容所の跡地を巡る。愛した人の面影を辿るというよりは、彼女が犯した罪の重さを知るためだ。収容所跡の寒々しい様子やどことなく漂う死の気配に胸を締め付けられ、小説を読んだときよりも、心が暗くなる。
でも、ハンナだけが一方的に悪いのだろうか。どうしても彼女の立場は、日本のB・C級の戦犯として有罪判決を受けた人達を思い起こさせる。上官の命令には逆らえず、その時は「そうするしかなかった」。戦争が終わって時代が激変し、それが結果的に断罪され、翻弄されてしまう。単純な線引きで有罪や無罪を決めてしまって良いものか、頭を抱える。

同じ敗戦国でありながら、ドイツと日本の戦争責任の捉え方の決定的な違いとして一般的に言われていることは、ドイツでは戦争責任の所在が明確化され、ドイツ人がドイツ人を裁いたことで、一定の線引きができたとされていることだ。ハンナはナチス支配下の時代を生き、マイケルはその時代を知らずに育った。さらに、2人の間に戦争責任という太い線が引かれる。原作でマイケルは、世代間に横たわる葛藤や断絶について言及しているのだが、小説を読んだときはいまいちピンとこなかった。だが、映画を見て、戦争犯罪をその時代に生きた人に杓子定規的に押しつけてしまって良いものなのか、と考えさせられた。
原作者のシュリンクは1944年生まれで、マイケルと同年代(マイケルは1958年に15歳ということだから、1943年生まれと推測できる)。シュリンクは小説を「自伝的小説ではない」と発言しているが、原作で「ぼく」が感じる「世代の断絶」は、恐らくシュリンク自身も感じていたことであり、「ぼく」に反映させたのだろう。その「世代の断絶」がマイケルの世代に、戦争について「僕は知らなかったし、ナチスがしたことだから」とエクスキューズを与え、過去の戦争から目を背け、傍観者になっている。そう考えると、「世代の断絶」はなおさらリアルで根深いものに感じる。

『愛を読むひと』6ハンナに同情の余地は残されていると思えるが、だからと言って、彼女に赦しが与えられたわけではない。かつて収容所でハンナの監視下におかれたユダヤ人の生き残りの女性イラナ(レナ・オリン)は、どんなに時が流れようと――マイケルが彼女を訪ねたのは戦後50年ほどが過ぎていたが――ハンナを、ナチスを許しているわけではない。彼女の存在は、ハンナの罪の重さとともに、戦争の傷跡の深さを痛感させられる。彼女の痛みは一生続くのだ。それを思うと、ハンナと同じドイツ人としてマイケルが素知らぬ顔をすることはできない。もちろん、マイケルもハンナの罪について、許しているわけではない。だから、裁判から20年の時を経て、刑務所で再会したハンナに「戦争について考えてみたか」と問うし、ハンナが重ねてきた手を複雑な思いでそっと拒むのだ。彼もイラナがハンナを許すことを期待しているわけではないけれど、ハンナの遺志を実現することで、せめて自身のハンナへの愛に対する答えを、そして戦争に向き合ってきたことの意味の終着点を見出そうとしていたのだ。

その答えとして、原作にはないラストをダルドリーは用意した。小説の終わり方はどこか突き放した感があるが、マイケルとハンナの愛の結末としてはふさわしいと思っていて、納得していた。だが、ラストを戦争犯罪に対する答えだと解釈したら、原作のとおりに映画化した場合、恐らく観客は戸惑ったことだろう。ハンナの墓前で、マイケルは長らく疎遠だった娘ジュリア(『4分間のピアニスト』(06)でヒロインを演じたハンナー・ヘルツシュプルング)に、ハンナのことを語り始める。自分なりに体験した戦争――それはハンナを介して考えたことだが――を次の世代へ引き継ぐためだ。日本でも戦争経験者が高齢化しており、戦争の悲惨さをいかに次の世代へ伝えていくかが大きな課題だ。これは日本だけではなく、ドイツでも、そして全世界で必要なことなのだろう。戦争による負の遺産ではあるが、「断絶」したことでなかったことにするのではなく、「語り継ぐ」「次世代へ残す」ことの必要性をダルドリーは静かに伝えている。

『愛を読むひと』7人を裁くことは何と難しいことか。
人を許すことは何と難しいことか。
そして、人を愛することは何と難しいことなのか。
マイケルはハンナを裁くことも、許すこともできない。でも、せめて彼女の生きるよすがになることはできる。せめて彼女の罪と痛みに寄り添うことはできる。マイケルなりに歴史に対して、誠実に向き合おうとする思いに心打たれ、ほのかな希望の灯を見た気がした。マイケルとジュリアのラストシーンの季節は、厳しい冬の時期を耐えた早春の頃だろう。マイケルとハンナの最初の出会いも春のはじめだった。2人の愛が深まったのが夏、一転して裁判や刑務所の様子は寒々しく、冬をイメージさせ、そして、ラストで冬の終わりを迎えるという、まるで季節が一巡したかのよう。ラストシーンをこれから若草が萌え、生命の誕生を予感させる早春に設定したことで、早春の柔らかい日差しのなかで雪がゆっくり溶けていくように、マイケルの心のバリアが少しずつ消えていくようだった。

愛とは?罪とは?赦しとは?――模範解答はない。裁判中のハンナの「あなたならどうしましたか?」という問いかけが心に重く響き、この物語の本質を突いている。そして、少年時代のマイケルの「僕を愛している?」との問いかけが何と無邪気なものだったのか、とその対比に切なくなる。
もし自分がハンナなら、マイケルならどうしたのか?まるで出口の見えない迷宮を彷徨うかのようだ。だが、不思議なことに結論が出ないことへの苛立ちやもどかしさを感じているわけではない。この深遠な問いにじっくりと向き合いたい、ゆっくりと噛みしめたいという思いが強くなり、いつまでも心に残る、素晴らしい作品だ。

(2009.6.26)

愛を読むひと 2009年 アメリカ
監督:スティーヴン・ダルドリー 脚本:デヴィッド・ヘア 原作:ベルンハルト・シュリンク (原作「朗読者」)
撮影:クリス・メンゲス、ロジャー・ディーキンス 美術:ブリジット・ブロシュ
出演:ケイト・ウィンスレット,レイフ・ファインズ,デヴィッド・クロス,レナ・オリン,
ブルーノ・ガンツ,アレクサンドラ・マリア・ララ
公式

6月19日(金)より、TOHOシネマズ スカラ座ほかにて全国ロードショー

朗読者 (新潮文庫) (文庫)
朗読者
こわれゆく世界の中で [DVD]
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  • 監督: アンソニー・ミンゲラ
  • 出演: ジュード・ロウ.ジュリエット・ビノシュ.ロビン・ライト・ペン.マーティン・フリーマン.レイ・ウィンストン.ヴェラ・ファーミガ.ラフィ・ガヴロン.ポピー・ロジャース.ジュリエット・スティーヴンソン
  • 発売日:2007-09-19
  • おすすめ度:おすすめ度4.0
  • Amazon で詳細を見る

2009/06/30/20:00 | トラックバック (3)
「あ」行作品 ,富田優子 ,特集
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